後藤和智さんの新刊!(続)「おまえが若者を語るな!」 | 女子リベ  安原宏美--編集者のブログ

後藤和智さんの新刊!(続)「おまえが若者を語るな!」

 前回のエントリー の続きです。

 本題の後藤さんの本である。

 前著より、はるかに洗練されて鋭くなったと思う。その若者論を疑え! 」のときも、アマゾンで以下のレビューに一票!

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 『「ニート」って言うな!』所収の後藤の文章が印象に残っていたので、本書の刊行を知って早速読んだ。インチキ若者論への解毒剤、またはワクチンとして非常に有効だと思う。後藤は東北大で都市・建築学を専攻する院生だが、84年生とは思えないくらい成熟した視線の持ち主だ。
 ピンで勝負するには知名度の低い後藤の本を出すにあたって、たぶん編集者の判断だろう、序文代わりに巻頭に本田由紀(東大准教授)との対談を置いている。また1・2章の後に別ライターによる「若者のリアル」という取材記事が挟まっている。
 本田は『「ニート」って言うな!』での縁もあって対談を引き受けたのだろうが、しかしこれ、あまり愉快じゃなかった。本田は後藤の仕事に敬意を払いつつも、「すでにいろんな論者が指摘していることを、より細かく、言説に即して検証」するだけの「モグラ叩き」で、「オリジナリティ」に欠けるのではとツッコミを入れている(p24)。対して「私は、(中略)『元から断ちたい』というところがある」(p29)、と。
 しかし言っちゃ何だが、グローバライゼーション下での競争激化(p31)だとか、「権力や資本」(p32)を持ち出す本田の議論だって「すでにいろんな論者が指摘している」し、そんなに「オリジナリティ」豊かとも感じられない。「元から断つ」というような革命幻想よりは、むしろ後藤の「負ける戦いを続けている感じですが、統計を出しながら、『一面的な見方が間違っている』という思考が少しでも広がるようにと思っています」(p27)という言葉や、「私は『武器屋』」(p45)という自己規定のほうに、私はむしろ共感する。「モグラ叩き」で何が悪い?

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 そして新刊。「モグラ叩き」どころではなく、「腐っとらん巨神兵」を手にしたクシャナ殿下のようだわ(笑)

 論者たちの分析の筋の悪さを後藤さんの分析の言葉を中心に据えることで、かなり刺激的な本に仕上げている。90年代論者たちの「底が抜けた」言説が、実は若者にかこつけて「底を抜いてみたかった」という論者たちの気色の悪い破壊衝動であるかが非常によくわかる。「こりゃ雑草一つも残してはならんな」という気持ちにもなるだろう。きちんと全部抜かなくちゃ、という後藤さんのオタクらしい収集癖もこれまた一興。ネット上でチマチマと後藤さんに絡んでいたブロガーも約1名いたが、しっかり燃料投下になっているようである。


 本書の詳しい内容ではあるが、まな板に載せられている論者をここで列挙はしない。

 でもせっかくなので、私が書ける書評をちゃんと書ければと思う。

 いつだったか、後藤さんから、私がブログで引用したある思想家の言葉が印象に残っていると伺ったことがある。

 それはプルデューのこんな言葉だ。

 「最後の問題です。これまで述べてきた状況の中で知識人はなぜ曖昧な態度を持ちつづけるのでしょうか?知識人がいかに体制に屈服しているか、それどころか、いかに加担しているかを長々しく語ることはしません。きりがなくなりますし、気の毒な気もしますので。モダンとかポストモダンとかいわれている哲学者たちの間の論争に触れるにとどめます。スコラ的な遊戯に忙しく、ただ成り行きを傍観している場合はともかく、発言してもせいぜい、理性と理性的対話を口先だけで擁護するだけです。それだけならまだしも、体系的な著述を弾劾し、科学をニヒリスティックに糾弾しつつ、あのイデオロギーの終焉というイデオロギーのポストモダン版、実はラディカルシック版を担ぎまわっているだけなのです」

 http://ameblo.jp/hiromiyasuhara/entry-10037431937.html


 鈴木謙介の本の感想を書いたときのものだが、実は90年代の論者の中で一番せこくてずるいなと思ったのは鈴木謙介である。でもこのときは私がなぜ一番むかつくのかというのは、正直自分でもよくわからなかった。なんかせこいと一番感じたのである。その理由が後藤さんの分析を読んで非常によくわかった。

 その後藤さんの分析のくだりである。

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 「ネット右翼」に代表される、「事実」を元手にした言説(日本が朝鮮半島を植民地にしていた時代、日本は半島に対して差別ばかりではなくともいいこともしていたという事実を示し、それを基にマスコミの「隠蔽」「捏造」をたたくこと)の蔓延を解説した部分では、残酷さはいっそう際立つ。鈴木は、携帯電話で遺体を撮影する行為が増えていること(ただし証拠はその行為を驚いてみせる新聞記事を引用しているだけで数値的な根拠が示されているわけではない)を指し、現代人はメモリアルなものを失い、≪私たちは集合的な記憶ではなく事実を元手にした連帯を求めるようになっているという。そしてこう続ける。


 (鈴木謙介の文章から後藤さんが引用。ネトウヨの行動から見ると、“事実”を拾ってマスコミ批判してる行為そのものがいかんと飛躍している記述 安原略)

 

 どうやら鈴木はいわば「事実の時代」とでもいうべき現象は、決して「ネット右翼」に限った話ではなく≪マスメディアに対する偏向報道批判≫全体にわたっていると指摘したいらしい。そして≪偏向報道批判≫は戦後という枠組それ自体を否定する行為であり、その行為の正当性は、批判する側の内面にしか存在しない可能性があるらしい。

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 鈴木謙介はほかの記述でもそういった「事実の連帯」を批判している。つまり、「事実を追う姿勢」や「事実に基づいたマスコミ批判」そのものが、なぜか「戦後民主主義」を壊したり、「自己責任処理」につながる話になるらしいのだ。このロジックがせこい。


 ・いわゆる左派がイデオロギー的には連帯しやすいトピックのみから記述している。

 ・論理を飛躍させることで一見メタ視点に立ったかんじがする。10代くらいの子供なら頭よさそうに見えるでしょうね(棒読み)。

 ・ネット上の書き手の「内面」や「批判スタイル」のせいなので、その責任はマスコミや論者にかぶることはない。ようするに鈴木謙介自身もかぶらない。

 ・思いこみで書き散らすのは、データ検証などの手間暇がかからない。

 ・事実による検証がなくなって、社会はよりよくなるのだろうか?という反証的な視点がない。「物語こそが大事なのだ」という現実に虚構を持ちこむだけの意味がない話になるだけではないのだろうか?

 ・「大きな物語がなくなった」というお決まりの解釈が使えるから本人達にとっては便利。

・アキバ事件で現場で写真を撮っている若者が批判されてたが、鈴木謙介は「それは事実による連帯が悪い」と批判したのだろうか?そこでカメラまわしているマスコミも「事実による連帯」を助長するからまずいんだろうか?

 

 前回のエントリーでも紹介したが、結局、こういったせこい態度こそ「調べたって何もわからないんだ」的、大塚氏がイライラしてたラクチン思想でしかなく、「君たちは結局は何もわからないんだよ」と読者にいってるだけのように思う。それこそおぞましき「宿命論」だと思う。

 

 まわりを見てみればいい。ネット上で事実にそったマスメディアの報道の検証もあったから、「非正規雇用」の問題化も「医療崩壊」の問題化も「大野病院事件」の無罪もあったのではないか。「ゲーム脳」や「水伝」のおかしさだって、「少年犯罪凶悪化」言説だって、ネット上で煽ったら、きっと笑い者である。それは「事実」があってこそではないのだろうか。

 人の議論スタイルをみて、事実を軽視し、嗤っていることが「社会科学」なのだろうか?それは読者に結果的に「希望」を与えるものなのだろうか?鈴木謙介は気がついてるかどうだか分からないが、わが言説こそが「希望を与える」ものだと言っている。そこも含めて本書で後藤さんはさらに詳しく批判してひっくり返しているからよく読んでみたらいいんじゃないかなと思う。


 そんなに「事実」が嫌いなら、サブカル評だけやっていればいいんじゃないだろうか、と意地悪に言うこともできるが、私は思想や内面を記述する言葉が嫌いなのではない。現に後藤さんが心に残った言葉は思想家の言葉なのだから。



おまえが若者を語るな! (角川oneテーマ21 C 154) (角川oneテーマ21 C 154)/後藤 和智