「ウェブ社会の思想」読んだよ。 | 女子リベ  安原宏美--編集者のブログ

「ウェブ社会の思想」読んだよ。

 ブログで論宅さんに「安原さん、鈴木謙介さんの新刊でネトウヨっていわれてますよ、典型的だよ」(大意)っていわれたので、「ウェブ社会の思想―〈遍在する私〉をどう生きるか 」読んでみることにしました。論宅さんはコメント欄のやりとりの中で確かに「ふるまいでなく内容ですね、ごめんなさい(大意)」とおっしゃってるので論宅さんに別に何も言う気はないのですが、論宅さんのブログを読む限り読解力もあるであろうに、そういうふうにひもづけてしまうような記述はどうなんだろう?と思って読んでみました。

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 その中でも、特に本書の中で中心的に扱いたいのは、情報社会における「宿命」の前景化という問題だ。情報社会の現代における目標は、私の考えでは、おおむね次のようなものになっているように思われる。すなわち、社会生活のさまざまな場面で、自分は何を選んだか、何を考えたかということが、あるものは意図的に、あるものは自動的に蓄積されるようになる。そしてその個人情報の集積を元手に、次にするべきこと、選ぶべき未来が、あらゆる場面で私たちに提示されるようになる。アマゾンのお勧め情報から、ハードディスクレコーターの自動録画予約機能まで、こうした出来事はありふれたものになっている。そのことによって私たちは、それまでであれば気付くことのなかった選択肢を手に入れることができるようになるのだが、同時にそれ以外の未来があり得たことが、私たちの生から抜け落ちていくのだ。
 (略)そうした状況のなかで、私たちは自分の人生に、自分の努力ではどうにもならないこと、あらかじめ決められて避けられなかったこと、ある場所から未来が閉ざされているということの根拠となる「宿命」を求
めるようになっているのではないか。
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 あの、アレですか。ものすごく簡単してしまうと、ようするに、例えば、ネットで「ぶなしめじ」(オオゼキなら安くて1パック68円)のばっかり買ってたら、マツタケのご案内は来ませんよ。マツタケのおいしさを知ることなく人生終わってしまうかもしれませんよ、ってことですよね?…あのう…どこのひきこもりですかって正直思ったんだけど? ぶなしめじしか買えないってことのほうが問題なんじゃないの?

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 第3章でバーチャル社会とユビキタス化の二つの動向を踏まえ、個人の「記憶」の問題を考える。近年の情報化は私たちの個人としての生を、ますます「記録」として保存する傾向にあるのだが、それが「記憶」や個人の生にどのように影響するのかを論じる。具体的には、記憶よりも蓄積された情報のほうが、何かを判断するの際に優先されることで、私たちが自らの未来を宿命として生きるようになることが、そこでの主題となる。

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 私はこの本書のなかで批判(されてるのかな?)されてるCRMのコンサルやってたんですが、CRMっていうのは、そうですねー、「きのこ」みたいな言葉でして、きのこの中にも、しめじがあったり、エリンギがあったりするわけですね。その使われる料理もさまざまでして、「できた料理」がまずいとか金がかかりすぎだ弊害が出てるって話ならわかりますが、アマゾンのリコメンデーションシステムをとって「わたしたちの行動履歴のようなデータによって表象された「わたしらしさ」とでも表現するべきものに、自らの存在を賭けるふるまいが情報化の中で少しずつ浸透してくるのではないかということだ」って「自らの存在を掛ける」ってイマイチわかりませんがそんな大げさなものになるんでしょうか? 
 あと、携帯についてはあるデータをもとに記述をしていますが(94ページ)、「ひとりでいるのがつらい」「場から浮いていないか気になる」「会社で知らない話題が出てくると不安」という設問に「気になる」か「気にならない」かという「若者」に聞いたアンケート結果を出していますが、このデータにはユニバース(母数)もなければ、回答率もなければ、その若者の簡単な属性さえ掲載されていなように見えるんですが(どっか書いてます?)。

 まあそこがきちんとされているとしても、その3点しか質問してなければ、「誘導的」なアンケートといわれても仕方ないと思う。企業のアンケートでもアンケートのふりをして誘導的なマーケティングをするよくやる手でちゃんとしたデータをとりたい場合はやりません。もともとのアンケートはもっととっているなら、それを載せない編集意図がわかりません。

100歩譲って、その操作的定義に妥当性があって誠実にされているとしても、3つの質問のうちのひとつ「ひとりでいるのがつらい」気になる79% 気にならない64%である。たかだか10%の差。それをもってして「相手を友人として意識し続けるために、携帯電話でもコミュニケーション状態を維持することが不可欠の要素になっているということだ」と「不可欠」まで断定するのはどうかと思うのですが。こう〆ていらっしゃいます。「つまりコミュニケーションする相手が自分に対して仲のいい間柄を保ってくれることが期待されるのに対して、インターネット上でのコミュニケーションにはそうしたことは求められていないのではないか。」
 そもそも親しい関係を維持したい相手なら、電話であろうが会話であろうがネットであろうが、気は遣うのではないんでしょうか。その証明はしていない(別にする必要もないと思うけどね)。だからネットだとか、携帯だとかとリアルとバーチャルを分ける調査の意味がわからない。

 あと、この方の「心配」は「記憶に過剰に支配されちゃうー」ってことらしいのですが、あのね、人間は「記憶」もしますが、「忘れる」生き物です。ちなみにFAQ(よくある質問集ですね)づくりも顧客の問い合わせを分析して作ります。これもCRMの一種ですけど、一番多い問い合わせは「ID忘れ」です。
 あとデータのひもづけもこの方たちは以前心配されてされてたような記憶もありましたけど、社保庁の大騒ぎ見てわかるように、勝手にひもづけるとああいういいかげんなことになるので、手間はかかりますがお客さん自身に、ひもづけてもらうのが一番安全です。で、そういうのがかなり大変だからああいうことになってるわけです。

 たとえばECだと受注のデータベース、オーソリのデータベース、発送のデータベースが全部わかれている場合が多かったりで、カスタマーセンターのオペレーターが3種類のデータベースを駆使しないと、問いあわせに答えることができなかったり、それによって「アバンダン率」(電話をとれなかった率)があがるし、結果クレームになって従業員のストレスもあがるのでその率の削減を目指してシステム開発をやることなどもあります。それもCRMです。あと、その購入履歴を「監視」しているという心配ですが、そんな余裕があれば派遣の問題なんて出てこないでは?
  で、えっと、トイレで尿とかの成分を管理してもらうシステムが将来医療機関に渡されることになるかも・・・・っていう未来予測は、どうなんでしょう? 「療養病床」なくして家族に介護押し付けようとしてる「ほっとこうぜ」権力こそ地獄絵図だと思いますよ。そこまでの「監視」に手間払ってくれるようになるのかねと思いますね。「監視」って逆の言い方すると「過剰に面倒みよう」って話じゃない?金持ちが自分でお金払ってするようになるかもしれないけどね。それにそれがやだったら拒否すればいいんじゃないの?拒否できる「自由」がなくなれば問題化すればいいんじゃないかなーと思いました。

 あとちなみに「購買履歴」は「個人情報」ではありません。「個人を特定できる情報」が個人情報です。
 あと「個人情報」について明らかに問題なのは、「個人情報保護法」ができて、漏洩事件が大々的に報道されて、ものすごいバッシングを受けるから、社内で個人情報保護のために、正社員じゃなきゃ触れないとか、派遣はすさまじい誓約書を書かせられるとかで解雇の口実になってたりってことじゃないの? で、別にセキュリティなんか別に必要のなさそうな会社でもセキュリティが導入されて「あのー不便なんですけど」って余計な業務が増えるってとこじゃないの?ちなみに私はフリーエージェント契約で企業にいましたが、途中から個人情報を抽出するルームには入れなくなりました。ものすごい不便でしたけどね。

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2006年、Nという小さな町で殺人事件が起きた。それは、高校生の男の子の男子が遊び仲間だった女子中学生を殺害したという、頻繁に起きるというわけではないが、ありきたりな「少年犯罪」のカテゴリーに入れられてしまうような、数ヶ月もすれば人の口の端にものばらなくなるような、そういう類の事件だった。(略)
 私がその事件に興味を持ったのは、マスコミやネット上で話題になっていた、被害者の少女のウェブ日記を目にしたのがきっかけだった。そこには加害者であるとされた少年を含めた遊び仲間とに日常や、家族との関係、日々の心情がごく短い文章で綴られていた
 事件の真相がどのようなものであったのかを、私には知る由もないし、その点に興味があるわけでもない。(略)
 「郊外型の犯罪」というコメントへの違和感は快速に乗ってN町へ向かう途中で除々に確かなものへと変わっていた。N町への手前の駅は、山間の村にありがちな田畑と山と川しか見えないような場所であり、駅前から「助産院」の文字が見えた。(略)
 たとえば少女の日記にはたびたび、パソコンや携帯電話の利用を禁止されたことへの不満が綴られている。また「誰でもいいからメールちょうだい!」といったメッセージも何度か登場している。こうした記述から伺えるのは、少女がケータイ依存、ネット依存の状態にあったのではないかということだ。それはつまり四六時中ネットに接続された状態で、誰かとメッセージをやりとりしてないと不安になるという状態のことである。たとえば、携帯電話の電波が入らないと落ち着かないとか、メールの着信を何度も確認してしまう、といったことが具体的には挙げられる。

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 三浦展ですか・・・そうですか。興味がないならやめたほうがいいと思うけど? ネットが「殺人の救いにならなかった」1例ってこと、それとも「ケータイ依存症が原因の事件」の1例っていうお見立てですかね?そう「誤読」されてもしょうがない文章なんじゃないの?


 そして、論宅さんが「私がネトウヨ的」と思った「構造分析」されてる部分ですね。

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 むろんその「事実」なるものは、彼らの生きる〈現実〉を構成するために恣意的に選択されたものであり、それを含む現実が他者にとっての現実でもあるという出来事から目をそらすことによって特権化されたものである。ここにも情報化によってさまざまなものが可視化される一方で別の可能性が不可視化されるという事態が生じているだが、そこでも忘却された共通の事実という地平を回復するのは非常に困難である、というのも〈現実〉を生きている人々にとってそれを掘り崩す前の「事実」は「洗脳」やメモリアルなもので虚飾された偏向した出来事でしかないからだ。
 メディアに対する偏向報道批判という現象は、その意味でより注意深く検討されなくてはならない。すなわち、ある事実が「偏向していない」と見なされる根拠は実は批判する側によって選びとられた〈現実〉の中にしか存在しない可能性があるからだ。

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 「水伝」に対して「事実」できちんとした批判をしている方たちや、「ゲーム脳」や「脳内汚染」批判や、科学的な話がほぼない「バーチャル社会の弊害から子どもを守る研究会」(長いなー 笑)とか「教育再生会議」を批判している人たちも、こういった「ネトウヨ」的な文脈の延長戦上の「心」なんですね。ふーん。私も「虚構」とか「物語」だよってことね。だいじょうぶ論宅さんまちがってない!

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 「希望」ということにどうしもこだわりたかったのは、昨今、思想、論壇界隈に限らず、マスメディアでもネットでもおまえの言うことは一から十までまちがっている、と否定したり、とにかく自分の言うことだけが正しいのだ、と断定したりする物言いが目立つことに悲しい気持ちにさせられることが多かったからだ。こうした独善的な物言いは、おそらくそうすることでした自分の立ち位置を示すことのできない現状の空気を反映したものだろう。

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 誰のことだろう・・・(笑) 若者への「希望」というのは別に私もそう思います。でも「希望」をもたせたいのであれば「宿命論に陥るかも」と言うことでなく、そういった科学的な検証をネットで地道にやっている若者たち(かどうかはしらんが)が実はすごく少数なんだということではないのかしら? 「1人でも変わるんだ」ってことなんではないのかしら。

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 特にサブカルチャーについては、科学的な言説と関係ない、印象論的なものになりがちであることから、できれば論じたくない気持ちが強かったのだが、思い返してみれば、自分が曲りなりにも「知的」なものに興味を抱いたきっかけは浅羽通明氏や大塚英志氏、宮台真司氏などの「著作」における「思想・時事問題・サブカルチャー」の三大噺をあざやかに分析してみせる、その手つきに惹かれたからだった。

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 個人のあこがれとか癒しとか信仰とか初心とかはぜんぜん否定しません。これからもどうぞがんばってくださいね!

 

最後に。フランスの社会学者・思想家プルデューの言葉を。

「最後の問題です。これまで述べてきた状況の中で知識人はなぜ曖昧な態度を持ちつづけるのでしょうか?知識人がいかに体制に屈服しているか、それどころか、いかに加担しているかを長々しく語ることはしません。きりがなくなりますし、気の毒な気もしますので。モダンとかポストモダンとかいわれている哲学者たちの間の論争に触れるにとどめます。スコラ的な遊戯に忙しく、ただ成り行きを傍観している場合はともかく、発言してもせいぜい、理性と理性的対話を口先だけで擁護するだけです。それだけならまだしも、体系的な著述を弾劾し、科学をニヒリスティックに糾弾しつつ、あのイデオロギーの終焉というイデオロギーのポストモダン版、実は「ラディカルシック」版を担ぎまわっているだけなのです。」96年