原作は、漫画家の桜沢エリカが映画用に書き下ろした作品。


大学卒業を控えたさよは、タイの古都、チェンマイのゲストハウスで働く母、京子を訪ねます。4年前、祖母にさよを預け、旅立った京子は、小さなプールのある場所で、オーナーの菊子や手伝いの市尾、タイ人の少年、ビーたちと楽しそうに生活していました。それぞれの事情を抱えた5人の6日間を描く作品です。


本作で見事だったのは、京子がさよを祖母のもとに置いてチェンマイへ来た理由を「好きだから」としたこと。「子どもがいたから好きなこともできなかった」という言い訳は、子どものための自己犠牲を表現しているようで、実は、自分の選択の責任を子どもに負わせる無責任さにも繋がるものでしょう。京子は、自分のことを自分で決めてきたのでしょう。子どものせいにも家族のせいにも境遇のせいにもせずに。


そして、さよに謝らなかったこと。そう、謝るべきではないのです。さよは、きちんと育ったのだから。さよは、自分がちゃんと大人になっていることを誇ってよいのだから。ここで、さよに謝るということは、京子のせいでさよの人生が何らかの形で傷ついたのだと京子自身が捉えているということになるわけです。京子が、今のさよを見て「ちゃんと育っている」と思えるのなら、京子のすべきことは謝罪ではなく、さよを温かく迎え入れることなのです。


大体、一人娘を置き去りに...といっても、ちゃんと育ててくれる人のもとに残していったわけだし、事実、ちゃんと育っているようだし...。そもそも、親なんて、子どもの人生に責任を持てるほど、偉い存在なのではないのかもしれませんし、そのことを親も子も自覚すべきなのかもしれません。


もちろん、さよが、母親のいない寂しさを感じたことはあったでしょう。けれど、親子の間柄というものは、関わりが濃すぎれば濃すぎたで、時には、殺人事件になる程、鬱陶しくなるもの。京子の言うように、ただ単に、「一緒にいればよい」というものでもないわけで、その親子の置かれた状況、それぞれの性格などによって、どんな関係の持ち方が理想的かは全く違ってくるもの。


それに、ぶれることなく自分の道を自分の責任で歩む母の姿を見ることは、さよにとっても、決して、悪いことではなかったはず。


一見、癒し系で、時々、睡魔に襲われるほどのゆったりした雰囲気の作品ですが、相当に過激なものが隠されている作品だと思います。


お客もいなさ気なゲストハウスで働く京子がどうして食べていけるのかは???ですが、まぁ、それはイイとしましょう。あの"共有リビング"、台風でも来たらどうするんでしょう?電子レンジやPCなども置かれているように見受けられましたが、大雨+暴風で全部、使えなくなりますよね?季節的に大丈夫だったってことでしょうか?


京子を演じた小林聡美の弾き語りが見事。曲の雰囲気が本作とピッタリで耳に残りました。作詞、作曲共に小林聡美なのだとか。こんな才能もあった人だったとは!驚きました。


かもめ食堂 」や「めがね 」以上に、何も起こらず、ほとんど何も説明されず、時の移ろいが描かれます。不親切な作品かもしれません。けれど、その不親切さが、映像の奥にある広がりを見せてくれています。そして、「めがね」の時に感じたやたらとダラダラお気楽に黄昏てしまった雰囲気がなく、むしろ、"癒し"の空気を支える厳しさのようなものを表現している点で好感を持てましたし、その部分があったからこそ、"癒し"の空気が観る者の心に沁みるのだと思いました。


沢山の人が楽しめるエンターテイメントとして優れた作品かというと、大いに、疑問です。大人の世界で突っ張ることに違和感を覚えた時、静かな部屋で、こんな映像を見ながらゆったりとできたら、きっと、疲れが取れることでしょう。心地よい休みをもたらしてくれる作品だと思います。


時折、眠ってしまいましたが、また、映画館に行ってしまうかもしれません。



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http://pool-movie.com/