新本格魔法少女りすか | お役に立ちません。

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本・漫画・映画のレビューブログ。
本は月に10冊ほど、漫画は随時、
映画はWOWOWとTSUTAYAのお気持ち次第(笑)

西尾 維新
新本格魔法少女りすか

僕の繊細さが受け入れられないなら

世界よ、滅んでしまえ。

だけどやっぱり怖いから、

女の子よ、僕を愛してくれ。


さすがに、

日本がどこかおかしくなってきていると思った。


奈須きのこもそうだったけど、

極度な自己中心主義と、完全なる受容のみで理解される愛。


問題は、こういう物語が書かれることじゃなく、受け入れられる土壌。

西尾維新は意識的に歪んだキャラクターを作っている。

時代のエッセンスを凝縮して上手にエンターティメイントしちゃってる。

そしてそれを出版社が大々的にプッシュし、受け入れられている。

それが、問題。


真新しい物語が求められて、

ここまでエキセントリックなものが受け入れられているだけならいいんだけど、

それだけじゃなくって、

りすかの『愛』が美しいものとして、その『許し』が素晴らしいものとして描かれ、

受け入れられている雰囲気があること、それも問題。


物語は表面的には、

おたくカルチャーを散りばめたエンターテイメント。

だけど、その裏側にはぼろぼろで傷だらけの病んだものが見え隠れしてる。


リストカットからりすか。

いつもカッターナイフを持ち歩いて、自分自身を傷つけることで魔法を使い、

最終的には死ななきゃ敵を倒せない。

”痛み”を全て押し付けられた女の子。


対して、支配気取りは男の子。

供犠創貴(クギキズタカ)。

犠牲として供される、創痍、つまり刃物で受けた傷、もしくは精神的痛手。

または、創造の創、そして貴重。

いくつもの含意を持つ名前の主人公。

存在の芯は深く傷ついたものだけど、

10歳にしてだれよりも頭がいいと思っていて、

「おれは正しい!」「おれは正しい!」と叫んでいる。


りすかはロリータとしての少女形態と、

セックスシンボルとしての大人形態を持っている。


少女のときは特徴的な言葉使いと、どこか抜けている性格で

主人公の奴隷的存在。と言うか奴隷。

主人公が自分で言ってるし。


大人のときは好戦的な人格崩壊者。

躁病かと思うくらいのハイテンションと残虐性。

それからセクシャルな身体。


単純に、欲望の入れ物ですね。


んで、その裏では”痛み”の代行者。

だって、毎回死ななきゃ事件は解決しないんだよ?

物理的痛みを一身に受け入れている。


欲望の対象で、

痛みを引き受ける代替で、

それから『許し』をおこなうもの。


わたしが一番、「おかしい!」と感じるのはココ。


奈須きのこもそうだったけど、

おたくカルチャーで扱われる『許し』は『徹底的な受容』。それのみ。


人を殺しても、

倫理に反しても、

何をしても『ただ受け入れる』。

「どんなことをしても、あなたを許すよ、受け入れるよ」

それが素晴らしい愛のように描かれてる。


”りすか”では、

主人公キズタカは、自分の都合の為に級友を殺し、

目的の為に奴隷として働く人材を求めている。

でもそんな罪も嘘も「許してあげる」。


奈須きのこの「空の境界」では、

主人公の男の子が、ヒロインを徹底的に許し、受け入れる。

どう見てもヒロインが人殺しをしている現場を見ても(本当はヒロインじゃなかったけど)、

主人公を殺したいと襲ってきても、

無抵抗に無条件に信じ、許す。


これだけ書けばいかにも無償の愛のようだけど、

ただただ全てを受け入れ、何でも許すことが愛じゃあないはず。


罪は罰し、間違いは正す。

そこをきちんとやってこそ、

本当に相手を許し、愛せるはず。


絶対的に、無条件に受け入れられなければ安心できないんだろうか?


主人公は万能感を持ち、

だれよりも頭がいい、と思い信じふるまっているけれど、

それはおびえの裏返し。

ぼろぼろに傷ついて、ちょっとやそっとでは癒されなくて、

名前どうり、まるで供物に供される如く犠牲にされている感をもつ。


多分,好んで読んでいるひとたちはここに共感するんだと思う。

俺は傷ついているんだぞ、

ぼろぼろなんだぞ、と。


諸々目にするところを見て最近思うのは、

こういうの、多いんですよね…

自分はすごく頭がいいと思っていて、

でも周りは全く自分を受け入れてくれなくて、

自分の理想の世界で生きられない憤りと、創痍。


半分以上本人の問題なんだけど、

本人の中では自分は正当な評価がなされない哀れな犠牲者。

高すぎるプライドと、繊細すぎるこころはどんな小さな否定でも耐えられないから、

完全なる受容が素晴らしい物に思える。


でもそれは愛じゃなくってただのいれものだ。

ただなんでも受け入れているだけ。

その装置は人間ですらある必要が無い。

都合のいいもの。


まるで不信心者の十字架みたいに。


西尾維新のおそろしいところは、

たぶんこれらをみんな分かっていて、あえて物語の主軸に据え、

なおかつ茶化して、面白いような今流行のエッセンスを過剰に撒き散らして

上手に纏めていること。


作者は諧謔と思っていても、

これを表面的に全て受け入れる人が

少なからずあるだろうことがおそろしー。


それにしても、

善人も悪人も命の重さは同じ、と言う台詞の間違った使用法はどうだ。

完全に詭弁として使用されていますよね。

その台詞一つと不幸で、

人質になった級友を助けに行った自分が都合で殺しちゃうって言う行動が

うやむやに許されちゃうってどうなの。