生きていくには、何をしたっていいのです


言わずもがなことですが、
人を傷つけないのなら、自己責任の上において、自己完結するなら、それでいいのです。


人から、偏見を受けるようなことであっても、一切、構わないのです。
無神経な人の言動は気にしなくていいのです。見られないようにすればいいことです。

例えば、リストカットなどの自傷行為は、

【リストカット☆生きるための儀式】

であり、

【リストカットする人は、人を傷つけずに、自分の心と身体を傷つけている人】

なのですね。


偏見や誤った見方があるので、このアメブロにおいても、禁止語句となっています。


プチリスカやプチ鬱などの言葉
も、その人が自ら使われるならば、特に問題はありません。
しかし、そうでない人が使われると、ご本人たちは傷つきます。
それは、偏見があるものだからですね。


例えば、偏見のないインフルエンザのことをプチインフルエンザと言ったところで、
ほとんどの人は傷つかないでしょう。


依存を誤解されている方もおられます。

しかし、

【自立は依存によって裏づけられている☆依存とは】

なのですね。

その記事に書いておりますもの改めて並べますと、

・仕事
・学問
・お金
・名誉
・プライド
・自傷行為
・OD(オーバードーズ【overdose】の略:薬物の過量摂取)
・ギャンブル
・恋愛
・肉体関係(SEX)
・買物
・食べること(過食)
・食べないこと(拒食)
・アルコール
・インターネット
・家族
・子育て
・しきたり
・しがらみ
・文化
・伝統
・人助け(ボランティア活動)
・創作活動
・人へのやさしさ
・自己陶酔(自分への依存)




嫌いと思ってもいいのです。
それが、血が繋がっていようがどうだって関係ないのです。

「嫌い」という言葉が嫌いな方がおられます。
でも、苦手な人は必ず存在します。
その苦手な人と一緒にいる時間はどうでしょうか。とても苦しいものです。

一緒にいたくない=苦手=好きではないということであって、
好きではない、ということは嫌いなんですね。
人間は、心の奥底の気持を隠そうとすると、その反動で心と身体に影響が出ます。

それでも苦手な人と一緒にいなければならない環境の場合は、表面だけ合わせておけばいいのです。
でも、これも程度で限界が来たなら、離れるべきです。逃げるべきです。
逃げるという言葉に抵抗ある方もおられますが、

すべての人間は、いつも何かから逃げて生きているものです。
(※注:様々な事由で、逃げることが困難な方もおられます)


そうして、心と身体の影響を最小限に留めて、いわば、余力を残すのです。

その余力をあなたを待っている人や他のつらい方のほうに振り向けることのほうが
どれだけいいことでしょう。

民主主義というものがあります。
これは素晴らしい制度です。言論の自由があります。
その素晴らしいところは、その民主主義を否定する人をも受け入れるというところです。

しかし、それでも人を傷つける行為にはペナルティが待っています。

なにごとも程度はあります。

人を傷つけることもいけません。

それらでない限り、

人間は、何かに依存しないと、
何かから逃げないと生きてはいけません。

生きるためには、何をしたっていいのです。