佐藤庫喜 - 大正時代、殿様と呼ばれた男! | 由布市商工会 挾間支所のブログ

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佐藤庫喜(さとう くらき)安政元年(1854年)生まれ - 大正十年(1921年)没

明治三十七年三月一日の総選挙で憲政本党に属し、大分県内最高点で衆議院議員に当選した方です。
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この方こそ、今の由布市を創った人と言っても過言ではありません。
生まれは、現在の由布市挾間町小野、当時は大分郡谷村大字小野字中村。

慶応二年(1866年)鑰小野井路修繕監督 ※1 
慶応三年(1867年)熊本藩英式練兵小隊長
明治六年(1873年)三大区二十四小区保長 ※2
明治七年(1874年)副戸長
明治八年(1875年)小区副戸長
明治九年(1876年)戸長
明治二十二年 谷村村長
明治二十四年 郡会議員
明治二十五年 県会議員
以後、県参事会員、県農会評議員、郡産牛馬組合長、県農工銀行監査役等を歴任
明治四十一年 衆議員議員に再選され四十五年まで在職した
その後も、大湯鉄道株式会社副社長、提子井路、鑰小野井芹瀬普通水利組合会議議長その他の役職につき、県内の産業の発展に寄与し続けた。

さまざまな功績を残した方ですが、佐藤庫喜さんの、由布市地元での特筆すべき大きな遺産。
由布市民にとってなくてはならないものを、2つ挙げます。
国道210号線とJR久大線

国道210号線は大正時代「佐賀県道」と呼ばれていました。

明治初期ごろ、のちに佐賀県道となる筑後街道は、大分ー賀来ー野田ー下市ー三船ー七蔵司から銭瓶峠をこえ別府に入り、由布院の川上から森に向かっていました。
挾間ー庄内ー湯平間は湯之平往還とよばれ、狭険難悪として、大変交通の便が悪かった。

そこで賀来村他12村は、これを「自費」で改修したいと願い出る。
そして内務卿伊藤博文を経て太政大臣三条実美の許可を得、明治十二年には車馬が通行可能な道路に拡幅・更生されます。

さらに明治25年、地元挾間町ではこの湯平往還を基礎として、筑後道を改築することを願い出ます。
筆頭 大分郡谷村村長 佐藤庫喜
大分郡東庄内村村長 小原閑斉
大分郡南庄内村村長 奈須源蔵
大分郡西庄内村村長 首藤雄三郎
大分郡阿南村村長 小野昴
大分郡挾間村村長 三ヶ尻愛蔵
大分郡賀来村村長 松尾勘五郎
大分郡由布川村村長 三ッ股宇作
大分郡石城川村村長 利根鑑政

結果、大分市から稙田を通り挾間ー庄内ー湯平ー由布院へとつづく佐賀県道が出来上がりました。
これが国道に格上げされ、現在の国道210号線となりました。


もうひとつ。
今の由布市中心を貫く大動脈JR久大線。これは国鉄時代に全線開通しています。
しかしその基となったのは大分ー湯平間を鉄道で結ぶ大湯鉄道株式会社の大湯線でした。

この大湯鉄道株式会社は、地元の村々で資金を出し合い設立しました。
その計画の強力な推進者が、この佐藤庫喜さんです。

大湯鉄道株式会社の社長には、筆頭株主の大分銀行頭取小野駿一
そして佐藤庫喜さんは、副社長に就任します。

江戸時代まで小藩分立のこの地域をまとめ、鉄道なんて見たこともない人たちに大いなる夢を抱かせた。

いまだって旧町時代の垣根を残す由布市です。

一致団結して由布市地域の基礎を作ることがどれほど大変なことであったか。


地区の方に聞いた、この庫喜さんのエピソードです。

「昔は庫喜さんのことを、みんな殿様と言いよっちな。鬼瀬で汽車に乗りよったんやけど、(谷中村から車で)庫喜さんが着くまで汽車が発車せんじ待っちょったんじゃ。」

「いまでん(挾間町)谷村まで路線バスが来よろうがえ。あんせめえ(狭い)道をよお通んと思わんかえ。ありゃ庫喜さんの為んバスじゃったんじゃ。」

この方、まさに由布市の偉人、谷の殿様です。


PS.佐藤庫喜さんが谷村村長時代の明治30年、大分郡谷村字底鶴より取水する明治大分水路が完成します。また衆議院議員時代後の大正3年、大分郡谷村に篠原発電所が完成発電を開始します。で
すから絶対関わっているはず。資料が無いので調べていずれ報告します。

由布市偉人伝 第一回 日本経済を救い法王と呼ばれた男 一万田尚登

帝国議会衆議院軽便鉄道法案 佐藤庫喜 資料
2014-05-23 衆議院議員 佐藤庫喜