信用が一番 | 銀座きものギャラリー泰三

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一度は袖を通したい着物がここにあります。きもの創作工房 (株)染の聚楽

東京にいると最近色々ストレスのたまることが多いのですが、京都に帰るとまた違う種類のことで嘆くことの多いこの頃です。


今回もまたきな臭いうわさなども含め、キモノ業界の混迷を感じざるをえません。

きもの業界は長い歴史を持っています。実際長い社歴を誇るところも数多くあります。


かつて私が若い頃は京都で断トツの基幹産業でしたし、信用のある業界でした。ですから長い期日の手形を発行してもお互いそれでやり取りして当たり前に商いをしていたものです。


また全額払わなくても、商いが伸びていく過程ではあまり問題にしませんでした。

小売店もお客に掛売りするところが多く、俗にいう盆暮払いの商いをしていたところも少なくありません。


それもこれもみんないわゆる人を信じてのことでした


しかしバブル経済がはじけてもう20年ほどになりますが、15年ほど前から、まさに老舗の問屋やまぎれもない地域一番店などが次々と倒産し始め、手形取引をしていたがために、信じたがばかりに私共も大きな被害を受けることになってしまいました。


正に信用、信頼が揺らぎ始めたわけです。


私は昭和62年に父の死去を受けて、弱冠38歳で二代目社長となりましたが、創業者の父ほどのカリスマ性もなく、周りの私を見る目も厳しいものがあったように思います。


そんな中で信頼関係を構築するためには、まずはやるべきことをやるということで、当然ながらやるべき仕事に専念することでしたし、何よりも自分のやったことの始末は自分で付けるということです。


簡単に言えば少なくともお金はきちんと払うということです。


どんなに苦しくてもそれを果たすことが最大の信用を付ける一番の近道だということであり、商いをするものとして当然のことでもあります。


私は代表者になっていまのいままで一度も買掛け算を残したことはありません。何の自慢でもなく当然のことと思って、どんなに苦しい時でも果たしてきました。

もう一つは父のやってきた仕事を守る、死んだ父の顔に泥を塗らないという覚悟でした。
それが2代目としてのやるべき基本です。


ですから自分を律して我慢してでも父が作り上げてきた世界を続けていくことが私の最低の仕事だと思ってまいりました。


ただバブル経済が崩壊してから、まさに社会環境が急激に変化し、同じことを同じ様にはできないということになり、その中で同じように良いものを作り、信用を維持していくために、大変な試練を強いられたものです。


その過程で何をしたのかなどと書き始めると大変ですが、信用を構築してそれを守ることが商う者の、特に後を継いだものの使命でしょう。


そのために色々勉強したり先人の後姿を見てまいりました。


その中には本当に学ぶべき人もおられましたが、反面教師となる人も数知れずおりましたね。


先代や、もっと以前からの信用も、たった1代の経営者の驕り高ぶり、怠慢であっという間に崩れ去るのは洋の東西を問いません。


バブル経済がはじけてからもその企業の信用を維持するために何をするかという道を誤ったところは数知れません。


小泉政治から、人でなし経営に走り、目先の利益取りのために、今まで構築してきたものを根底から失った企業も目に余ります。


キモノ業界でも、だれもが知る老舗がとんでもなく品質の落ちたものづくりをしているのを見たり、ある意味騙したような商いをしていたり、せっかく構築した上物屋としての名声を、売り上げと利益取りのために誤った戦略を取り、一挙に安物屋に急落したことなどを目の当たりにすると、本当に悲しい思いをします。


我々は長い歴史の中で先人が築き上げてきた文化の中で生活させてもらっており、そのモノづくりの精神、その文化の価値を貶めることなく次世代に継承させていおかねばならないと私は強く思っています。


勿論社会情勢の変化で物作りに新しい道が必要なことも当然ですが、人を欺くようなことを続ければ必ず報いを受けると思っています。


キモノを知らない消費者が圧倒的に多いからと言ってごまかすようなことをするような老舗企業などありえない話で、是非とも真摯にまじめな商いに戻し、業界のリーダー的存在でいて欲しいと強く思っています。


日本人でありながらその歴史や文化も知らない政治家などを見るにつけ、この国の文化レベルは下がる一方であるという現実がありますが、それを惜しむ声もあるわけで、かなり難しい状況乍ら私も、父のしてきた仕事を出来る限りは続けて行かねばならないとは思っています。


ただその背景がいつまであるかということは神のみぞ知るということかも知れません。