とある記事を読んで思い出したことがある。
あれは人生に夢も希望もない、にっちもさっちもいかなくなってた暗黒期。
もともと、高校の3年の夏までは漠然と『大学に行って就職するんやろうな~。』と思っていた僕ですが、
家庭の事情と、それによる自分自身の人生のレールが外されたと感じていたことでの諦め(奨学金制度とか就職への進路変更も調べたらあったはず)、当時の担任の先生の有り難い放任主義により(笑)、
大学受験を一切せずに、就職という進路変更もせずに、いわゆる進路未定のまま高校を卒業しました。
センター試験当日に、推薦で進路が決まった4人と何もしてない僕が、クラスでたった5人で授業を受けていた時に
「元気、 (今日センター試験やのに) 何してんの?」
って苦笑しながら聴かれたのはいい思い出。いや~、当時はヘラヘラして誤魔化して心はズタズタやったなー。
そういえば先日、プチ同窓会で当時のクラスメイトと15年ぶりぐらいあった時に、
「当時は誰かを刺しそうな目をしてたで!(笑)」
と言われたのはちょっと驚きました。ヘラヘラして誤魔化してた自覚があったので(^^;;
自分ではヘラヘラしてたつもりだったのですが、そうでもなかったらしいです。
そんな僕が身を以て体験した進路未定で卒業することを学生達に『現代社会において、やりたいこともなくフリーターを選ぶことがいかに不利なのか?』伝えているんだから人生は面白いですね。
とりあえずでフリーターになった僕は、適当に毎日を過ごします。最初はバイトも適当で社員さんによく蹴られたり、次ミスしたら辞めさせるとか言われてたなー。
でもそのバイトでも素敵な先輩達もいて、そんな人たちのお陰もあって少し人生に前向きになりました。
夢も希望もなく3年が経とうとしていたある日、僕は、車は大破、体は無傷で過失割合が[10対0]で0が僕。
という奇跡的な事故に『4ヶ月の間に2度も』あいました。
(10:0なんて普通ありえないんですけどどっちも停車してたらぶつかられたんですよね。)
その時に検査入院をしてた病室に姉が持って来てくれた関西ウォーカーという雑誌の数ページの「資格特集」でチラッとみたキャッチフレーズ
「誰でもなれるカウンセラー」
という胡散臭い言葉に引かれ、
数ヶ月前に家から自転車で2分のところに出来たパソコン屋でのアルバイトのお陰で、約3万円ぐらいで手に入れることが出来たほぼ最新のパソコンを使って、「いんたーねっと」なるものをよくわからないまま使い、約10年とちょっと前に心理の世界に奇跡の出会いを果たした。
そこでは、
・なぜ自分の人生がこう(うまくいかない)なっているのか?
・どうすればこの暗黒期から抜け出せるのか?
・自分のようなやつでも夢を持っていいかもしれない。
と、どんどん癒されていき(というより枠が広がった感じ)、毎日がワクワクするようになりました。
可能性を感じることだけで、人はこんなにもパワフルに変われるんだ!
お陰で学ぶことの楽しみを初めて知り、めちゃくちゃバイタリティに溢れて勉強をしました。なにより人間のメカニズムを知るのが楽しすぎた。
それは、『人生がうまくいかない人のメカニズム』に、今までの自分がめちゃくちゃはまっていたから。
だから希望が持てたし、改めて目標も持つことが出来た。さらに、そこでは同じ道を志す仲間も出来た。
もうテンションMAX、ナチュラルハイ!
(これは今でも笑い話なのでこの頃をよく知る友人からは話のネタされることは良くある(笑))
学び続ける中で、トラウマのメカニズムをなんとなく知って、自分にも親からもらってきた思いこみ、すりこみ、観念、トラウマいっぱいあるなと気づいた。20歳前後のころなんて『俺の人生を狂わせた父親は、正直、早く死んで欲しい。』とさえも思っていましたしね。
その部分も自分と向き合うことで少しずつ変わっていき、考えられなかったことなのですが、父親に感謝できることがあったことも知った。
『心理学マジ最高!!』
と思っていた。
向き合えば向き合うほど、親へもそうだけど周囲の人への感謝できる割合が年々増えていった。以前と比べて格段に生きやすくもなった。だからもっとこのことを伝えて生きたいと思った。
この頃になると、少し落ち着いたイケイケだった(笑)
毎日が楽しくて、いろんなことを学べば学ぶほど親世代からのトラウマの連鎖を
『自分の体験したことを子ども達に味あわせたくない!』
この決意は固かった。
それでもどれだけ取り組んでも、向き合っても、どーしてもぬぐえない言葉にできない何かがあることをどこかで感じていた。
しかし、学ぶことは日常的になっていたこともあって、更に広範囲のことを学び、それを深めていく取り組みを続けていたので、その何かを『一時的に横に置く』ことで『今は、取り扱わない』という取り扱い方を学んだ。
お陰で結果のために行動することができるようになっていたし、だからこそある程度欲しい結果は手に入れることができるように、自分をカスタマイズして行動することはできるようになった。
周囲からかけられる声も、
「若いっていいわね~。頑張ってね。」
から
「若いのに凄いですね!どうやってきたんですか?」
に変化していった。
それがまた嬉しくて、いろいろと活動しまくった。
あの何かを感じると動きが鈍るので、『例の方法』を使って感じないことにした。
ただ、その方法を使えば使うほど自分の歯車が狂っていくことに気づかないでいた。最終的には半強制的なメッセージが来てやっと観念せざるを得なかった。
(とあるイベントで数百人が集まってくれたイベントの主催をしてた時の写真)
そんな時、現在提供しているヒーリングに出会った。
僕のそれまでに出会ってきた数多くいるメンターの方々(公認・非公認含む)はほとんどがスピ系に否定的だった。
「現実を生きていない」というのが大まかな理由。
僕もそういう感じの人達に対して、当時はそれが嫌だったし、否定したし、避けて来た。だから最初はものすごく抵抗があった。
(今はしっかりやってる人ほど両方しっかりやってると思うし、実はメンターの方々も言わないだけで使っていたことがあることを後に知った。)
でもいろいろあって(ここだけで1時間以上話せる)ヒーリングを受けることになった。
するとあの言葉に出来ない何かの感覚が減っていくのを感じた。
でも最初は認めたくなかった。
ヒーリングのお陰ではなく、プラセボ(思い込みでただのデンプンが薬になるって効果)でしょ?って思っていた。
今、僕が提供しているヒーリングセッションのスタイルでは必ず対話するセッションをつけている。それはその方が(クライアントさんが)より効果を感じやすくなることと、現実面のアプローチとしては効果的であることもあってやっている。
でも、僕がヒーリングを受けた時は、ある時間になると始まって、ある時間になると終わり。スタートとラストは自己管理(つまりタイマー機能)でその後に会話など一切なかったのだ。
今考えると、よくそれで納得していたな。と思うのだけど、その時は詐欺にあったことにしようと思っていたし、どうせお金を払うなら一応やるだけやっとくか?文句を言おうにもそれはやることやってないからでしょ?って言い返されないための感じだった。
つまり、そもそも効くと思っておらず、詐欺にあい、文句を言う前提で、一応自分の中の変な整合性を取ろうとやっていただけの話。
ただ、他の人はどうか知らないけど、自分の中では認めざるを得ないところまで感じていて、認めるしかなったのだ。
いや、正確にいうと、そう感じている自分を、もう否定したくなかったのだ。
今までのように、感じていることを押さえ込み、感じていないフリをして生きていくのが嫌になったし、無理だったのだ。
お陰でめちゃくちゃ嫌だったけど、否定してた業界に関わることになり、人生が大きく変化した。
ヒーリングを始める時の葛藤と決意はこの記事を読んでもらうとわかってもらえるかなと思う。
ただでさえ、友人達から仕事のことを聞かれると説明がややこしかったし、中には否定的に捉えられて、友達辞める宣言まで出されていたのに、余計にややこしくなった(笑)
それでも、やっぱりやりたいと思ったんですよね。
それが自分の中の正直な声だったから。
僕がどんな想いでこの活動をしているのかはこっちの記事を読んでもらえればわかると思います。
つくづく不思議な人生だと思う。
そう思っている。
そんな風に日々取り組んで、今出来る最高で生きる自分で在ろうと思っています。
僕の人生のさらっと書いたハイライト
その① 誕生~20歳まで編
その② 彼女(現在のパートナー)に振られてから人生の転換期編