自分を観る、ということ | ふんわりすとへようこそ!

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江ノ島での サイキック・マッサージのトレーニングの最中、

3日目め ダイナミック瞑想のときだったでしょうか?


自分を観る、ということは、分析することだ、

と、私は 思っていたのだ。


そんなことに、気づきました。



自分を観る = 分析すること、だと 思っている、

ということにも 自分で 気付いていなかったため、

私は、ものすごく 驚きました。


「分析」は、私(の男性性) にとって

とても アタマリマエの 行為でしたから、

無意識のうちに 分析することに、慣れすぎていたのでしょうね。


これまた、

男性性と女性性の 理想の押し付け合い と 同様、

あまりに ぴったりと 自分に 張り付いていたから、

自分で 見えていなかったのです。



なぜ、そのことに 気づいたのか? というと。


そのとき、私は、

そのときの自分の状態に 関して、分析するのを やめて、

ただ 感じていたから、でした。



私にとって、分析することは、

その分析する対象を、なんとかしようと 闘っている、

という状態でも あったようです。


ずっと それを 続けているうちに、

闘うことに 疲れて。


ただ 立ち止まり・・・

そのまま、なにもせずに いようとしたとき。


これが 「感じる」 ということなのだ、

ということを、感覚で 理解しました。



すると、本当に 自然に、


私は、自分を 観ているつもりで、

一生懸命 分析に 走っていたんだな。


と、ぽん!と 出てきたのです。




自分を 観る。

すなわち、自分と 向き合う、ということは、

ただ 感じること。


自分の中にあるものを どうにかしようと

なにかを するのではなく、

ただ なにもしないで、それと ともにいること。



それは、

言葉で あらわすことで 昇華させていくタイプの 私にとって、

とても 辛く、苦しいことでした。


いまだからこそ、

言葉にすることが できなかったから 苦しかったんだ、

ということが わかるけれど。


そのときの 私には、なにも わからず、

なんとなく 苦しい、というものだけが、そこにありました。



言葉の代わりに、涙が ぽろぽろと 出てきましたが、

それでも、そのとき 私は、

そこから 逃げようとは 思いませんでした。



この苦しさが なんなのか?

どこから きているものなのか?

どうしたらいいのか?


わかりたい、なんとかしたい。

でも、わからなくて、いい。

いまは、わからなくて、いい。



ただ、苦しいままでいる、

ということを 選び、

一生懸命 そこに とどまろうとしていました。


それが、そのときの私に 必要なことだったから。




(つづく) ・・・かもしれない?



ありがとうございます。







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