意外に長い江戸時代 | のぼこの庵

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大河ドラマの史上最高傑作『独眼竜政宗』(1987⇒2014再放送)と近年の最高峰『平清盛』(2012)の感想です。
ついでに『江~姫たちの戦国~』(2011)、『八重の桜』(2013)、『軍師官兵衛』(2014)、『花燃ゆ』(2015)の感想も。
あとは爺放談?

年表で、江戸時代を幕末から元禄時代まで遡ってみました。

 

赤穂義士の討ち入りは元禄15年12月14日(1703年1月30日)。
黒船の浦賀来航は嘉永6年6月3日(1853年7月8日)。

その間なんと150年。
明治44年+大正14年+昭和63年+平成25年=146年よりも長い歳月が経っているのです。

単純に「江戸時代」というくくりで、同じように見てはいけませんね。

※小判(こばん)とは、江戸時代に流通した金貨の一種である。金座で用いられた公式な呼称は小判であり『三貨図彙』では「小判」と明記されているが、『金銀図録』および『大日本貨幣史』などの古銭書には小判金(こばんきん)という名称で収録されており、貨幣収集界では小判金の名称が広く用いられている。量目(質量)および金品位が一定に定められた計数貨幣である。江戸幕府を開くに先立ち、徳川家康は大判より小型のものとし、墨書を極印に改め一般流通を想定した通貨を発行する構想を持っており、慶長6年(1601年)に徳川家康が後藤家に命じて鋳造させた慶長小判を嚆矢とし、万延元年(1860年)発行の万延小判まで10種が発行された。全国通用を前提とするものであるが、金山が主に常陸、甲斐、伊豆および佐渡などに位置し、金貨の一般通用は家康により新たに取り入れられた政策であったため主に関東地方を中心に流通した。額面は金一両。これは本来質量単位としての一両の目方の砂金と言う意味であったが、鎌倉時代には金一両は五匁、銀一両は4.3匁と変化し、文明16年(1484年)、室町幕府により京目(きょうめ)金一両は4.5匁(約16.8グラム)と公定され、それ以外のものは田舎目(いなかめ)とされた。安土桃山時代には四進法の通貨単位の便宜を図るためか、京目金一両は四匁四分と変化し、田舎目金一両は四匁前後となった。慶長小判はこの京目一両の原則に沿っていたが、後世に金銀産出の衰退、幕府の支出拡大による慢性的な財政難の補填のため、正徳享保期を除き、時代ごとの経済政策により品位(金含有率)・量目ともに改悪されることが多かった。また、幕末には、日本国外での金銀比価が日本国内と大きく異なったため、これを是正するため極端に小型の万延小判に改鋳され、インフレーションを引き起こした。江戸時代には、小判同様の計数貨幣の金貨として、二分判金、一分判金、二朱判金、一朱判金がある。この小判および分金の通貨単位は武田信玄による領国貨幣である甲州金の四進法(両、分、朱)を取り入れたものであった。 この内、一分判金は、小判の小額貨幣として常に小判と同品位、四分の一の量目でもって本位貨幣的に発行され、他の額面の貨幣は、品位すなわち含有される金の量目が小判に対して額面より少ない名目貨幣として発行された。なお、明治以降新貨条例が施行され、1両は1圓(円)と等価とされ(万延二分判の金銀含有量の実質価値と1圓金貨の純金含有量の価値がほぼ等しかった)、古金銀はそれぞれの含有金銀量に基づいて定められた交換比率で新貨幣と交換された。(Wikipediaより)