だいぶ前にこのブログで富山県民と石川県民がお互いに反発しながらも意識し合う様子を「ダブルツンデレ」と揶揄したことがあります。
⇒富山と石川はダブルツンデレ?
両県民の仲が良くないだのライバル関係だの県民性がどうだのと殊更にあげつらうのはあまり生産的とは思えませんが、両県の歴史を知ることは互いの理解を深めるためにも必要なのではないかと思います。
そこで、富山県と石川県に福井県を加えた北陸3県が現在の領域となるまでの歴史的経緯をまとめてみました。
なお、文はwikipediaから、図はwikipediaならびに富山市郷土博物館および富山県公文書館その他の自治体資料等から拝借しています。
1.越中国ができる前
↑■越国(高志国)(7世紀頃)
・越国(こしのくに:高志国とも)は現在の福井県敦賀市から山形県庄内地方の一部に相当する地域の古代における呼称である。
・御食国(みけつくに:朝廷に海産物を献上した)である若狭国(わかさのくに)は越国に含まれない。
・敦賀(角鹿:つぬが)も御食国の一部と言えるが交通の要衝であることから越国に含まれている。
「コシ」の語源ははっきりしておらず「越」「高志」「古志」と、いろいろな字が当てられています。富山県では「高志」を積極的に使用していますね。
2.越中国、越前国ができたころ
↑■越国の三分割(702年頃までに分割完了)
・大宝律令による令制国の設置に伴い、越国は畿内に近い地域から順に、越前国(えちぜんのくに)、越中国(えっちゅうのくに)、越後国(えちごのくに)の3国へと分割された。
・越中国は当初、越後国4郡(頸城郡・古志郡・魚沼郡・蒲原郡)を含んでいた。
・若狭国は越前国に含まれない。
分割された理由は「そもそも越(高志)はヤマト王権とは独立した豪族の勢力圏だったが、ヤマト王権の傘下に入ったことで統治しやすいように分割された」ようです。
もっとも、越がヤマト王権に取り込まれたと言うよりも、現福井市の地から第26代継体天皇(けいたいてんのう:聖徳太子の曾祖父にあたる)が立ったことで越(高志)とヤマト王権の親密な関係が確立されたのかもしれません。
その意味では若狭国は早くからヤマト王権の影響下にあったようで、考古学的にも四隅突出型墳丘墓に代表される独自の文化を育んだ越国や出雲国とは異なるとのことです。
3.能登国、加賀国ができたころ
↑■越前国から能登国(718年)と加賀国(823年)が分立
・718年、養老律令制定により越前国から羽咋郡、能登郡、鳳至郡、珠洲郡の四郡を分立して能登国(のとのくに)が成立した。
・823年、越前国から江沼郡と加賀郡を割いて加賀国(かがのくに)が設置された。江沼郡の北部から能美郡、加賀郡の南部から石川郡が分けられた。加賀郡は後に河北郡と呼ばれる。
・なお、若狭国、佐渡国は越前国、越後国から分立したものではない。
越前の国府(かつての府中⇒武生⇒現越前市)は都に近く、そこから加賀や能登は遠く離れて統治しにくいことから、さらに3分割されたようです、
4.大伴家持が越中国守だったころ
↑■能登国が併合された越中国(741~757年)
・能登国は天平13年(741年)越中国に併合されるが、天平勝宝8年(757年)再び分立した。
・この間、天平18年(746年)大伴家持(おおとものやかもち)が国守として越中国府に赴任してくると天平勝宝3年(751年)京へ戻るまで、越中国内(能登国を含む)で数多くの歌が詠まれ万葉集にも記録された。
越中と能登がひとつの国だった時代が足掛け17年ありました。武人でもあった大伴家持さんはさぞ立山連峰、富山湾や能登半島の雄大な景色に魅了されたことでしょう。いい歌ができるはずですね。
5.越中国の4郡
↑■越中国の四郡(757年~)
・天平勝宝3年(751年)以降、越中国の領域は現在の富山県域と同じであり、以下の4郡で構成されている。
・婦負郡(ねいぐん、めひのこおり):婦負は、もと売比(めひ)と書いた。地名の由来について、姉倉比賣神社(あねくらひめじんじゃ)に由来するという説や、鵜坂神社の祭神である鵜坂姉比咩神(うさかねひめのかみ)・鵜坂妻比咩神(うさかめひめのかみ)に由来するとする説、杉原神社のある杉原野開拓伝承に、沼に落ちた女神を男神が背負って助けた(婦を負う)という史話がある。
・新川郡(にいかわぐん、にいかわのこおり):「新川」は常願寺川の古名である。婦負郡との境界は明確なものではなく、かつては常願寺川が合口から西北に流れ、鼬川(いたちがわ)と赤江川に沿う形で北流し、神通川に合していたと考えられており、その旧流を郡境としたとされる。なお、富山は新川郡に属している。
・礪波郡(となみぐん、となみのこおり):郡名は平城宮跡出土の木簡や万葉集に「利波」がみえる。「礪波」は万葉集をはじめ東大寺や正倉院の文書などにみえる。
・射水郡(いみずぐん、いみずのこおり):語源には諸説あり、「出水」と解して「川口」もしくは「湧泉地」の意とする説、文字通り射られた矢のように速い川の意とする説などがある。律令時代には伏木(現高岡市)に越中国府が置かれた。
姉倉比賣神社についてはぜひこちらをご覧ください。
⇒姉倉姫神話の由来~肯搆泉達録と三州奇談~
6.戦国時代1(畠山、神保、椎名、一向一揆そして謙信)
↑■戦国時代の越中国1(永禄3年:1560年頃)
・戦国時代の越中国は戦国大名による強い支配政権が成立せず、国内における権力闘争や隣国の侵攻などを受け、そのたびに争乱が起きる事態にあった。
・越中国は室町時代、畠山氏が守護職を務めていたが、応仁の乱の後は能登畠山氏の両国となった。能登畠山氏の衰退・滅亡後、越中国は守護代の神保氏(富山城)、椎名氏(松倉城)が実際の統治を担当していたが、この両者の支配力もさほど強力なものではなく、隣国の加賀国の影響もあって一向一揆の力が強まることになる。越中一向一揆と手を結んだ神保氏が次第に越中での権勢を強めたため、畠山氏は越後守護代の長尾氏に神保氏追討の出兵を要請した。
・永禄3年(1560年)3月、神保長職(じんぼうながもと)・越中一向一揆連合軍が椎名康胤(しいなやすたね)の松倉城に侵攻した。康胤の後詰として長尾景虎(上杉謙信)は越中に出兵して越中一向一揆を破り、長職が立て籠もった富山城を落とした。
・神保長職の勢力は大きく翳り、上杉氏派の椎名康胤の勢力が拡大した。ところが永禄11年(1568年)3月、康胤が武田信玄と越中一向一揆の後援を受けて謙信に反逆するに至る。このため同年以降、元亀2年(1571年)にかけて上杉謙信はたびたび大軍を率いて越中に侵攻した。
・神保氏は神保長職の嫡男・神保長城(長住)が後継者となり、長城は武田信玄を後ろ盾とした椎名康胤と対抗するために上杉謙信に従属していた。しかし元亀2年(1571年)に一向一揆と和睦して武田信玄と通じ、上杉謙信と敵対するようになった。
・元亀3年(1572年)5月、武田信玄の西上作戦支援のため、加賀一向一揆が越中に侵攻したことに呼応し、9月、上杉謙信が越中に出兵し、加賀一向一揆・越中一向一揆連合を破った。一連の攻防で越中中部から駆逐された加賀・越中一向一揆は、これ以降勢力を衰退させていった。椎名康胤も居城松倉城を攻囲され、元亀4年正月、降伏開城した。その後、上杉謙信は、増山城、森寺城などを落城させ、越中を制圧した。
・天正6年(1578年)3月、上杉謙信が死去。織田信長は越中へ神保長住に兵を付けて送り、上杉氏方が敗退。越中では織田信長勢が優勢となった。
P.A.WORKSのアニメ『クロムクロ』で、剣之介が由希奈に「安住の城(あずみのしろ:富山城)の城主は誰だ? 神保か上杉か?」と尋ねるシーンがありました。剣之介はまさにこの時代、争乱真っただ中の越中に生きていたのですね。
まあ、「安住」は後に戦乱の越中を統一した佐々成政が、安住の地となることを願って名付けたとの説もありますが・・・こまけぇこたぁいいんだよ。
7.戦国時代2(佐々成政による越中統一と秀吉への降伏)
↑■戦国時代の越中国2(天正10年:1582年頃)
・天正10年(1582年)、柴田勝家・佐々成政を司令官とする織田氏の北陸侵攻が始まり魚津城を攻め落とした。神保長住は親上杉派神保氏の離反を招き追放された。
・同年、本能寺の変で織田信長が横死した後、柴田勝家の支援の下で佐々成政が越中を支配した。
・天正11年(1583年)、羽柴秀吉が上杉景勝と結んだことから、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家に付いた佐々成政に圧力を加えた。成政はザラ峠を越えて徳川家康に同盟の説得をするも果たせず越中に孤立した。
・天正13年(1585年)、佐々成政は羽柴秀吉に降伏の意を示していたが、秀吉は大軍を率いて富山城を包囲し開城させた。成政は新川郡を安堵されるも京に遷り、秀吉により越中が統治されることとなった。
佐々成政の悲劇は越中の悲劇。その辺はぜひこちらをご覧ください。
⇒磯部堤ぶらり火伝説の由来~三州奇談~
8.加賀百万石のころ(江戸時代)
↑■加賀百万石時代の越中国(1639年~1871年)
・織田信長によって能登1国を与えられていた前田利家は、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いにおいて柴田勝家から羽柴秀吉に降って加賀2郡を与えられた。
・さらに天正13年(1585年)利家は、勝家支援のもと越中を統一していた佐々成政と戦った功績によって、秀吉から嫡子・利長に越中のうち射水・砺波・婦負の3郡32万石を与えられた。
・文禄4年(1595年)加賀前田家は越中の残る新川郡をも加増され、総石高は合計83万石に達した。
・慶長5年(1600年)加賀前田家は関ヶ原の戦い後に加賀南部の西軍大名の旧領(丹羽長重の小松12万石と山口宗永の大聖寺6万3,000石)を授けられ、加越能3か国全土に及ぶ所領を獲得した。
・寛永11年(1634年)加賀前田家2代・利常(利長の弟)の時代、加越能3か国内での表高119万2760石が確定する。
・寛永16年(1639年)利常が隠居し3代・光高へ家督を譲るとき、次男・利次、三男・利治を取り立てて支藩とし、越中富山藩10万石と加賀大聖寺藩7万石(後に10万石)をそれぞれ分与した。
↑■加賀前田家の領地(1639~1871年)
・なお、藩という呼称は、江戸時代には公的な制度名ではなかった。明治元年(1868年)に初めて公称となり、一般に広く使用されるようになった。
加賀前田家の石高は、加賀藩だけで100万石、富山藩と大聖寺藩を加えれば119万石になります。
ただし、国別では加賀国44万石、能登国22万石に対し、越中国53万石です。加えて越中国には豊富な鉱山資源、森林資源がありました。
9.明治維新(廃藩置県)のころ
↑■廃藩置県初期(1871年)の加越能
・明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩置県当初は藩をそのまま県に置き換えたものだった。加賀藩は金沢県となった。
・なお、令制国名は、廃藩置県の前後においても地域名称として公に使用され続けている(行政単位としては有名無実ながら正式に廃止された経緯はない)。
加賀藩がなぜ加賀県でなく金沢県になったのか? それは廃藩置県より前の版籍奉還(明治2年)にあたり、加賀藩が金沢藩と改名されたからです。藩庁のある場所を藩名にするのが原則であり、同様に尾張藩⇒名古屋藩、紀州藩⇒和歌山藩、長州藩⇒山口藩、土佐藩⇒高知藩などとなりました。
10.今はなき新川県、七尾県、金沢県ができたころ
↑■新川県、七尾県、足羽県、敦賀県の成立(1871年)
・明治4年(1871年)11月20日、第1次府県統合により、富山県(第1次)全域(かつての富山藩の領域=婦負郡および新川郡の一部)に、金沢県(かつての加賀藩の領域)の礪波郡と新川郡を併せて新川県が成立した。県庁は当初富山城跡に設置しようとしたが、陸軍省の管轄になっていたため大蔵省管轄の県庁を設置することができず、加えて城外に適当な建物がなかったことや新たに建設をする余裕もなかったことから、魚津の旧加賀藩郡代役所に移され、県名も郡名を取って新川県に改称された。
⇒魚津が県庁所在地だった
・同じく第1次府県統合に伴い金沢県のうち能登国と越中国射水郡が分離され七尾県が発足した。県庁は鹿島郡所口村(現七尾市)の小丸山城跡に設置された。
・同じく 第1次府県統合により、越前国北部の5県が統合され、改めて福井県が発足したが、わずか1ヶ月で福井が所属する郡名から足羽県に改称された。また、越前国今立郡・南条郡・敦賀郡および若狭国一円の区域をもって敦賀県が発足し、管轄地域内に藩庁が所在した鯖江県・小浜県が廃止された。
多すぎる県を再編するにあたり、今度は県庁のある令制国の郡の名を県名にするのが原則となりました。しかし、この時点で能登国に七尾郡はありません。七尾は鹿島郡に属していました。鹿島県とすべきところなぜ七尾県となったのか? 鹿児島県と紛らわしかったからでしょうか? 金沢県が河北県に改称されていないのは元からあった県名はそのままということでしょうか? でも富山県は新川県に変わりました。県庁が魚津に移転したからでしょうか?
明治政府のやることはよくわかりません。各地は混乱したでしょうね。
11.富山県が新川県だったころ
↑■七尾県が石川県と新川県に併合(1872年)
・明治5年(1872年)2月2日、金沢県は県庁を石川郡美川町(現白山市)に移し、この郡名より石川県と改称した。
・明治5年(1872年)9月25日、 七尾県は射水郡を新川県に、残部を石川県に併合し、廃止となった。
・越中国のうち射水郡のみは七尾県に編入されていたが、新川県に編入されたことにより、越中国が初めて1つの県となり、現在の富山県の領域と同じになった。
・明治6年(1873年)、新川県庁が富山城跡に戻され、石川県の県庁も金沢に移転したが、県名はその後も新川県、石川県のままとされた。
・同年、敦賀県は足羽県を編入し、現在の福井県とほぼ同じ県域となった。
七尾県が1年もたず廃止されてしまったのは、能登国と射水郡(七尾と高岡)の間で何かあったのでしょうか? 1県として規模が小さすぎたからでしょうか? でもそんなことは最初からわかっていたはず。おかげで県庁を河北郡金沢から県中央部の石川郡美川へ移転していた金沢県⇒石川県もまた慌ただしく県庁を金沢へ戻すことになりました。
やっぱり明治政府のやることはよくわかりません。もっともこの頃は岩倉使節団が訪米・訪欧の最中(政府首脳が不在)で、国内は西郷どんや五百円札の板垣さん、早稲田大学の大隈さんあたりが頑張っていた時期ですから、混乱に拍車がかかっていたんでしょうね。
12.大石川県からの分県運動のころ
↑■大石川県の時代(1876~1883年)
・明治9年(1876年)4月18日、第2次府県統合により新川県全域が石川県に編入され、廃止された。
・同年8月21日、敦賀県は嶺北が石川県に、嶺南は滋賀県に編入され、廃止された。
・その後、石川県では加賀国優先の政策が執られたたため、越中国内と越前国内では活発な分県運動が展開された。これに対し石川県は、特に越中国について「越中は藩政期に加賀藩の庇護を受け、さんざん迷惑をかけやっかいになり続けたのに今さら分県などけしからん」と強く反発し阻止に暗躍した。しかし、明治政府は石川県を「大県および不平士族が多い故の難治の県」として問題視し、天皇にまで県治改革を奏上しており、分県の追い風となった。
・明治14年(1881年)2月7日、旧敦賀県の嶺北、嶺南がそれぞれ石川県、滋賀県から分離、合併して福井県となった。
・明治16年(1883年)5月9日、越中国の4郡が石川県から分離され、富山県となった。
⇒富山県の独立①
⇒富山県の独立②
⇒富山県の独立③
富山県と福井県嶺北では悪名高い大石川県時代です。でも、一旦石川県に併合されていた越中国、越前国は、独立をもって県名を県庁所在地と同じにすることができました。その点、石川県は金沢県に変える(戻す)時機を得られませんでした。
なお、福井県の独立後、嶺南では滋賀県への復帰運動が起こり、福井県は慰留のため嶺南優先の政策を執ったそうです。現代でも道州制の議論の中で嶺南の一部の首長は「北陸道」からの離脱を表明しているとのこと。でもね、7世紀以来1300年以上、嶺南はずっと「北陸道」なんですよね。
ちなみに、横綱の太刀山と二代目梅ヶ谷は大石川県時代に越中国で生まれていますが、番付での出身地は富山でも石川でもなく「越中」と書かれていました。
13.現在の県域
↑■現在の北陸3県(1883年~)
・富山県は越中国、石川県は加賀国と能登国、福井県は越前国と若狭国をその県域としている。
・北陸3県では、県庁所在地である富山市・金沢市・福井市が、それぞれの県での中心都市となっている。富山は重工業を中心として経済力が発達しており、金沢は観光と商業が発達、福井は軽工業が発達している。また、北陸3県は発電所の建設に適した立地に恵まれ発電所が多く存在している。
・一向一揆の拠点であった北陸3県では浄土真宗(真宗)への信仰心が際立って高く、「真宗王国」とも呼ばれる。
「浄土真宗(真宗)」は歴史上、浄土宗からの圧力によりご公儀に「一向宗」と称されたことがありますが、お寺や門徒達は決して自らを一向宗と呼ばなかったたそうです。
ちなみに、現代の道州制の議論において、北陸道を3県とする案と新潟を含めた4県とする案がありますが、2009年に北陸経済連合会が実施した3県内でのアンケートでは圧倒的に3県推しが優勢でした(3県推し・4県推しの比率:富山県26%・6%、石川県42%・4%、福井県27%・2%以下)。もっとも道州制への認知度は38%しかなかったそうです。今はもっと低いでしょうね? 北陸3県で協力し合うのは当然としても、だからといって「くっつく」のは別儀ですよね。
⇒道州制に関するアンケート
歴史を知りつつ、今と未来を見つめて、がんばろう北陸。
※8番らーめんは北陸3県を中心に広がるラーメンチェーン店(富山県31店舗、石川県49店舗、福井県27店舗、本店加賀市)。「8番のラーメン」は3県民共通のソウルフードである。8番らーめんのキャッチコピーは「なんでやろ、8番」。また食べたくなるという客の声を反映させたとされる。(wikipediaより一部加筆修正)