男は、仕事にも人生にも疲れていた。
宮仕えの身が嫌で、一念発起して独立したものの、世間は、男が思っていたほど、甘くはなかった。
独立してから一年と経たぬうちに、借金はみるみる山のように膨らんでいった。
男の妻は、愛想を尽かして、無理やり離婚届けに判を押させて、家を出ていった。
男は、自らの死を考えながら、家路についていた。
家へと続く、路地の電柱の陰から、弱弱しい鳴き声が聞こえてきた。
その鳴き声に目をやると、衰弱しきったような黒い仔猫が、街灯の明かりに照らされて、浮かび上がっていた。
仔猫は、何かを訴えかけるように、男の顔を見つめている。
その眼は、怪しく金色に光っていた。
男は、動物には、なんの興味もなかった。
ましてや、黒猫となると、縁起が悪い気がして、目を逸らしていたものだ。
しかし、何故か、その時の男は、仔猫の瞳に吸い寄せられるように、仔猫の許へ歩み寄っていった。
男が近づくと、仔猫はニャーと一声嬉しそうに鳴いて、男の足下に顔を摺り寄せてきた。
男は、足を引っ込めようとしたが、何故か可愛そうな気がして、暫くそのまま、仔猫が顔を擦り付けるに任せていた。
よく見ると、仔猫は、黒いということで、多少の不気味さはあったものの、わりと可愛らしい顔をしていた。
男はしゃがみ込んで、仔猫の頭を撫でてやった。
仔猫は逆らいもせず、男の撫でるままにされている。
仔猫を撫でているうちに、男の胸に、無性に愛おしさが込み上げてきた。
男が動物に対して、こんな感情を抱いたのは、初めてのことだった。
「よしよし、腹が減ってるのか」
男がそう言うと、仔猫は、肯定するかのように、ひと声鳴いた。
男は、猫がなにを食べるか知らなかったが、コンビニ袋から、晩飯にと買ってきたお握りを取り出した。
そのお握りを千切ると、右の掌に乗せ、仔猫に差し出した。
仔猫は、美味しそうに、男の掌から、米粒を食べた。
それがなくなると、仔猫はもっとくれというような目で、男を見た。
男は、もう一度お握りを千切って、仔猫の前に差し出した。
よほど、お腹を空かしていたのだろう。
その米粒も、あっという間に、仔猫のお腹に収まった。
そうやって、一個のお握りがなくなった。
男が、もう無いというにように首を振ると、仔猫はお礼を言うようにニャーと鳴き、男に背を向けて、暗闇の中に溶け込んでいった。
次の日も、その次の日も、仔猫は、まるで男の帰りを待っていたかのように、同じ場所にいて、男が通りかかると、必ず呼び止めた。
そして、男の晩飯のお握りを一個平らげると、ニャーとお礼を言って、夜の帳に消えていくのだった。
男は、四日目からは、自分の晩飯とは別に、キャットフードを買うようになった。
男は、自分がのら猫にこんなことをするなんて、不思議な気持ちだった。
多分、仔猫の弱々しさが、今の自分の境遇と似ているので、なんとなく放っておけなかったのだろうと思い、一人で納得していた。
キャットフードを与えても、仔猫はさして嬉しそうでもなかったが、それでも、美味しそうに食べた。
会社が倒産し、自棄になっていた男の前に現れた一匹の黒い仔猫。
その仔猫を拾ったことから始まる、男の成長と再生の物語。