ある夏の昼前。

 

男は虚ろな目をして、見知らぬ片田舎を走るローカル線の車両に座っていた。

 

車窓を流れる景色は、山と田んぼばかりだ。


朝、いつものように、通勤の満員電車に乗っていた。

 

詰め放題の袋に無理やり押し込められたような満員電車での通勤は、もう、二十年も続いている。

 

これまでは何とも思っていなかったが、今日に限り、最寄駅を降りた途端、ふいに虚しさが込み上げてきた。


連日続く、殺人的な猛暑がそうさせたのだろうか?

 

男は改札を出ず、無意識に、そのまま電車を乗り継いでいた。

 

我に返ると戸惑った。

 

俺は、何をしているのだろう。

 

会社に連絡を入れるべく携帯を取り出したが、何と、圏外になっていた。

 

男は、暫く途方に暮れた面持ちで携帯を見つめていた。

 

が、やがてあきらめたように、顔を上げた。


車窓を流れる山並みが、日常を遮断してしまった壁のように見えた。

 

叫びだしたい衝動を何とか押さえて、男は車内を見回した。


乗っているのは小さな男の子と、その母親だけである。

 

男の子は、もの珍しそうに、男を見つめていた。

 

男が見つめ返しても、男の子は物怖じすることなく、じっと男を見つめている。


暫く二人の視線が絡み合っていた。

 

ふいに、男の子がつと視線を逸らして、母親に尋ねかけた。


「ねえ、あのおじさんは、どうしてこんな時間に、あんな格好で電車に乗ってるの?」


多分、この辺りには、こんな時間にスーツを着た人間など、滅多に見かけないのだろう。


「お仕事で頑張っているのよ。日本のためにね」


母親が小声で答えてから、男に向かって小さくお辞儀をした。


「ふ~ん、そうなの。何だか格好いいな。僕も大人になったら、あのおじさんのように、日本のために頑張るぞ」


母親の言うことを素直に信じて、男の子はキラキラ光る瞳を男に向けた。


眩しすぎる視線をまともに受けとめることができなくて、男は窓外へと眼を逸らした。


一体、俺は、何をやっているんだろう。

 

もう一度、そう思った。


昔は、男も日本を背負って立つという意気込みで仕事をしていた時期があった。

 

しかし、そんな意気込みも、いつの間にか失くしてしまっていた。

 

今は、家族を守るためだけに、淡々と仕事をこなしているに過ぎなかった。


男は恥じた。

 

そして、昔を思い出した。


そうだ、俺はしがないサラリーマンなんかじゃない。

 

たとえちっぽけな存在であっても、俺たち一人一人の頑張りが、日本の経済を支えているんだ。

 

俺は、もう逃げない。

 

もう一度、初心に戻ってやり直そう。

 

あの眩しい視線を、堂々と受け止められるように。


男の胸に、清々しい風が吹きぬけた。

 

その時、電車が駅に到着した。


男は日常へと戻るべく、軽やかにホームへ降り立った。

 

ホームから見える山々は、もう壁のように見えることはなく、ただの美しい景色として、男の目に映った。
 

 

 

 

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短編小説(夢