【教育はシュメールから】
文明はシュメールから始まったと言われていますが、実は教育についてもそうなんです(*^^)v
前3000年頃には既に神殿内の練習用粘土板が存在したようである。
しかし、前3000年期中葉になると学校はシュメール全土に創建され、正式な文字教育が行われると共に、神殿から独立した存在になっていった。
教育の目標はひとえに、文法に習熟し、シュメール語を楔形文字で書けるようになることに置かれていた。
シュメールの言葉で学校は"e-dub-ba"
生徒達は"dum-e-dub-ba-ke"、すなわち「学校の子」
校長は"ugula"すなわち「学校の父」
教員は"um mia"すなわち「大兄」と呼ばれていた。
生徒達は幼少の時から適齢期までの間edubbaに在学していたことが、当時の粘土板などから知られている。
edubbaに通ったのは男子生徒だけであったようで、女子生徒についてはほとんど粘土板では言及がなされていない。
それにもかかわらず、女神官などが見られるところからすると、恐らく彼女らは家庭教師に師事して読み書きを習っていたのではないかと想像される。(*神官は宗教文書を扱うために読み書きが必須であった。)
【今よりハードな教育】
edubbaの時間割はまことに厳しいもので、授業は日の出に始まり日没に終わっていたようである。
このため、後に全寮制の学校が初めて作られている。
また、休日も月(太陰暦)に6日しかなかったことが、次に示すedubbaの生徒の計算から知られている
僕が月に何日学校にいるかを計算すると、
自由なのは月に3日で、
月毎の祭りが3日あって、
[だから]一月の内24日………
何と長い日々だ。
【休みの比較】
現代では月に最低でも8日は休みがあり、プラス祝日を加えます。
シュメールでは月に休みは6日しかないという事になります。
勉強は毎日の積み重ねですから、一年スパンで見たら大きな差になると思いませんか?
教職員はちょうど現在の大学教授のように、生徒達を教える傍ら、広範囲の分野における研究や執筆を行っていた。
彼らの相互関係は権威の上下主義と温情主義で成立し、授業では書取用粘土板の用意や生徒が書き写した文章の校正をおこなったり、暗記学習の暗唱を聴いたりする等、現在の公立の小中学校とさして変わらぬことを行っていたようである。
【科目もきちんと存在しました】
教科は科目毎に分化し、専門の教師が、
シュメール語
数学
図画習字
動植物
地理
鉱物
などについて教えていたようである。
前1900年頃、古バビロニア王朝の勃興し、アッカド語話者の増加に伴い、シュメール語が徐々に死語化していった。
そのため書記達は、題目毎に分かれたシュメール語とアッカド語の2ヶ国語対象の語彙集を編纂していき、シュメール語は学術言語化していった。
生徒達は教室内でシュメール語を話させられたのも確からしい。一少年は『学校時代』という随筆の中でこんな不満を残している。
シュメール語の担任は言った
「なぜおまえはシュメール語を話さないのか」
私は鞭で打たれた。
僕の先生は言った。
「おまえの書き方はなっとらん」
僕は杖で打たれた。
僕は書記の技能を憎み始めた。
言語構造的には、アメリカ人が学校で日本語を話させられるようなものである。さぞかし不満の声も大きかったであろう。
一方で、このように鞭を振るう厳格な教育者の中にも生徒から深く尊敬され、 愛されてすらいた教師もいた。卒業生は彼を称えて言う。
彼は私に、粘土にどう書くかを教え
礼儀正しい作法を示し、話し方を指導し、
良い忠告を与え、偉大な人を導いている規律へと目を開かせてくださった
【卒業試験と就職】卒業試験も存在しました。
彼らは卒業するときに卒業試験を受け、それに合格すると、正式に書記になったことが言い渡された。
その後少数のものはedubbaに留まり、まるで、大学院に行くようかのように、より上級の勉強を修めたが、大多数はその後、専業書記、地主の財産管理人や経理士などに就職した。
ここで注意したいことは書記とは広義には読み書きのできるものの総称だったということである。そのため、書記の階級は手紙の代筆をするぐらいのもの~難解な宗教文書を扱う程度と幅広いものであったことが知られている。
専業書記はもっぱら高官の秘書となり、戦利品・捕虜のリストの作成を手がけていたようである。
~以上~
試験が有ったり、学校で勉強してから就職する等、現代の生活と全く同じですね(*^^)v
学校の話しもとても面白かったのですが、次は文化的、芸術的な要素の話しや、あとは思想についても書いて行きたいと思います。
実はこの思想的な部分が現代の日ユ同祖論とも関わりが有ると思われます。
続きは→その9