富嶽百景 太宰治 | ほんのうみ

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太宰治は1933年(昭和8年)に作家デビューするが、1935年(昭和10年)には東京帝国大学落第・都新聞入社試験の失敗から鎌倉で自殺未遂を起こし、パビナール中毒にも陥り、東京の武蔵野病院に入院していた。1937年には愛人の小山初代と再び自殺未遂を起こしている。

1938年(昭和13年)9月13日に太宰は井伏鱒二の勧めで山梨県南都留郡河口村(富士河口湖町河口)の御坂峠にある土産物屋兼旅館である天下茶屋を訪れる。太宰は井伏の付き添いで同18日には甲府市水門町(朝日一丁目)の石原初太郎の娘美智子と見合いを行ない、11月6日太宰は美智子と婚約し、甲府市竪町(朝日五丁目)の下宿屋である寿館に写り翌昭和14年1月8日には正式に結婚し甲府御崎町(朝日五丁目)の借家で新生活をはじめる。この間に発表されたのが「富嶽百景」をはじめ「黄金風景」「女生徒」「新緑の言葉」などの作品群で、二冊の単行本も刊行している。(ウィキペディアより引用)



「富士山には、もう雪が降つたでせうか。」


この短編はとても日本語が綺麗

驚くほど綺麗


太宰が生活を立て直すため療養のために訪れ、実際に過ごした日々を綴ったお話

富士についての記述が何度もでてきるけど、一度も同じ表現は繰り返さず

まるでとある人間の生き様の如く見守る太宰

富士山について、いままで一体いくらくらいのひとが言葉に乗せて称えたことだろうか、

それにしても太宰治のような感性で、情景を描き、まるで憎めない恋人のような感覚でかけるひとはほかにいるのであろうか

月見草のお話の部分なんて唸ることしかできない

花嫁とかカメラのくだりは、見事すぎて逆につまらない

ただ、文章を愉しむ作品です


富士は小学校の頃登ったし1年半くらい前には富士を眺めるためのハイキングにとまりがけでいきました

あいにくの天気で、絶景ではなかったのですが、霧靄の中に聳え立つ日本の山は、やはり素晴らしかった

あ~また登山したいなぁ


ひとはなぜ富士山を目指すのか。

色々な理由があるであろうが、

本能的に天を目指す本質が人間には備わっているのかもしれない



このお話がほぼ実話ならば、生活の中にいくらでも詩的なことって隠れていて、

それに気づけるセンシティブな人は、同じ日々でもこうも感じ取ることができるのか



河口局から郵便物を受け取り、またバスにゆられて峠の茶屋に引返す途中、私のすぐとなりに、濃い茶色の被布(ひふ)を着た青白い端正の顔の、六十歳くらゐ、私の母とよく似た老婆がしやんと坐つてゐて、女車掌が、思ひ出したやうに、みなさん、けふは富士がよく見えますね、と説明ともつかず、また自分ひとりの咏嘆(えいたん)ともつかぬ言葉を、突然言ひ出して、リュックサックしよつた若いサラリイマンや、大きい日本髪ゆつて、口もとを大事にハンケチでおほひかくし、絹物まとつた芸者風の女など、からだをねぢ曲げ、一せいに車窓から首を出して、いまさらのごとく、その変哲もない三角の山を眺めては、やあ、とか、まあ、とか間抜けた嘆声を発して、車内はひとしきり、ざわめいた。けれども、私のとなりの御隠居は、胸に深い憂悶(いうもん)でもあるのか、他の遊覧客とちがつて、富士には一瞥(いちべつ)も与へず、かへつて富士と反対側の、山路に沿つた断崖をじつと見つめて、私にはその様が、からだがしびれるほど快く感ぜられ、私もまた、富士なんか、あんな俗な山、見度くもないといふ、高尚な虚無の心を、その老婆に見せてやりたく思つて、あなたのお苦しみ、わびしさ、みなよくわかる、と頼まれもせぬのに、共鳴の素振りを見せてあげたく、老婆に甘えかかるやうに、そつとすり寄つて、老婆とおなじ姿勢で、ぼんやり崖の方を、眺めてやつた。
 老婆も何かしら、私に安心してゐたところがあつたのだらう、ぼんやりひとこと、
「おや、月見草。」
 さう言つて、細い指でもつて、路傍の一箇所をゆびさした。さつと、バスは過ぎてゆき、私の目には、いま、ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、花弁もあざやかに消えず残つた。
 三七七八米の富士の山と、立派に相対峙(あひたいぢ)し、みぢんもゆるがず、なんと言ふのか、金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすつくと立つてゐたあの月見草は、よかつた。富士には、月見草がよく似合ふ。


有名な記述ですが、これは富士を「権力や権威」の象徴であり、月見草はそれに歯向かう太宰自身だ、という解釈はいまいちピンときませんね、わたしはこの部分を読んで、結局太宰は可憐な月見草であっても富士と相対することで輝きがますと考えなによりもまず富士に魅せられているわけで、もちろん男性ならば常に持っているであろう、権力の希求心という野心も含まれているとは思うけど、もっとここでいう富士は、太宰の感じる世の中、社会、世界のすべて、不透明で予想だにしないものに対する恐怖、そして魅力、つまりは生きづらいこの世のすべてのものであって、でも自分だって得たい、そういう堂々たるものにいちばんよく似合うのは、どこにでもあるような小さなお花。ちっぽけな自分。老婆への好意は、その大きな富士よりも小さなお花に慮るセンスであるわけです



似た雰囲気のお話で「黄金百景」もあります

女中とのお話で最後の「負けた。これは、いいことだ。そうなければ、いけないのだ。かれらの勝利は、また私のあすの出発にも、光を与える」にすべてが凝縮された整合性のとれた素敵な短編

ひとがいちばん苦しむのは、罪に対する罰ではなく、それを許してくれた者への罪悪感なのだ・・。

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