前回の予告通り、今日からようやく京城日本人新聞記者達の話となってくる。
9回目なのに。(笑)
では早速。
1909年(明治42年)8月28日付『憲機第1683号』より。


一.先般来大韓日報に連載せる、度支部司税局長鈴木穆に関する記事
二.先般来京城新報に連載せる、貴夫人の墮落と題する記事

右2項の記事に付、昨27日三浦京城理事官より該記事の連続連載を中止することを両新聞社に命令したる趣にて、且理事官より新聞紙の掲載記事に関し注意する所ありたる昨8月27日附京城理事庁諭達第7号に付、各新聞記者の理事庁に対する態度方針を一定する為め、近々の内各新聞者連合の上記者大会を開催せんと、目下彼等の間に内議中なりと。

以上。



大韓日報の度支部司税局長鈴木穆の記事とは何か不明なものの、もう一方の記事は、前回取り上げた、京城新報の「貴夫人の墮落」という記事ですね。
ここでも、記事の具体的な内容を確認しないと何とも言えんなぁ。

そして、さすがに理事庁諭達となると、どのような中身であったか探す気も失せる・・・。
1908年8月に関連しそうな事件といえば、「韓国著作権令」くらいかなぁ。

ということで、さっさと先に進もう。
1909年(明治42年)8月30日付『憲機第1688号』より。


(8月28日憲機第1683号参照)

初め、峯岸京城新報社長及牧山日本電報通信京城支局長との間に記者大会を開催し、理事官の言論抑圧に関し記者団の態度を決議し、之を東京の同業者に電報せん計画なりしものの如きも、各記者間の意見一致せず、未だ理事官は発行停止を為したるにあらず。
且つ三面記事のことに関し、大会を催さんとするは大人気なしとの1、2の意見者もありて、記者大会を催さんとするの儀は、今日の処にては果して実行を見るや否や、殆んど不明の状況に在りと。

以上。



工エエェェ(´д`)ェェエエ工工。
折角当事者の峯岸は兎も角、「電通」の牧山支局長もやる気満々だったのにぃ~。
しかも、前回京城日本人新聞記者達の話となってくると予告したのにぃ~。(笑)
ということで、記者団の話はもうちょい先でした。 m( _ _ )m スマヌ

1908年8月27日附京城理事庁諭達第7号というのは、その当時何等でも問題とされていない事を考えると、恐らくは大した内容でもないのだろう。

そして、三面記事で記者大会を催すというのは、大人気無い、と。
内容の真偽がどうでも良いのはデフォルトなんだろうか・・・。
でも、「報道・表現の危機を考える弁護士の会」によれば、「報道機関は連帯してその権利を守らなければならない」そうだから、三面記事とはいえ一致協力して当たらないと怒られちゃうよ。ゲラゲラ。

さて、続いては1909年(明治42年・隆熙3年)9月8日付『警秘第2826号の1』。


一.峰岸繁太郎主宰の京城新報発行部数は、僅かに1,300余枚にして、収支相償はず、毎月欠損と云ふ。

平安南道价川郡より清国臨江縣江土崖に向け、韓人14名何れも家族を携へ、移住の為め出発せりと云ふ。
右及通報候也。



後半は、今回の連載には関係無い。

前段部については、前回は大韓日報についてその経営の厳しさを見ることができたが、ここでは京城新報の経営状態が悪いことが窺える。
反日新聞で有名な「大韓毎日申報」ですら、1908年5月の調査で英文・国漢文・諺文併せても13,000部余であるとされる。
最も、「大韓毎日申報」も国債報償費費消事件以降、凋落の一途を辿るのだが。
というわけで、読者となれる層自体が少ない大韓帝国では、新聞が商業ベースに乗らないのは仕方がなかったものと考えられる。

続いて、短い文の中に今までの史料でメイン出場してきた人々が、一堂に会す史料。(笑)
1909年(明治42年)9月8日付『憲機第1825号』。


一.予て戸叶(大韓日報)、峯岸(京城新報)、大村(龍山)等の手に於て、統監府の政策に関し失態と認むる事項及び、今回新聞紙改正規則等を併せて目下滞在中の大内暢三、安達謙蔵の2代議士に一昨23日夜提供したりと。

二.両代議士は、前記調査書に就き研究の上、先づ一応統監に会見を求め、其意見を聴きし上、不日来韓すべき筈なる福岡県代議士的野範助の到着を俟ち、協議することに決し居れりと云ふ。

三.一昨23日、当地某通信通員は、在長崎代議士鈴木天眼(東洋日ノ出社長)宛渡韓の有無問合の電報を発せりと。

以上



んー。
アジア主義者がいっぱい並んでますなぁ。

戸叶薰雄、峯岸繁太郎、大内暢三については今まで取り上げてきた。
特に、10月28日のエントリーでは戸叶と大内の繋がりを記す史料もあり、恐らくこの情報提供も既定路線の話だったのだろう。

大村(龍山)とは、龍山居留民団議員の大村百蔵であろう。
どのような人物であったかの詳細は不明である。

安達謙蔵は、閔妃殺害事件に係わった人物の一人。
大正デモクラシーでも活躍した人物であり、後に加藤高明内閣で入閣し、若槻礼次郎内閣の際に挙国一致を唱えたり、中野正剛と国民同盟を結成したりする人物である。

的野範助については詳細不明ながら、大内暢三や安達謙蔵がその到着を待って協議すると。

鈴木天眼は、史料にあるとおり東洋日ノ出社の社長であり、東洋日ノ出社といえば孫文の支援をした事で有名である。

この史料の頃は、新聞紙改正規則の改正、つまり10月13日のエントリーで取り上げた、各社が 保証金が倍額になった事について色々と画策している時期である。
10月13日のエントリーの1909年(明治42年)9月8日付『憲機第1731号』によれば、「一時反対運動の挙に出んとする内談」があったそうだが、これは、今日の冒頭で取り上げた2つの史料と関係しているのだろうか?

さて、今日最後の史料は、再び峯岸に関するもの。
1909年(明治42年)10月14日付『憲機第3225号』である。


昨13日帰韓せし、京城新報社長峰岸繁太郎上京の内容に関しては、世説區々にして何れも信を置き難きも、東洋拓殖会社の方針に対し、極力反対せんとする意見を齎らし上京したるは、事実なるが如し。
過般来京したる渋川玄耳・夏目漱石両名も、峯岸の意思を承け、同会社の方針果して日韓両国人の意嚮に適合せざるや否、之を実地に調査せんが為めの用務にして、帰朝後其意見を発表する筈なりと云ふものあり。
右御参考迄及報告候也。



夏目漱石あたりが公文書にでてくると、ビックリしますな。(笑)

東洋拓殖会社と新聞社の関係については、少し遡るが次のような面白い史料もあるので紹介しておく。
1909年(明治42年)4月17日付『憲機第801号』。


東洋拓殖株式会社の事業上に関し、各新聞は筆を揃ひて漸く批難を加ふるの傾きあり。
此事に関して、左の事情伏在せりと謂ふものあり。

一.同会社組織なるや、東京大阪に於ける2、3の大新聞と京城の各新聞は補助金を得んと、同社に対し種々の運動をなしたりと。
然るに、重役中に内地新聞は必要なし。
京城の各新聞に、平等に補助金を与ふることに決し、年額一新聞500円宛と云ふ事に決定せしも、余まり少額なりと云ふ論者ありて、結局一新聞ニ1,000円を補助することとなり、之れを発表せんとする前に際し、同会社の事業上に1、2の批難を加ひたる新聞ありしため、宇佐川総裁は頗る立腹して遂に此補助金問題は取止めになりしと。

二.新聞社は、種々の運動を為せしと雖ども補助を与ふる模様なきを以て、彌よ論難する事になりたりと云ふ。
然れども、一面には今尚ほ機関新聞たらんと内密運動しつつある向もありと。

三.京城日報を除く外他の新聞は、今後益々同会社の内幕及び総裁以下の人物評等を記載するの風評あり。
中には、次期議会の問題材料に為さんと、攻撃資料を集め居るもありと。

以上。



ほとんど風聞によるものであり、具体的な名前も出てきていない為にこれまで取り上げなかったが、今日取り上げた一連の史料を見ると、中々面白いのではないかと思う。
また、一方では9月30日のエントリーで取り上げたように、大韓協会あたりは賛成しているわけで。

さて、前段の史料に話を戻そう。
渋川玄耳はこの時朝日新聞社の嘱託であり、この年の12月には社会部に入社する。
夏目漱石は、この時既に朝日新聞社員である。

彼等が意見を発表するということは必然的に朝日新聞に載るのだろうが、そのバックには峯岸が居る、と。
んー、楽しい構図だなぁ♪


と、一人で盛り上がってきた所で、今日はこれまで。


京城日本新聞記者団(一)
京城日本新聞記者団(二)
京城日本新聞記者団(三)
京城日本新聞記者団(四)
京城日本新聞記者団(五)
京城日本新聞記者団(六)
京城日本新聞記者団(七)
京城日本新聞記者団(八)


AD

気分転換を済ませた所で、前回の続きを。
とは言っても、前回同様、大きな動きのある話では、まだ無い。

ということで、まずは1909年(明治42年)6月22日付『憲機第1290号』から見ていこう。


(3月15日憲機第562号参照)

大阪朝日新聞6月15日発刊紙上より連載し、6月20日の紙上を以て完結せし統監政治を評すの1記事に、内田良平より曩に同志の間に配附したりと称せらるる「漢城私研」と題する(武田範之の報筆?)ものと、殆んど同一なり。
御参考迄内報す。



この3月15日憲機第562号とは、9月10日のエントリーで取り上げた『憲機第562号』の事である。
その際紹介したとおり、「漢城私研」とは統監政治に関する意見書であり、大竹貫一の帝国議会での質問は、その中から出されたと言われるものである。

で、その内容を大阪朝日新聞が載せた、と。
書いたのは、武田範之であることが疑われている、と。
武田範之は、武田大和尚の異名のあるとおり曹洞宗の僧侶だったようである。
また、「天佑侠」「黒龍会」など内田良平のブレーンであったとされる。

よく、朝日新聞を指して「右」から「左」への転向などと言うわけだが、何のことはない「アジア主義」が大好きなだけであって、それは100年前から変わっていないだけの話である。

次は、大韓日報とその社長戸叶薰雄の話。
1909年(明治42年)7月31日付『憲機第1518号』より。


一.大韓日報は、8月上旬、西小門内支那人家屋を借り受け移転することに決定し、目下移転の準備中なり。
(業務拡張の為め移転すと謂ふも、曙町の現家屋は、負債の為め債権者に譲渡したるに因る)

二.同日報に連日広告したるも、日韓理想団は同所へ移転後、第一回の発会式を同日報社の楼上に於て挙行する趣なり。

三.同社長戸叶薰雄は、7月31日限商業会議所書記長を辞し、自今専ら新聞に従事すと。

以上



大韓日報に限らず、この時期の半島における新聞の販売部数は少なく、経営は厳しかったようである。
で、負債のために現家屋を債権者に譲渡し、新しい所に転居準備中と。
商業会議所云々に関しては、この少し前に取り上げられている史料があるので、そちらの方も見てみよう。
1909年(明治42年)6月8日付『憲機第1198号』より。


一.大韓日報社長にして、京城日本人商業会議所書記長なる戸叶薰雄は、先般辞表を差出したる処、其辞職の原因は、自ら専心新聞経営の任に当らんとすと云にあり。

二.然るに此辞職問題発表せらるるや、其候補者たらんとするもの10余名も及び、中には種々なる運動を試みたるものあり。
又戸叶の身上に関し、中傷的讒誣の言を為すものあり。
此事議員等の耳に入り、目下他に相当候補者なしと、一は同所議員の半数改選並に会頭交代目前にあるを以て、議員一同にて留任勧告の決議を為したるにより、戸叶は此程辞表を撤回したりと。

以上。



以前取り上げた、朝鮮「タイムス」を主とする政談演説会においても、大邱民長問題で危険な行為を為したとして、冲田某が退韓処分を下されていたわけで、中々社会的地位の争奪戦は激しかったようである。
いずれにしても、辞任延期の理由が、京城日本人商業会議所議員の半数改選並に会頭交代までであった事から、約2ヶ月後にそれが行われ、戸叶は予定通り書記長を辞任したのだろう。

次の史料が、再び峯岸及び京城新報の記事となる。
何か、内田と戸叶と峯岸の話しか出てこないわけですが・・・。(笑)

この史料は、10月24日のエントリーにおいて述べた、「後日実際にゴシップ記事が京城新報に掲載される事となる。」のゴシップ記事に関する件である。
尚、10月24日のエントリーでは全て伊藤統監の話のように見えるが、このゴシップ記事は、曾禰に統監が代わっているので注意。
では、まずは1909年(明治42年)8月11日付『憲機第1593号』から。


京城新聞社長 峯岸 繁太郎

右者、京城新聞第3面に韓国上流の風儀なる題目の許に、各大臣を始め其他上流紳士の悪事醜行を記載し、以て陰に彼等を脅迫し、不正の利益を得んとするの目的を以て、目下之れが材料蒐集中なりと云ふ。

以上。



どうやら、韓国政府や上流階級者を攻撃していたのは、大韓協会や一進会、儒生などには限らないようで。
そして、1909年(明治42年)8月21日付『憲機第1652号』へと続く。


一.頃日来、京城新報紙上に、延壽太夫の清元演奏会のことよりして同紙上に記載しつつある貴婦人の墮落と題し、統監一家の家庭に関する記事を掲載しつつあるが、右は、同新聞社長たる峯岸繁太郎は京城に於ける長唄会の会長とも云ふべき位置に居るものに対し、之に何等の協議も為さざるのみならず、全く除外して京城日報の大岡が万事を担任し、専行したる為め、峯岸は非常に感情を害し、斯かる記事を掲載するものに至れるなりと云ふ。

御参考迄。



という事で、曾禰の家族に関しても「貴婦人の墮落」として記事にしてしまう。
理由は、長唄会の会長ともいうべき位置に居る自分が、ないがしろにされたためと見られる、と。

_| ̄|○

この史料の内容、及び「貴婦人の墮落」という記事の内容の真偽は兎も角として、半島における民間人の主導権争いは、かなり激しかったようである。

という事で、これまでは個別事例に関して史料を提示してきたが、いよいよ次回からは京城日本人新聞記者団の話となってくる。


今日はここまで。


京城日本新聞記者団(一)
京城日本新聞記者団(二)
京城日本新聞記者団(三)
京城日本新聞記者団(四)
京城日本新聞記者団(五)
京城日本新聞記者団(六)
京城日本新聞記者団(七)


AD

紛失

テーマ:

折角、NAVER総督府日報からお褒めの言葉を頂いたのだが、別件で忙しいかったので、久しぶりにニュースの方をいじくる事にする。(笑)


韓国国家記録院が憲法の原本紛失、監査院調査で判明

【ソウル=中村勇一郎】
韓国の公文書を保管する国家記録院が、1948年制定の韓国憲法の原本を紛失していたことが27日、明らかになった。

監査院が初めて実施した調査によると、国家記録院はまた、52―62年の改正憲法の原本も重要書類としてではなく、一般書類として保管していた。

その一方、記録院が大統領関連の重要資料として保存していた文書の73・9%が資料としての価値がない一般文書だったという。

行政自治省も48年から62年にかけて使われた韓国建国後最初の国印を紛失していたほか、条約の関連文書など重要文書約15万枚を一般文書として大学に預けていた。



(゚∀゚)≡☆ ピカーン!


大事な書類が見つからないときは

  
 昔、高宗(コジョン)が燃えたと嘘をついた条約書を、明洞聖堂に隠していた故事にならって、明洞聖堂を探してみればいい。

http://dreamtale.ameblo.jp/day-20050525.html



さて、もう一つ。


大韓民国国璽1号はいったいどこに

国家記録院が昨年末から大韓民国初の国璽(こくじ)を探しているが、その所在はいまだ五里霧中だ。

国家記録院の28日の発表によると、1948年の政府樹立直後から1962年末まで使用した国璽1号を探すために、国璽製作と管理に携わってきたスタッフ約60人を昨年末から調査してきたが、いまだにこれといった手がかりをつかめずにいるという。

同調査過程で、国家記録院が保管中の国璽の形と違う記録が発見されたことで、疑問が提起された。

当時の国璽製作所がソウル中区忠武路(チュング・チュンムロ)の「チョンサンダン」であることまでは確認された。

また、国璽製作に関与したとみられる御璽篆刻職人のチョン・ギホ氏の「古玉璽看繪鄭図」から、取っ手が龍の形であることがわかった。

だが、旧文化広報部が国家記録院に渡した写真資料11枚には、取っ手がサップサルケ(韓国の代表的な犬種)の形をしており、その真偽のほどは明らかではない。

サップサルケの形をした国璽の取っ手はあまり使われることがないうえ、犬の形が通常の位置とは違った対角線上にあるため、同資料の国璽が国璽1号でないかもしれないという疑惑が提起されたためだ。

国璽1号を管理してきたある関係者が、国璽の取っ手の形はサップサルケではなく龍だと主張したことがわかった。

朴贊佑(パク・チャンウ)国家記録院長は、「本物の国璽はそのまま保管し、別の国璽を作って使用した可能性があり、今のところ何ともいえない」と述べた。

朴院長は、「国家記録院が所蔵している資料と関係者の証言をもとに、所在確認に最善を尽くすが、もし確認が不可能なら考証を通して再製作する計画だ」と述べた。

国璽1号に関する情報提供は国家記録院保存管理チーム、042-481-6316~7まで。



さて、今までのニュースや文を踏まえて、日韓歴史共同研究委員会における、李相燦の(補論)1900年代初、韓日間諸条約の不成立再論を見れば、(・∀・)ニヤニヤできる場所が増える事、間違いなしだったりするのである。


ってなわけで、稀に時事ネタでお茶を濁してみる。(笑)


AD

あーあ。
4ヶ月弱ぶりくらいにブログ、サボちゃったよ・・・。(´・ω・`)
意味もなく、ちょっとショック。


気を取り直して行きます。
今日最初の史料は、新聞記者団とは直接は関係ない史料。
しかしながら、当時の構造理解上重要になってくる史料ではないのかな、と思ってみたり。
それでは、1909年(明治42年)4月10日付『憲機第735号』より。


福岡県代議士進歩党員 大内 暢三

右之者、第25議会に韓国政務に関する諸問題に対し、自己が奈何に運動せしかを在韓国居留民の重なるものに知らしむるの為めと、一は電気鉄道買収の要件にて、来る15日頃京城へ着する旨、懇意のものへ通知ありしと。



日中友好や自由民権運動で有名な大内暢三。
所謂アジア主義者であり民権派である。 9月10日のエントリーでも出てきたとおり、1909年(明治42年)2月19日には、統監政治が懐柔策に過ぎ、そのため日本の権利及信用を失墜しつつあり、韓国に於て日本人の商工業は少しも発逹せず、統監政治が間違っている事に起因するという質問を為そうとしているメンバーの一人であった。

では、この文中の「懇意のもの」とは誰の事であろう。
1909年(明治42年)5月28日付『憲機第1109号』を見てみよう。


福岡県代議士大内暢三は、群山地方に於て議会開会中の経過報告演説を終へたる後ち来京し、京城に於ても同報告演説を為す旨戸叶薰雄の許に郵信ありたりと。 多分来月初旬頃となるべしと云ふ。


大韓日報の戸叶薰雄。
「懇意なるもの」とは、戸叶の事を指していると思って良いだろう。
で、京城で議会の経過報告演説をする旨の郵便を出しているそうだ、と。

9月10日のエントリーの質問しようとした内容も、前回の戸叶の主張とほとんど変わりませんしねぇ。


続いて1909年(明治42年)6月2日付『憲機第1148号』。


一.韓国政府に於ては、経済上の関係より度支部の主唱にて国立銀行を設立し、韓国貨幣及兌換券等を発行せしめむと、当局者間に於て之れが計画内議中の由なるが、第一銀行韓国支店に於ては、同銀行が韓国政府との契約に拠り得たる権利を侵害せらるるものとし、之れが防禦策として、先づ在京各銀行の重役及京城新報社長峯岸繁太郎に謀り、極力反対運動を為さんと企て、数日前より同新聞買収方に関し峯岸と屡々協商を重ねし由にて、其約纏まり、5月三31日午後清華亭に峯岸及十八銀行、百三十銀行の重役を招き、数時間に亘り何事か凝議せし由。
而して其内容詳かならざるも、韓国政府計画の国立銀行設立に反対の記事を連載し、輿論を喚起し、其計画をして成効せしめざる様反対せんとするにあるものの如しと。
之れが為め、第一着手として6月1日の京城新報第二面に、社告として該件反対運動の記事を掲載するに至れりと。
尚視察中。



10月24日のエントリーに見られたように、峯岸は銀行業界にある程度の地位を確立したのかな?
やはり、昨日の峯岸の演説、「金銭の為に腰を屈するものにあらず」を思い出して笑ってしまうわけですが。(笑)

しかし、京城新報の記事、見てみたいよなぁ・・・。


さて、次が内田良平の名前も出てくる、1909年(明治42年)6月7日付『憲機第1189号』である。


(6月4日憲機第1161号参照)

一.去る4日。
大韓日報が号外を発したる東京電報、統監昇任條件として記載ありし條項は、東京電報により記載したるものなるが、右は在東京内田良平が苦肉策に打電したるものなりとの説、専らあり。

二.右新聞(大韓日報4日夕刊に右号外を再録す)記載に依り、韓人側の動静を視察するに、多少の同様、不安の模様なきにあらずと雖ども、今日迄の所にては格別のことなく寧ろ之を信ぜざるもの多し。



それではこの、6月4日『憲機第1161号』も見てみよう。


昨3日夕刻来日本電報通信社京城支局は、東京電報として左の意味の通信を、各購読者に通信し居れり。
就ては、今4日の夕刻新聞及明5日の各新聞には、或は之れを掲載するに至るならんか。

曾禰副統監の統監就任條件、左の如しと。
一.韓政府は、6部制を減縮する事
一.2、3大臣に邦人を入るる事
一.邦人次官の権限を拡張する事
一.兵馬の権は依然たる事
一.邦人の産業を保護する事

以上。

追て本件総務長官へは即時通報済。



丁度この時期、伊藤の統監辞任と曾禰の統監就任の時期なわけであるが、上記のような条件があったのかは不明である。
とりあえずは、東京に居る内田良平が、苦肉の策で打電した説が大勢を占めている、と。
まぁ、これまでのマスコミの態度を見れば、内田の画策でも電通の画策でもどちらでもあり得る気はする。

内田が曾禰との折り合いが悪いことや、条件が全て対韓国政府向けの条件である事を考えると、統監に昇任する条件としては極めて胡散臭い。
「条件」というより「方針」であれば理解できるのだが、この1ヶ月後、1909年(明治42年)7月6日の『韓国併合ニ関スル閣議決定(レファレンスコード:A03023677700)』の際に示された、『対韓施政大綱』という、併合の時期が到来する迄の対韓政策の方針を見ても上記5条件とは違うわけで。

【1画像目】 【2画像目】 【3画像目】

何より私に怪しさを感じさせているのは、4番目の「兵馬の権は依然たる事」と最後の「邦人の産業を保護する事」である。
4番目は、この時あまりにも当然の話であって、今更条件とする事は考えられない。
そして、「邦人の産業を保護する事」を怪しく思うのは、ここまで史料を見てきた私の先入観。(笑)
さて、本当の所はどうだったのだろうか?


ここで、冒頭の史料で紹介した大内暢三の第二報。
1909年(明治42年)6月9日付『憲機第1210号』より。


福岡県代議士(進歩党所属) 大内 暢三

右は近日中に来京し、議会経過の報告を演説なすべきは既報の如くなるが、彼の入京は本月20日頃なるべく。
而して彼は、単に議会の報告のみに止らず、来る議会に日韓関税改正案提出あるべきに関し、之が実地調査及過般発布せられたる居留地以外在留の外国人にも適用せんとする三税賦課徴収法は、果して一般外人の能く服従し居るや否やを調査するを主としたる要件にして、又前議会に提出せられたる民長官選令の実施(龍山民長の選任)は、政府委員兒玉統監府書記官の説明の趣旨に反し、議会を侮辱したるものなりとの聞へあり。
之が実況を調査せんとするものの如しと。



んー。
情報が錯綜しているようで、報告書により渡韓目的がまちまちですな。
いずれの史料も、何故か在韓日本人に対して帝国議会の経過報告をしにくる事だけは一致しているが。


んー、本題の京城日本新聞記者団に入るまで、長いなぁ・・・。
って、好きでやってるわけですが。(笑)
今日は、これまで。


京城日本新聞記者団(一)
京城日本新聞記者団(二)
京城日本新聞記者団(三)
京城日本新聞記者団(四)
京城日本新聞記者団(五)
京城日本新聞記者団(六)



前回は、京城日本新聞記者団を形成する元となった、「国旗破棄事件」に関する政談演説会についての史料を見た。
個々の演説の中身はかなり笑えたわけだが、朝日新聞のNHK番組改変に関する虚報問題に関して、「報道・表現の危機を考える弁護士の会」なる団体が出した声明文によれば、(1)報道機関の第一の使命は権力監視機能であり、統監府の政策を批判している今回の政談会は条件を満たしており、(2)事件の概要については、真実相当性が優に認められておりクリア、(3)表現の自由・報道の自由があるから取材不十分でも問題ないそうなので、今回の史料における政談演説会は「報道・表現の危機を考える弁護士の会」のお墨付きってことで。(笑)
ま、そんなお墨付きをもらったところで、嬉しくも何ともないわけですが。

さて、馬鹿に向かって馬鹿と言うのはここまでにしておいて、続きの史料を見ていこう。
前回の政談演説会は、京城の旭町歌舞伎座で行われたわけだが、同様の政談演説会が仁川及び平壌に於いても行われている。
まずは、1909年(明治42年)3月1日付『憲機第469号』より。


2月25日午後7時40分より、大邱観商場楼上に於て国旗破棄問題に関する演説会を開会せしが、其状況左の如し。

一.弁士は、大韓日報記者山道亞川、朝鮮日々新聞記者今井蓼州、大阪毎日新聞社京城支局主任羽田浪之紹の3名にして、聴衆は日本人約600余名にして、一般聴衆に大に感動を与へたるも、場内静粛にして異状なかりし。

二.演題に山道亞川、国旗事件の顛末に就て。
今井蓼州、国旗問題と統監政治に就て。
羽田浪之紹、国旗問題の解決法に就て等の演題なりき。

右の如く、演題は各異なると雖ども、其演説の大要は大同小異にして、其要領は左の如し。

三.演説の要領は、隆熙3年2月韓国皇帝北韓巡幸当時、我国民の守護神とし我国民を代表する日章旗に対し、拭ふべからざる一大侮辱を加へられたり。
吾人、日本国民として斯の如き重大事件を等閑に附するを得んや。
伊藤統監の、巡幸に陪従せられたる主義目的とする処は、韓皇の御伴にあらず。
又、同行したるにもあらず。
其真意は、韓皇の保護に出でたるものにして、其責任は重且つ大なり。
然るに、不幸にも此行幸中、国旗侮辱問題なる重大事件を惹起するに至りたれば、大に国民一般の遺憾とする所なり。
当時、新義州に於て同地学生が国旗を破棄したるは素より、学生又は教師の責任にあらず。
監督長官、即ち学部大臣の責任なり。
苟も我国旗に対し侮辱を加へられ、日本国民として之を袖手看過することを得んや。
日本臣民協同一致大に期する処なかるべからず云々。
午後10時30分、無事閉会を告げたり。
以上。



前回は、主催者『大韓日報』、『電報通信社』、『大阪朝日新聞』、『雑誌朝鮮』、『時事新報』、『京城新報』という面子だったが、今回は、主催の『大韓日報』は変わらないものの、その他は『朝鮮日日新聞』、『大阪毎日新聞』に変わっている。
演説の中身については要領を纏めたものではあるが、前回の「当局者の処決」という表現から、「監督長官、即ち学部大臣の責任」とハッキリ名指して居る。
で、世論煽動は変わらず、と。
続いてが、平壌での様子。
1909年(明治42年)3月8日付『憲機第515号』。


一.国旗問題に関する政談演説会開催の為め、去る6日、当京城より電報通信社の野島、朝鮮日々の今井、大韓日報の山道等3人が平壌へ出張し、同地に於て演説会を開催したりと。
之れにて同問題演説会を終決とし、今後は右記者等の中に委員を撰定し、総理大臣李完用に面接し、国旗問題に関する韓国各地居留民の世論及決議文の要領を告げ、以て処決を促すことに決せりと云ふ。



電通は野島となっているが、これは能島の誤りではないだろうか。
他の『朝鮮日日新聞』の今井及び『大韓日報』の山道は、仁川と変わらず、と。
これで、国旗問題演説会が終了したわけである。
他の地方に於いても、同様の演説会が為されているかも知れないが、その場合は史料の拾い忘れ。
乞うご容赦。


今日はこれまで。


京城日本新聞記者団(一)
京城日本新聞記者団(二)
京城日本新聞記者団(三)
京城日本新聞記者団(四)
京城日本新聞記者団(五)



今回あたりから、前回までの連載において出てこなかった新聞社も、ようやく出てくるようになる。
京城日本新聞記者団の原型らしきものが形成される過程という事になるだろうか。
それでは早速いってみよう。
史料は、1909年(明治42年)2月24日付『憲機第427号』より。


過般、新義州へ行幸あらせられたる節、韓国学校職員及其生徒中に日本国旗を破棄したるものありたる事件に付、統監府当局者が、之に対し日本の威信に関するを以て此際公開演説会を開催し、世論を喚起して当局者を覚醒せしむるの必要ありとし、大韓日報之れが主宰者となり、来る27日京城旭町歌舞伎座に於て政談演説会を開催する計画中にて各新聞及通信社に向け賛否問合中の趣きなるが、昨23日迄左の通り申込みありしと。

不賛成 京城日報
賛成 電報通信
同 大坂毎日
同 時々新報

他は目下交渉中。
時日は劇場の都合に依り、変更するやも知れずと云ふ。



この史料で指す「国旗破棄」が、具体的にどういったものかは不明である。
次に紹介する史料を併せて勘案するに、新義州の学生たちが純宗の行幸に際して日韓両国旗を持ってくる筈だったのに、結局韓国旗しか持ってこなかった事を指しているのだろうと思われる。

比定が甘くて申し訳ないが、兎も角「国旗破棄」事件があったため、統監府当局者が公開討論会を開催し、世論喚起し、当局者を覚醒させる必要があるとした、と。

ところが、その政談演説会には、統監府の御用新聞とされる京城日報は不賛成。
次の史料において演説会の概要が記されているのだが、そこでも伊藤統監の対応を疑問視する内容が記されている。
ならば、この統監府当局者が話の出所であるのが本当だとすれば、伊藤のぬるい対韓政策に反対の立場であって、且つマスコミに演説会を開かせる事の出来る人物ということになろう。

此処で問題です。
統監府当局者であるにも係わらず、この時伊藤博文の方針等に反対だった、マスコミを動かせる人は誰でしょう?

私には某嘱託員しか思い浮かばないわけだが、某嘱託員はこの頃には渡日している可能性もあり、断定できる史料が無いため名前を出すのは避ける。(笑)
読者の方で、伊藤に反対する統監府当局者を思いついた人が居たら、コメント欄で教えてください。

そして、この政談演説会の内容を記した史料が、1909年(明治42年)3月1日付『憲機第466号』となる。


2月27日午後7時より、京城旭町劇場歌舞伎座に於て各新聞(京城日報は加らず)及び通信社員等が開催したる国旗問題に関する政談演説会の状況。

一.午後7時20分頃、会場は満員となり立錐の余地なかりし。

二.演説大要
大韓日報記者山道亞川、発起人を代表して開会の辞を述べ、次に

電報通信社 能島 進
「国旗事件の経過」なる演題にて、内部より行幸地へ出張の官吏は、其出張先きより文書及電話にて学校生徒に日本国旗をも持たせ、奉迎せしむることに交渉したる顛末より、国旗を破棄するに至る迄の経過を論じ、伊藤公は之れを或は不問に附せんとするも、我々日本国民は決して之を黙過すべきにあらず云々。

大坂朝日 記者 大村 琴花
「国旗問題とは何ぞや」なる演題にて、我が日本は、韓国の為め幾拾萬の犧牲と幾拾億の財貨を棄てて今日に及びしものなり。
元来此韓国なるものは、我日本より云へば無能力者にして、即ち禁治産を受け居るものに等しき地位に居るものと云ふを得べし。
此被保護国たる韓国に於て、如此問題の起るは我々日本国民として頗る遺憾とする処なり。
第3たる外国に対し、恥ぢ入る次第なり。
故に此問題は決して軽視すべきものにあらず云々。

大韓日報 記者 山道 亞川
「革新の気運」なる演題にて、南北巡幸が果して幾何の効果を奏したるか。
却て日韓の和親を破るの結果を生ずるに至れり。
然れども、吾人は努めて沈黙の態度を取り其筋の処置を待つと雖ども、国旗問題に付ては何等の処置を為さざるを以て、日本国民として沈黙する能はざる場合に遭遇せり。
本問題は、日本帝国を侮辱したるものに付、韓国上下をして謝罪せしむるは素よりの事なるが、関係当局者を処決せしめざる可からず云々。

雑誌朝鮮 記者 釋尾 旭邦
「国旗問題は最後の洗礼を受くるにはあらざるか」なる演題にて、統監府設立以前と統監府設置後の韓国人は、其性質が全く異り居れり。
統監府設置以前の韓国人は、日本人に対しては万事服従し居りたるが、統監府設置後の韓人は、頗る暴慢にして反って日本人を侮辱す。
国旗問題の如き之れなりとて統監府の施政は懐柔に過ぐと為し、尚、在韓日本官吏が韓人官吏に対し頭の上らざるを冷評したり。

時事新報 記者 久田 日宇
「所謂国旗問題」と云ふ演題にて保護国と被保護国の関係を説きて、国旗問題を普通人、即ち無教育なる韓人の事とすれば問題となるべき事柄にもあらざるが如し。
然れども、苟も子弟教育の任にある学校教員或は其教育を受けつつある生徒、又た之れを司る処の学部に関係ありとすれば、決して恕すべき事にあらず。
将来韓人の行動を見て、我々は決して楽観する能はず云々。

京城新報 記者 峯岸 繁太郎
「偶感」と云ふ演題にて、我帝国の日章旗に対し被保護国民が之れに対し凌辱を加へたりとは、之れ実に容易ならざる問題なり。
辰丸事件に付ては、支那は謝罪したる先例あり。
然れども、支那と異り宗主国の国旗に対し陵辱したる不徳無礼に至ては、未だ曾て諸外国に其例なし云々。

大韓日報記者山道亞川は、演壇に立ちて左の決議文を読み上げ、満場拍手喝采にて之れを迎ひ演説会は無事解散せり。
時21時20分なり。
韓皇巡幸中に起りたる韓国人の我帝国旗に対し不敬行為は、日韓両国の親善を阻害するものと認め、当局者の処決を促し、以て統監政治の刷新を期す。

以上。



えーっと、まず一言叫ばせて下さい。

朝日新聞キタ━━━━(゚∀゚≡(゚∀゚≡゚∀゚)≡゚∀゚)━━━━!!!!!!!!!!(笑)

っと落ち着いたところで(笑)、電報通信社の能島進は、恐らく後に大阪電通の社長になる能島進であろう。
「伊藤公は不問に附すかも知れないが、我々日本国民は黙って見過ごすべきではない。」と。
煽ってますねぇ。


大阪朝日新聞の大村琴花は、「韓国は無能力者にして、禁治産者に等しい」と。(笑)
いや、その通りなんだけどね・・・。
しかも、国旗に対する姿勢が、今の朝日新聞と180度違うのが更に笑えますなぁ。


そして、主催者である大韓日報の山道亞川は、「我々は処分が決まるまで黙っていたが何の処置もない。韓国上下に謝罪させるのは素より、関係当局者を処決させなければならない。」
謝罪汁!(笑)


雑誌朝鮮の釋尾旭邦が、「統監府の施政がぬるいから韓国人がつけ上がってんだろ。」と。
んで、次が非常に面白い一言。

「在韓日本官吏が韓人官吏に対し頭の上らざるを冷評したり」。
さて、真偽はどうなのかねぇ・・・。(・∀・)ニヤニヤ



時事新報の久田日宇は、他の面子に較べれば比較的順当な意見。
但し、何気に「普通人、即ち無教育なる韓人」と言っていたりするわけで。(笑)


京城新報の峯岸繁太郎。
辰丸事件とは、恐らく公文では第二辰丸抑留事件と呼ばれる事件を指すと思われるが、経緯が不明。
つうか、「宗主国の国旗」って。(笑)


ということで、面白すぎるこの政談演説会は、日韓両国の親善の為に統監政治の刷新を求めて終わった。
ここで言う「統監政治の刷新」を各演説の内容から推測するに、より厳しい対処をしろという事であろう。

現代においてすら、韓国で日の丸に火を付け或いは食べる等の行為が行われる事に対して、普段はあまりの前近代人ぶり若しくは馬鹿さ加減に大笑いしている私でも、目の前でそれを行われればぶん殴るぐらいはするであろうし、「国旗」に対して特別な感情のある者以外にとっては、少なくともむかつく行為ではあろう。

演説個々の中身は兎も角、厳正な対処を求める姿勢はある意味において正しい。
しかしながら、前近代国家である大韓帝国に於いては、他国の国旗の毀損等については当然法制化されていないであろう。
その事から考えれば、統監府の姿勢の方が正しいという事になる。


と、最後だけ真面目に語ったところで、今日はこれまで。(笑)


京城日本新聞記者団(一)
京城日本新聞記者団(二)
京城日本新聞記者団(三)
京城日本新聞記者団(四)



1908年(明治41年・隆熙2年)4月23日付『警秘第1515号の1』、長いねぇ・・・。
飽きてきた気もしないでも無いわけですが。(笑)

そうも言ってられないので、昨日の続きから。


官憲と殖民
「タイムス」 記者 山下 次郎
我朝鮮「タイムス」は統監政治に対し曲筆するものにあらず。
近来、経済問題を標榜しあるにも拘らず、今回突飛にも五十八銀行の記事に対し発行停止を命ぜられたり。
我社に取りては実に致命傷なりと悲しみ、吾社の立場を明にして諸士の同情を得んと述べ、而して我社は統監政治に対する謳歌者にして、経済新聞を標榜しある者なるにも係はらず、官憲が斯る圧迫を加ふるは当局者が学問に乏しきの致す処ならん云々と論結せり。



経済新聞ねぇ・・・。
ま、事件自体の詳細が不明ではあるのだが、発行停止を受けたという事は、この時の聴衆も記事を目にしてはいないわけで。
それこそ、好きなように言えるだろうなと。


吾人の権能
大韓日報 主筆 戸叶薰雄
統監政治の大体を論評し、居留民の権能として如何なる義務を有するかを研究せんとすと説き起し、我々居留民は直間接に統監政治の円満を計り、我国権の伸張を期せざるべからず。
然に、居留民にして徒らに官憲に媚び盲従するものは、自己の権利を抛棄するものにして、居留民たるの資格なきものと云ふべし。
資格なきものは、寧ろ母国に去りて蟄居するに如かず云々。
余輩は大和民族を代表して渡韓したるものなれば、時事問題に関しては飽迄評論し義務を果さんとす。
今や統監府の殖民政策は、根本に於て誤てり。
即ち、政策の韓国本位は予期の事実に相違しあり。
余輩をして云はしむれば、対韓政策の要義は日本本位にして、韓国本位を加味せざるべからず。
然らざれば、極東の平和を維持する能はず。
昔は、泣く子と地頭とには勝たれずとの諺ありたるも、立憲政治の今日は、決して然らず。
冒頭に於て述べし如く、官憲の失態ある場合は直ちに忠言を呈し、以て居留民の権能を発揮すべし云云と結論せり。



居留民なのに徒に官憲に盲従するヤツは、居留民の資格なんぞ無いから国へ(・∀・)カエレ!!

統監府の韓国本位の政策は誤りであり、日本本位を要義とし韓国本位を加味すべきではない!
そうでなければ極東の平和は維持できない!

官憲に失態がある場合は、直ちに忠言して居留民の権能を発揮しなければならない!

煽動風味満載。(笑)
まぁ、こういうマスコミを見るたびに、じゃあお前等が暴走した場合は誰が止めるんだよ、という話になるわけで。
報道・表現の危機を考える弁護士の会」にとっては、これでも良いのだろうがね。


未定
京城新報 社長 峯岸 繁太郎
英国の「コロンウヱル」が、嘗て生前に自己の肖像を画工に命じ画かしめしに、画像優美に過ぎたるを業務に不忠なりとの故を以て之を斥けたりとの一小話を比喩とし、「スチーブン」が米国に渡航し、韓人は統監政治に悦服しありと過賞せし為め奇禍を買ひたりと論じ、統監が、東京に於て暴徒は已に鎮定に近づきたり、居留民は自己の政策に悦服しつつありと揚言するも、現時の韓国は正反対なりと難じ、統監は、前例「コロンウヱル」の性行と相反し、余輩新聞記者には自己の治績以上に記載すべきことを望まるるも、余輩は天職として過当の記事を掲載するものにあらず。
又、金銭の為に腰を屈するものにあらずと気焔を吐き、而かも統監は、我同胞に冷酷なるも韓人及外人には求めて接近しつつあり。
外人の如きは寧ろ其手腕なきを嘲笑し、韓人亦与し易しと為せり。
今回の大邱民長問題及朝鮮 「タイムス」五十八銀行問題の如き渺たる事柄に、退韓命令発行停止等の大薙刀を振ひしが、若し夫れ以上統監直接の問題に至らば、如何なる挙に出んとするやと揶揄的に演じ、次に統監政治の今日を、曇れる硝子窓に此喩し、曇りを掃除すべき人なきを、暗に統監部下に手腕あるものなしと諷し、忠言を呈するは唯一新聞記者あるのみなるに、其口を封じ、其の筆を奪ふは、記者を殺すと同様なりと結論せり。



スチーブンスが狙撃されたのは、この演説会の約一ヶ月前である。
良くWEB上で、スチーブンスの言として以下の記述を見ることが出来る。


朝鮮の王室と政府は腐敗堕落しきっており、頑迷な朋党は、人民の財を略奪している。
その上、人民はあまりにも愚昧である。
これでは国家独立の資格はなく、進んだ文明と経済力を持つ日本に統治させなければ、ロシアの植民地になるだろう。
伊藤博文総監の施策は、朝鮮人にとって有益で、人々は反対していない。



スチーブンスは、或る新聞記事を発端として最終的に張仁煥・田明雲に狙撃される。
その時の新聞記事が上記の言ではないかと思っているのだが、裏付けはまだ取れていない。
上記の言の出典を知っている方が居れば、お知らせ下さい。

伊藤の「暴徒は已に鎮定に近づきたり」は、実際に1908年前半以降激減するわけで、あながち嘘とは言い切れない。
尤も、10月22日のエントリーでも書いたとおり、伊藤が実際にこういった事を話したかどうかは不明である。


さて、今までの史料を見てきた私なんかは、峯岸が「金銭の為に腰を屈するものにあらず」等と言うと思わず笑ってしまうわけですが。(笑)
ちなみに、「若し夫れ以上統監直接の問題に至らば、如何なる挙に出んとするや」については、後日実際にゴシップ記事が京城新報に掲載される事となる。


無題
弁護士 高橋 章之助
弁護士などは、新聞記者退韓命令及新聞発行停止に付ては何等関連する所なし。
出席の相談を受けたるを謝絶したるは蓋し此理由ありと述べ、次て語を転じて曰く、命は統監府官吏の内幕を承知しあるも、弁護士の天職として、本夕の如き公開の席上に於て発表するものにあらずと、不得要領の■弁を試み居たるが、転じて韓国に来りて一番金儲けは、官吏を利用するにあり。
官憲も亦、人民を利用するにあり。
又韓国の裁判制度も近く改正せられ、其主脳部には日本人法官を採用し、従来の平理院漢城裁判所及之と同等の各道観察府裁判所を廃し、日本の制度に做ひ三審制度を採用することとなれり。
之れ、畢境治外法権撤去の準備に外ならず、愈々三審制度となりたる以上は、我々日本人にも統監は外国人と同様の保護を与へられんことを希望すと演了せり。

以上



弁護士などは、新聞記者退韓命令及新聞発行停止に付ては何等関連する所なし」って・・・。
石黒行平センセが、「居留民を蔑視する不当の処分」とか「非立憲の行為」とか言っちゃってますが。

というか、外国人と同様の保護って何だろう?


ってことで、1908年(明治41年・隆熙2年)4月23日付『警秘第1515号の1』はこれでお終い。
今日はこれまで。


京城日本新聞記者団(一)
京城日本新聞記者団(二)
京城日本新聞記者団(三)



今日も早速、昨日の続きを。

朝鮮「タイムス」が発行停止処分となったのは、五十八銀行に関する記事によってらしい事は分かった。
一方の冲田の退韓処分が何故起きたのか、っつうか、冲田が誰かすら分からない状態・・・。
それでは1908年(明治41年・隆熙2年)4月23日付『警秘第1515号の1』の続きより。


同胞の立場を如何
朝鮮「タイムス」 記者 橘 香橘
統監政治の懐柔策は根本的に誤り居れり。
之れ、韓国の民情を知悉せざるの罪なりとて、農業工業商業の状態より文学制度の現状を縷述し、韓国民は物質的に滅亡し、精神文明の資格なく、遊食の民にして到底済度すべからざるの国民なりと論じ、日本官憲が資力を盡して改善に努むるも、何等奏効するものにあらず。
亦、彼等は忘恩不義不節操の徒なれば、懐柔策の効力なきを以て根本的改善を加へよと反覆論議するや、反て聴衆の厭悪を招き、冷評に了りたり。



韓国民は物質的に滅亡し、精神文明の資格なく、遊食の民にして到底済度すべからざるの国民なり。(笑)
おまけに、彼等は忘恩不義不節操の徒。
だから、統監府の懐柔策は韓国の民情を知らない為の誤りであり、根本的改善を加えよ、と。

合ってるじゃん。(笑)
何で聴衆がひいちゃうかなぁ。(笑)


居留民と新聞
朝鮮日日新聞社 主筆 今井 蓼洲
統監府は、不当に吾人の言論を抑圧せり。
諸君も亦、余輩の弁論を妨害するの権利なしと、前弁士に対する聴衆の冷評を諧謔的に反駁し、聴衆の喝采を博し、更に伊藤統監は御人よしにて、決して悪人にあらずと揶揄一番し、韓国の発展は官憲の力のみにあらずして、汗を流し、手から■を取るの百姓に依て経営せられつつありと説き、統監府が自治団体の施設に甚しく干渉を試みるは、統監政策の誤れるものなりと、例を英国殖民地に執れり。
而して統監府は、経営者の同胞を退韓せしむるより、寧ろ同府に余りある官吏を退韓せしめよと論じ、次に官憲が韓民に厚く同胞に薄きは、余輩の飽迄不当を鳴らさんとする所にして若し此上不当の抑圧に遭遇せば大に覚悟ありと絶叫し、昔秦の始皇は3,000の儒者を害せり。
統監が、京城御用日報を除き他の新聞記者全部を害せんとするも、余輩は決して之を恐るるものにあらずと結論せり。



いや、だから、「醜賊退治」とか「在米同胞復讐せん」とか「碧眼奴」とか「電車焼打を煽動」と書いて発行停止喰らったお前のとこが、不当な言論抑圧とか言うな、と。(笑)
伊藤博文が、お人好しだというのは同感。(笑)
で、次が問題。
要は、日本が施設など作って干渉せずに、英国のような植民地政策をとれ、と。
この演説会のテーマが決まっているとすれば、今までの官民共同経営等の演説の見方も変わってくるのだが、さて・・・。


言論の自由
韓鮮新報 主筆 木塚 常三
独逸の国民が自由を尊び、英国亦自由を尊重し、亜米利加は我に自由を与へよ然らざれば死を与へよと叫び、欧米各国の自由を尊重する如斯。
而して是等「チユトン」人種、「アングロ」人種、「アメリカ」人種は厖大の種族なり、文明の先駆者なりとて、欧米の自由主義より説き起し、我国と雖も古来自由の精神は正大の気浩然の気と相通じ、天地の間に磅磚たり。
然と雖も、日本の自由と欧米の自由とは其間多少の差違あり。
即ち、日本は彼に比し優美なり云々の前提を置き、夫の大邱民長問題に対し理事官が野蛮の極たる退韓命令を発したるは、冲田某の行為を危険なりと認めたるに依るが、固より余は同地民長問題に付多少の権略行はれたるを聞く。
然れども、韓国従来の自治発達の歴史に徴すれば敢て珍とするに足らずと、氏野理事官の処置に非難し、転じて「ビスマルク」の殖民政策に模倣せる、統監の杓子定義的政策に反省を促すと論じ、再転して朝鮮「タイムス」の五十八銀行問題に関し、突然発行停止の災厄に罹れるを悼み、如斯んば到底新聞事業の成立は望むべからずと慨し、最後に、統監は嘗て大阪市長の当時敏腕の聞えある現時の鶴原総務長官すら尚其意見を徹底し得ざる由なれば、統監に対する忠告者は我々新聞記者の外になしと結論せり。



さて、この木塚常三の演説概要において、冲田某が何故退韓命令を受けたのかが少しだけ伺える。
大邱民長問題について多少の権略が行われたが、それは韓国の従来の自治発展の歴史に較べれば珍しいものではない、と。
いや、韓国の従来の歴史と同様だと、退韓命令出されて当たり前じゃないかと・・・。
そして、これは統監の杓子定義的政策であり、反省を促す、と。

つか、昨日からの弁護士石黒行平を初めとする演説要領を見ていると、まるで冲田某の退韓処分が不当処分であったかのように見えたのだが、どうやらその原因が無かったとは言い切れないようである。


矛盾せる政策
大韓日報 記者 山道 亞川
母国の韓国に対する政策は、政治のみ生命にあらず。
経済的発展と相関連し、円満なる発達を遂ぐべきなり。
換言せば、官吏と商人と労働者の三者相待って、其基礎たらしめざるべからず。
此見地よりして、統監府の官吏本位は其根底に於て誤れるものならざるやを疑ふと説き出し、優等国家が劣等の国家に臨む最後の目的は、天下を帰一するに在り。
即ち韓国を母国に同化せしむるに在り。
然るに統監政治は人道主義を基とし、矛盾せる政策を施しつつあり。
今、統監府の方針にして吾人の眼に映する点を列示せんとて、暴徒鎮定に対する方針、我同胞在留民に対しては、初め武断主義たる兵力に訴へ、中頃人道主義に立戻り警察行政主義に移り、最後に半鉄砲行政の憲兵主義を執り、近々一年に充たざる間に3たび変遷し、為に韓人に鼎の軽重を計られたるは一定の根本なき結果なりと論じ、後者に対しては曩に電車問題に関し同業朝鮮日々新聞が発行停止の厄に遭ひ、今又朝鮮「タイムス」、五十八銀行記事に関し同じく発行停止の命を受け、余輩は敢て発行停止を悲むものにあらず。
是等停止の為に統監政治が円満に発達せば寧ろ喜んで犧牲となるを辞せずと論じ、次に大韓毎日申報の如きは外国人に関する故ならんも、統監政治を妨害するに拘はらず何等制裁を加へ得ざるを慨ん。
最後に、世に統監府の御用記者なるものあらば、余輩は母国4,000万同胞の御用記者、即ち日本帝国の忠実なる御用記者なり。
然れば、不法の退韓命令何ぞ恐るる所あらん。
吾人の言論を抑圧せんと欲せば、吾人生命を絶ち、頭脳を粉砕して後抑圧せよと云ふものなりと結論せり。



優等国家が劣等の国家に臨む最後の目的は、天下を帰一するに在り。即ち韓国を母国に同化せしむるに在り。
併合論ですな・・・。
しかも、統監府が人道主義を基本にしている事を批難。(笑)

尚、一年の間に三度方針が変わっているというのは、まずは「武断主義たる兵力に訴へ」は、1906年(明治39年)2月8日の勅令第18号『韓国ニ駐箚スル憲兵行政警察及司法警察ニ関スル件(レファレンスコード:A03020662000)』及び、1906年(明治39年)10月29日の勅令第278号『憲兵条例中改正加除韓国ニ駐箚スル憲兵ノ行政警察及司法警察ニ関スル件廃止(レファレンスコード:A03020688000)』の流れの話か?

次の「警察行政主義」については、1907年(明治40年)7月24日の第三次日韓協約及びそれに基づく、1907年10月26日付けの『警察事務執行ニ関スル取極書』の話であろう。


取極書
統監府及韓国政府は、日本政府が明治40年7月24日締結日韓協約第5條に依り任命せられたる韓国警察官をして、当該日本官憲の指揮監督を受け、在韓国日本臣民に対する警察事務を執行せしむることを約す。



第三次日韓協約の第5条により任命された韓国警察官、つまり統監の推薦する日本人警察官に、在韓日本人に対する警察事務を執行させる、と。
これは、治外法権に関連して警察権を執行させる為の特例措置という事になるのだろう。
つまり、日本人といえど、韓国官吏であれば治外法権により在韓日本人に対する警察権の執行に制約を受けるという考え方と思われる。

「憲兵主義」に関しては、1907年(明治40年)10月7日の勅令第323号、『韓国ニ駐箚スル憲兵ニ関スル件(レファレンスコード:A03020733800)』に関連する事を指すのだろうか。
イマイチ、時系列が違うので各比定について自信は無い。(笑)

そして、例の電車問題について朝鮮日日新聞を擁護。
大韓日報はこの電車問題に関して、理事官から注意を、「コールブラン」からは中止要請を受け記事の掲載を取りやめたのだが、ここまでおっしゃるなら、両方無視して記事を掲載し続け、朝鮮日日新聞と一緒に発刊停止処分食らえば良かったのに。(笑)

吾人の言論を抑圧せんと欲せば、吾人生命を絶ち、頭脳を粉砕して後抑圧せよ」って、負け犬の遠吠えにしか見えないわけですが。(笑)


今日はこれまで。
明日もこの史料の続きを。


京城日本新聞記者団(一)
京城日本新聞記者団(二)



今日は前置きもなく1908年(明治41年・隆熙2年)3月8日付『警秘第119号』から見ていく事にする。


本年2月上旬頃、三井物産会社支店長小田柿捨次郎と京城新報社長峯岸繁太郎とは、不図京城民団役所に落合ひたる際、一室内に於て英語にて何等かの密談を遂げたることあり。
其後、両人間故らに交通往来を為さざるも、屡々電話に依り交渉を為し居たる模様なりしが、是れ、彼等が京城新報社に対し資金供給に関する協議を重ねたるものにして、其仲間に在り幹旋の労を取りたるは、笠目某なり。
而して結局小田柿は、東京三井物産会社本店の承諾を経て、金2万円迄を峯岸に貸与することを約し、其の第一次として金4,500円を峯岸に交附したるは、今より10日程以前なりしと云ふ。
小田柿が、斯く多額の金円を投じて京城新報を利用せんとするに至れる真意は、一昨年来三井物産会社京城支店の韓国事業は、多くは統監府の掣肘を蒙りて、意の如く発展を為す能はざりしは全く伊藤統監が同会社に快らざるの影響に出でたるものとし、京城新報の統監反対策を奇貨とし、之を利用せんとするものなりと聞く。
右及通報候也。



小田柿捨次郎は、専修大学の生田校舎2号館アーケードの相馬永胤の胸像を贈った人物であり、大阪経済法科大学客員教授高秉雲によれば1903年(光武7年)4月15日に人参の委託販売契約を更新した人物とされている。
上記LINKに書かれている事は、内容の検証をしなくても、日本と三井物産の行いを一連で眺めている時点で「アヤシイ」教授なので、あくまで参考まで。

で、小田柿が京城新報のバックアップをするのは、三井物産会社京城支店の韓国事業が、統監府の掣肘を受け思うようにいかない事から、京城新報の統監反対策を利用するためだ、と。
伊藤も大変よね・・・。

続いても峯岸繁太郎について。
1908年(明治41年・隆熙2年)3月11日付『警秘第958号の1』より。


一.峯岸繁太郎が京城新報を創刊するや、清水十八銀行支配人の手より幾分の資金を得たるものなるも爾後其窮乏を感じ、天一銀行支配人飯泉幹太に議り、同行頭取金其永に対し、凡そ銀行事業者は常に新聞者に優遇を与へざれば自然其不利益を招くものなり。
宜しく若干の融通を為すべしと説かしめ、茲に更に同行より若干の資金を得、以て同社の維持に充てつつありと。

一.又秋田毅が東洋火災保険会社の無限責任社員として、統監府令に拠り其動産不動産の登記を申請したるに際し、精密の調査に及ばずして其認可を与へたるは統監府の失態にして、秋田と統監府の間に或秘密存在せりと為し、峯岸は大に秋田を攻撃したることあり。
秋田は頗る之を銜み、朝鮮日々新聞社今井唯雄に説き、天一銀行より資金引出に関する飯泉支配人と峯岸との間に於ける非行を攻撃せんとし、目下其材料蒐集中なりと聞く。

右及通報候也。



えー、前回から思ってた事なんですが、峯岸繁太郎ってブラックジャーナリストみたいなもんか?(笑)

清水十八銀行については詳細不明であるが、十八銀行の歩みによれば、1890年(明治23年)には仁川へ支店を出しているようなので、その関係かもしれない。
一方で、清水銀行については旧清水銀行の時代であり、それこそ詳細が不明である。
又、いずれとも関係の無い銀行である場合も考えられる。

兎も角、峯岸は天一銀行にいちゃもんを付けて金を引き出した、と。

東洋火災保険会社についても、詳細は今のところ不明。
そして、その秋田毅に対して統監府とある秘密があるとして攻撃。
秋田は秋田で、朝鮮日々新聞社の今井唯雄に、峯岸が天一銀行にいちゃもんを付けて金を引き出した事を攻撃させようとしている、と。
今井唯雄は、今回の冒頭の今井蓼州の本名なのかな?

峯岸に関する上記二つの史料は、その前後の経緯が無い単発史料の為、取りあえず参考まで。

さて、次に紹介する史料が、マスコミが政治的活動をする政談演説会の話となる。
今回の演説会は、冲田という者の対韓処分及び、朝鮮「タイムス」の発刊停止処分に基づいて行われたらしいのだが、詳細が良く分からない。
ま、とりあえず1908年(明治41年・隆熙2年)4月23日付『警秘第1515号の1』を見ていこう。


既報の如く、昨22日夜本町座に於て朝鮮「タイムス」社の主崔に係り、政談演説会あり。
警部秋吉栄を臨監せしむ。
其状況概要左に。

午後7時40分開会。
聴衆約500。
之を種別すれば、過半数は商家の子弟にして、他は官吏或は職人等なり。
場内に殆んど立錐の余地なく、万人の張札を掲げたるを以て、空しく帰るもの多かりき。
而して、開会の辞に尋て、各弁士順次登壇す。
弁論の趣旨は孰れも大同小異にして、統監政治を論難せり。
弁士中、稍過激に渉り1回の注意を与へしは加瀬梧堂にして、最も聴衆に感動を与へ、喝采を得しは、戸叶董雄・山道亞川・今井蓼州・峯岸繁太郎等なり。
峯岸の演説は時に過激に渉らんとするも、頗る巧妙に弁し去りたり。
最後に壇したる高橋章之助は、酒気を帯びたる為にや、大声を発し、剩へ俳優の口調に似たるものありし為め冷評せられたり。

閉会に際し、発起人小幡虎太郎は聴衆に対し来会を謝し、且左の決議文を朗読し、拍手喝采の間に午後11時20分閉会せり。
各自の演説要領、別紙の如し。



集まった500名の商家の子弟、官吏、職人とは、恐らく在韓日本人だろうと思われる。
そして、加瀬梧堂は一回注意され、戸叶董雄・山道亞川・今井蓼州・峯岸繁太郎等が喝采を得た、と。
相変わらず、峯岸繁太郎。(笑)
そして今まで出てきた、山道亞川と今井蓼州。
新たに出てきた戸叶董雄。
この4人、結構今後も要注意な動きをするのであるが、それはまた後で。
で、高橋章之助は酒飲んで、大声で俳優のような調子で演説したため、冷評、と。


○ 別紙

開会の辞
朝鮮「タイムス」 記者 小幡 虎太郎
韓国の経営は官憲の専売的なるより説き、昨年伊藤統監が日本へ帰朝の際、韓国は既に暴徒鎮定し、韓民亦日本に信頼しつつあるの状況ありと言はれたるも、統監の言は全く反対にして暴徒未だ鎮定せず、韓民も信頼せざる有様にあらざるやと説き、韓国の経営は吾人在留民と相待て施政の改善を計られたし。
要するに、官民共同経営せられんことを望むとの希望を述べたり。



小幡虎太郎は玄洋社員竹下篤次郎の親族である。

昨年、つまり1907年の伊藤の帰朝とは、9月7日のエントリーでも説明したように第24回帝国議会の為の帰朝と思われる。
しかしながら、帝国議会に於いて「韓国は既に暴徒鎮定し、韓民亦日本に信頼しつつあるの状況あり」と述べたのは、伊藤ではなく西園寺首相である。
しかも、6月21日のエントリーで記した桑港問題も、この時未だ解決していないにも係わらず、アメリカとの関係も良好だとしている。
この頃、大同倶楽部を主体に進歩会等を含めて、不信任案を出されそうだった西園寺にとってはそう言わざるを得ない状況だったのだろう。
無論、伊藤が他の場に於いて上記の発言を行っている可能性はあるのだが。

そして、半島経営に民間人も積極的に参画させろ、と。
言っている事自体は、そうおかしな事でも無い。
無論、三井の小田柿と峯岸のような裏が無ければ、であるが。


忠死者の亡魂
弁護士 石黒 行平
韓国の経営発展は、吾等国民の力に因る。
既往、幾多の困難と戦ひ実権を扶植したるは、即ち居留民の力なりと説き、日清戦争に日露戦争に血を流し、骨を晒し、今日の如く作り上げたる吾々国民にして、彼是官憲の小言を聞くは畢竟国民の自覚心に乏しきが為にして、此自覚心あらば、如何に橫暴の官憲と雖も非立憲的の行為を敢てする余地なかるべしと論じ、次に大邱に於ける冲田の退韓、仁川に於ける「タイムス」の発行人停止問題に移り、官憲の処置は居留民を蔑視する不当の処分なりと攻撃し、同胞国民は自己の立場を自覚し、今後若し官憲にして非立憲の行為を恣にするあらば、在韓国民協会たる団体を設くるの必要起らんと結論せり。



石黒行平は、大阪弁護士会の会派「友新会」に所属する弁護士と思われる。
後に普通選挙期成関西労働連盟の演説会のあとデモ行進に参加するそうだが、この頃からこういう運動は好きだったようで。

日清・日露戦争を経て、今日を作り上げたのは国民であるという自覚を持て、と。
で、横暴の官憲の非立憲的行為というのが、何を指すものかは不明である。
文脈上は、在韓日本人に対する行為でり、やはり対韓処分と発行停止処分を指していると解するのが妥当だろう。


定見なき統監府
朝鮮「タイムス」 記者 加瀬 梧堂
言論の自由は憲法に依て保証せらる。
今回の発行停止の如き、憲法矛盾の甚しきものなりと説き、発行停止は信夫理事官の発意にあらず。
統監府或る者よりの請托に出でたるものなりと云ふ(此時、臨監警部注意を促す)や、議論一転、在韓国帝国官憲の権力強きに過ぐると陳へ、夫の発行停止は統監府内権現様と綽名する者の立案に出でたりと諷し、而して我社の五十八銀行に対する記事は、最も正確にして寸毫も誤りなし。
若し該記事にして無根なりせば、寧ろ誹毀罪として処分して可ならん。
然るに官憲は蛮的條例に訴へ、発行停止の命令を下したり。
余輩飽迄も不服を唱へざるべからず。
茲に、満堂の諸君に訴へて、同情を乞ふと論結せり。



さて、過激に渉り1回の注意を受けた、加瀬梧堂である。
発行停止が、当該地区の理事官によるものでは無く、統監府のある者の請託から出た、と。
これで注意を受けるわけだが、根拠を述べたのかどうかは不明。
ソースが無ければ、単なる誹謗なわけで。
つか、統監府内権現様って誰よ?(笑)

言論の自由は憲法に依て保証は分かるが、前回の朝鮮日日新聞のような単なる煽動まで放置する訳にもいくまい。
加瀬梧堂の言に依れば、朝鮮「タイムス」が発行停止処分を受けたのは、五十八銀行に対する記事のせいらしい。
今回の史料の全てにおいてそうなのだが、事件の具体的内容が分からなければ踏み込めないなぁ・・・。

この史料、長いので、続きは次回紹介しようと思う。


今日はこれまで。


京城日本新聞記者団(一)



良いネタを探せなかったので、結局休憩しないまま合邦請願の話の流れに戻りまする・・・。

これまで、その動き直前までの一進会内田良平大韓自強会・李完用政権等に関して・三派合同等、様々な動きを見てきた。
出来るだけ、史料を省略することなく取り上げようとしているとは言え、要点がとっ散らかった話の連続で申し訳ない。
そもそも調べながら書いており、まとめて話すだけの知識は無いっていうのは内緒。(笑)

さて、今回の連載、どこから話し始めて良いのもやらかなり迷う。
実際に上記の名前で史料に登場するのは、伊藤博文が暗殺されて以降なのだが、相当悪い事をしているのに何故かほとんど取り上げられる事の無い、当時の日本側マスコミの話という括りで話してみたい。
まずは、在韓ではない東京毎日新聞に関する報告から。
伊藤統監から林外務大臣への1907年(明治40年)6月12日付『往電第46号』より。


本月7、8、9日発行の東京毎日新聞に、京城ノ一怪物と題して、「ベツセル」に関して掲載せる記事は多く事実を誤り、殊に9日発行の分に掲げたる統監府悪策を盡すの一項の如きは、御承知の通り事実無根なり。
右の記事は、外国の大使館及領事館にも関係することなれば、貴方に於て取消の御手続あらんことを希望す。



これに対する林外務大臣からの返事が、1907年(明治40年)6月14日付『往電第106号』である。


貴電第46号に関し、毎日新聞に取消の手続を為せり。


これらの電報は、丁度3月15日のエントリーで取り上げた、ベセル処分に関する動きの中で出されたものである。
さすがに記事内容を確認しないと、これに関しては何とも言えないなぁ。
ま、記事内容の真偽は兎も角として、統監府の政策を批判していたのは間違い無い。

続いて、伊藤統監から鶴原総務長官への1907年(明治40年)9月6日付『来電第31号』。


一進会長李容九より内田良平宛の私信に拠れば、峯岸は一進会本部に対し虚言を吐き、強請ケ間敷挙動を為す由。
貴官、親しく李容九宋秉畯等に就き詳細調査の上、果して斯る事実あれば、峯岸に対し相当の処分を加へらるべし。



解説は後回しにして、続いてこれに対応する電文、1907年(明治40年)9月9日付『往電第51号』より。


貴電第31号に関し、李、宋両人に聞糺したる処、過日李に対し強請ケ間敷事を申込み累ねて其の返答を促がしたるとき、李は証拠を押へしが為、書面を以て要求すべき旨回答せしめたるに、其の後今日迄何等申来らざる由なり。
依て此の際は、此の儘打棄置く方然るべしと思考す。



峯岸というのは、この直後の1907年(明治40年)11月3日創刊の『京城新報』社長の峯岸繁太郎の事である。
この後の史料中、「峯岸」と「峰岸」の二つの表記が為されるが、同一人物なので注意。
また、統監府の御用新聞とされる『京城日報』とも違うので、これまた注意。

この時点では彼がどのような身分であったのかは不明ながら、既に一進会に虚言を吐き強請りがましい事をしたようだ、と。
そこで、李容九が証拠を押さえる為、文書で要求する旨を回答した処、音沙汰なしとなったとされている。
初出からこれでは、彼が怪しい人物である事を強調しているように見えるが、これ以前の史料には名前が見られないので仕方ない。

続いてが、5月15日のエントリーで述べた京城電気鉄道の運債引上に伴う騒動の話となる。
電報の発日順で関連史料を見ていこう。
仁川の理事官から鶴原総務長官への1908年(明治41年)1月9日付『往電第2号』より。


朝鮮日々記者に対し、昨報充分注意を加へたり。
明日以後、米国人に対する論鋒其の他不穏の文字は止むる筈。



朝鮮日日新聞は、アメリカ人「コールブラン」に対して攻撃的な記事を書いて厳重に注意された。
しかし、結局翌日には発行停止処分を受ける事となる。
恐らくは、注意を無視して記事を掲載したのであろう。
仁川理事官から、今度は曾禰副統監への1908年(明治41年)1月10日付『来電第2号』より。


保安規則第9條の2に依り、朝鮮日々新聞に対し本日発行停止を命じ、且つ本日発行の同新聞の発売頒布を禁止せり。
右報告す。



で、実際にどのような内容だったかと言うのが、5月15日のエントリーで触れた1908年(明治41年)1月11日付『往電第7号』である。


韓美電気会社が一月一日より電車賃銭値上げを実行したるに対し、京城にては大韓日報、仁川にては韓鮮日日新聞が、数日来過激なる記事論説を掲載し、醜賊退治又は在米同胞復讐せん、或は碧眼奴などの文字を用い、内外人間に悪感情を挑発し、甚だしきは電車焼打を煽動するの言論を逞ふしたり。
大韓日報は理事官の注意を容れ、謹慎の態度を取るに至りたるも、朝鮮日々は再三の注意を顧みずして、依然公安を妨害するの筆鋒を改めざるを以て、理事官は昨10日を以て之に発行停止を命じたり。
同日、京城に於て値上げ反対の演説会を開き、岡崎某なるもの日米の関係を論じ、不穏の言動を逞ふするに依り、臨監の警部某開散を命じたる事実は、既に丸山警視総監より電報したる通りなり。
米国総領事よりは公然の申出なきも、小松書記官に内談ありたるに依り、同書記官より公安妨害の言説及行動に対しては、理事官に於て充分なる取締りを為すべきは勿論なる旨、口頭にて答へ置きたり。
委細郵便。



「醜賊退治」
「在米同胞復讐せん」
「碧眼奴」
「電車焼打を煽動」
そりゃ、発行停止になりますわな、と前回と似たようなツッコミをしてみたり。(笑)

この後、5月15日のエントリーで全文引用した、1908年(明治41年)1月16日付『往電第12号』となる。


去11日、往電第七号電車値上げ事件は、同社代表者 「コールブラン」より大韓日報社へ、記事の中止を申み、且つ熊谷民長に対し協議したき旨通告し来り。
去13日を以て、両社の間に学生に対する割引き、車体の改良、軌道の延長等に付き交渉纏まる。
事態は総て平常に復したり。

本日、米国総領事は態本官を訪問し、諸種の問題に付き、迅速なる考量を与へたることを謝し、特に電車事件に関し、新聞紙の穏かならざる言論を取締りて、紛擾を未然に防止したるの好意を、感謝する旨を述べたり。



京城電気鉄道の運債引上に伴う騒動の中で、マスコミに関する話はこれでようやく終結したのである。


今日はここまで。