きょうで、東北・関東大震災発生してから3年を迎えました | 続きは、CMのあとすぐ!

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この記事は、2012年3月11日に更新の、 きょうで、東北・関東大震災が発生してから1年を迎えました と、2013年3月11日に更新の、きょうで、東北・関東大震災が発生してから2年を迎えました の続きであり、東北・関東大震災が発生してから3年目を迎えた内容となります。


本日2014年3月11日で、東北・関東大震災(日本政府、マスコミの表記では東日本大震災)が発生してから3年目を迎えました。


大震災発生から3年目を迎えたことで、テレビでは、NHKや在京キー局をはじめ、東北・関東大震災から3年を迎えることについて特集した番組が数日前から流れ、この記事を更新した3月11日には、ほぼまる1日かけて大震災の特集番組が放送されています。


それに合わせて、私も、ほかの記事の下書きと並行して大震災の記事も書いていました。


そこでこの記事では、2013年3月11日更新の記事で、「もし来年も私のブログが続いていたら、今度は東北・関東大震災が発生してから3年目を迎えた記事を書かせていただきますね。」とお約束していた通り、私なりに東北・関東大震災が発生してから3年目を迎えたというテーマで書かせていただくことにしました。


◆3年目を迎えた東北・関東大震災の死者・行方不明者の数は?


まず、昨年の2012年3月8日付での警視庁によるまとめによりますと、3年目を迎えた東北・関東大震災の死亡が確認された人は15879人。


行方不明者は2668人でしたから、死者・行方不明者を合わせると18549人ということになります。


そして、今年2013年3月8日付で警視庁がまとめたところによりますと、今日で3年目を迎えた東北・関東大震災の死亡が確認された人は15884人。


行方不明者は2633人でしたから、死者・行方不明者を合わせると18517人ということになります。


このうち、昨年の行方不明者が2668人だったのに対し、今年は2633人と、昨年から今年にかけて35人が見つかったことになります。


ただ、行方不明者が見つかったといっても、必ずしもそれが生存した状態で見つかったとは限りませんが……。


ほかにも、避難生活中に、体調の悪化や自ら命を絶つといった震災関連死も、2012年9月までに23003人だったのに対し、2013年9月末時点で認定されたのは2916人。


共同通信社による、2014年3月10日時点の集計では3048人と報じられていました。


あらためて、大震災さえなければ、震災関連死もなく、もっと生き長らえていた人々が多かったかもしれないのにと思わずにはいられません……。


◆ようやくスタートした福島第一原発廃炉への第一歩 4号機核燃料を共用プールに収納


次に、これが終息しないことには、本当の意味での福島県における復興は難しいかもしれない、「東京電力福島第一原子力発電所(以下、福島第一原発)」についてです。


昨年、ようやく福島第一原発の廃炉に向けての第一歩を踏み出したんだなと実感した出来事がありました。


それは、東京電力が昨年11月18日の定例会見で、福島第一原発4号機からの燃料取り出し開始について「廃炉への第一歩」との見解を示したことから端を発したものです。


11月20日には、同じく福島第一原発5・6号機についても廃炉にする方針を固めたことがわかりました。


そこで、30年~40年かかるといわれている廃炉に向け、11月29日に、2回目の燃料取り出し作業で、福島原発4号機の燃料プールから取り出した使用済み核燃料22体は、移送用キャスク(輸送容器)に収納し、保管用に共用プールに移送されることに。


これにより、使用済み核燃料の第一陣の取り出しと移送は無事に終了しました。


2013年11月18日から始まった燃料取り出し作業は、2014年1月29日現在で、使用済み燃料220本。


そして、未使用燃料22本を共用プールに移送済みであるとのこと。


取り出し作業の完了については、今年の2014年末を目指すと東電のホームページには掲載されていました。


また、これまで報じられませんでしたが、廃炉を検討している福島第一原発6号機の原子炉内に残っている核燃料764体を取り出して、建屋最上階の使用済み核燃料プールに移し終えたこともあったそうです。


まだまだ道のりははてしなく、険しく、遠いけれども、使用済み核燃料の第一陣の取り出しと移送が無事に終了し、取り出し作業が粛々と行なわれていることで、ようやく福島第一原発の廃炉に向けての第一歩が始まったんだなと感じた出来事でもありました。


◆次々と増え続けていく福島第一原発の貯水タンク 今年2月末の時点で1095基に増えていた…!


福島第一原発といえば、汚染水の対策として、地下にたまった汚染水の一部をくみ上げ、吸着装置で放射性セシウムなどの濃度を下げて、汚染水タンクと呼ばれる、円柱形で灰色の大きな貯水タンク(通称「セントン」)も気になるところです。


昨年の夏には、貯蔵タンクから約300トンあまりの汚染水が流出したらしいですからね。


その貯水タンクの数は、昨年は1000基でしたが、 今年の2月末の時点では1095基にまで増えていたいたそうです!


2月に、福島第一原発4号機の山側にある貯水タンクに水が入りすぎたことで、高濃度の汚染水100トンあまりが敷地内の地面に流出したことも…!


ここに山側から地下水が流れ込んで汚染水が増え続け、一部は海に流出していることが去年発覚しました。


汚染水については、核燃料を冷やすことで発生し、それを貯水タンクにため続けていることから、根本的な解決が急がれます。

しかも、汚染水は格納容器から漏れ出し、建屋の地下などにたまっているそうですからね。


東京電力(以下、東電)は、来年度中に、タンクにたまっている30万トン以上の汚染水を処理する目標を掲げていますが、ほとんどの放射性物質を取り除くことができる「ALPS」と呼ばれる新型の処理設備を増設し、性能を向上させる必要があり、達成は容易ではありません。


ほかにも、国と東電は、トレンチの汚染水を抜き取る対策や、山側からの地下水の流入を防ぐ地中の氷の壁である「凍土壁」など、複数の対策を進めていくことにしています。

凍土壁は1号機から4号機を取り囲むように作られる計画ですが、これほど大規模なものはほかに例がなく、どこまで効果が出るかは未知数です。

このように、事故から3年がたった現在でも、福島第一原発における廃炉や汚染水問題の解決に向けては、実に多くの課題が残されています。


これはもう、日本国内だけでなく、海外からの技術も集めることで、根本的な解決策が求められていると言えるのではないでしょうか。


◆福島第一原発で多発している人為的なミスの原因は、ベテラン原発作業員や技術者の減少にあった


現在、福島第一原発の収束・廃炉作業には、東電や大手建設会社をはじめ800の企業が従事し、毎日約3000人もの原発作業員が働いているそうです。


しかし、廃炉には30年~40年かかるとされているだけに、今後は慢性的に原発作業員が不足する問題も懸念されています。


そんな中、福島第一原発で、事故直後から収束作業に関わってきたベテラン作業員たちが、被ばく線量が限界に達していたこと。


これにより、働きたくても働けない状況が生じているそうです。


あるいは、日本各地で再稼働が予定されている原発の現場に行くことで、ベテラン作業員が福島第一原発の収束現場から次々と去っているといった現状もあるようです。


なぜなら、すざまじい強さの放射線の中での危険な作業を求められる福島第一原発の収束作業よりも、各地での原発の作業のほうが、安全で長く働けるということ。


それに賃金も、福島第一原発で働くよりは、再稼働の現場で働くほうがはるかにいいと言われているそうですからね。


加えて、周辺の除染作業や、2020年に開催の東京オリンピック・パラリンピックの建設現場にも、福島第一原発のベテラン作業員が流出しているのだそうです。


ニュースでもたひたび報じられている、福島第一原発の作業における原発作業員の人為的ミス。


先月だけでも、


2月18日 2号機圧力容器の温度計が破損

2月19日 タンクから超高濃度汚染水漏れ

2月25日 4号機プール冷却系ケーブル損傷


という3つのトラブルが発生しましたが、これらは原発作業員の人為的ミスによるものだったそうです。


つまり、現場を仕切ったり、若い作業員を教育したりするようなベテランが少なくなると、その分経験が乏しい作業員に大きな負担がかかってしまい、単純ものから大きなものまで人為的ミスや作業事故が発生してしまうことなんでしょうね。


このように、ベテラン作業員や技術者が減ったことで、福島第一原発での作業時間が長引き、被ばく線量が増え、疲労が蓄積するなどの悪循環に陥っているそうなのです。


なので、新たな人材を募集するのもそうてすが、原発作業員における、賃金や待遇を含めた納得のいく改善策も必要となってくると言えますね。


◆3基の原子炉でメルトダウンという世界に例のない事故だけに、全容の解明は極めて難しい課題である


福島第一原発で発生した事故は、3基の原子炉でメルトダウンが起きるという、世界でも例のない事故となりました。


福島第一原発の事故のうち、原子炉を冷やせなくなり、核燃料が溶け落ち、放射性物質の大量放出に至った事故の経過は、これまでの調査である程度明らかになってきたそうです。


しかし、何がメルトダウンを決定づけたのか?


大量の放射性物質はどこから、どのように放出されたのか? など、事故の核心部分でさえ、3年たった今も未解明の問題が多く残されています。


世界に例のない事故だけに、全容の解明は極めて難しい課題と言えますね。


◆ニュースサイトを通じて、この3年でどれくらい復興が進んだのか? 数字で見る「震災復興」


東北・関東大震災が発生して3年目を迎えると、この3年でどれくらい復興が進んだのかが興味のあるところでもあります。


それについて、気になる世の中の動きや社会問題を、わかりやすく解説するニュースサイトである「THE PAGE(ザ・ページ)」というホームページで、数字で見る「震災復興」にスポットを当てた情報が、下の参考リンクで公開されていました。


参考リンク

復興住宅「2%」漁港は「37%」……数字で見る「震災復興」 - THE PAGE(ザ・ページ)


これを見ると、住環境についてはまだまだですが、がれきの処理、鉄道のインフラ整備については進みつつあることがわかりますね。


◆南三陸「震災川柳」を出版する会によって、市販本『震災川柳』が発売されました!


それと、私のブログの冒頭のリンクにあった、東北・関東大震災が発生して1年目を迎えた日に書いた記事で、◆「震災の 辛さ悲しみ 句に込めて」  自費出版の句集『震災川柳』がテレビのニュース番組で紹介されることにという見出しで、震災川柳について書いたことがありました。


この川柳は、宮城県南三陸町志津川にある旭ヶ丘地区に住む住民が詠んだもので、暗い雰囲気を盛り上げようと、区長の柴田正廣さんの発案で、被災直後の2011年4月から始まった小さな川柳の会で、仮設住宅に住む人が増えた7月まで続いたものでありました。


滑稽さに乗せて、辛さや悲しみを吐き出すことができる川柳。


周りの人も、その気持ちを共有しやすいということから、川柳の会に集まった被災者の方に配られた『震災川柳』の句集を読んでいる住民の姿は、どの人も笑顔に満ちていたそうです。


東日本大震災後の気持ちを川柳に表した作品として、被災者によって作られた句はおよそ400以上。


その中から、200ほどの川柳をまとめて自費出版されたのが『震災川柳』であるということでした。


『震災川柳』は自費出版で出されたこともあり、川柳の会の参加者や、被災地の一部のお店でも販売されているそうなんですが、2011年のニュースの特集によると、近々全国で市販本としての発売も予定されているとのことでした。


その『震災川柳』が、下にご紹介のリンクのように、2013年8月に、南三陸「震災川柳」を出版する会により『震災川柳』 というタイトルで、ついに市販本として発売されました!


【送料無料】震災川柳 [ 南三陸「震災川柳」を出版する会 ]


震災川柳というと、


「大津波 みんな流して バカやろう」


という川柳が、私にとっても実に印象的な句でした。


その私の印象にも残った句を作られたのは、須藤春香さんという51歳の女性であったことが、今回初めてわかったのでした。


◆須藤春香さんによる、他にも身につまされる思いがした川柳も…


須藤春香さんは、大震災後の大津波で、自宅をまるごと流されただけでなく、南三陸市の「公立志津川病院」を襲い、当時入院していた母親も亡くしてしまったそうです……。


心にわだかまるような怒りをどこにぶつけたらいいのか?


それが、須藤さんにとっては川柳だったみたいですね。


他にも、私のブログで、大震災発生1年目を迎えた記事でもご紹介したことがあった、


「すっぴんで 外に出る日が 来るなんて」


も、実は須藤さんによる句であったとのこと。


さらには、


「積み上がる タンスがわりの ダンボール」


「けんめいに 生きてきたのに 何のばつ」


も須藤さんの句として掲載されていたのでした。


「けんめいに 生きてきたのに 何のばつ」の句は、私も読んで、「本当に、毎日懸命に生きてきたはずなのに、それが報われることもなく、一体なんの罰であの未曾有とも言える大震災が発生してしまったんだろう…?」と、実に身につまさせる思いがしてしまいました……。


それにしても、『震災川柳』の表紙に掲載されていた、


「がれき道 ぼくは生きてる がんばるぞ」


は、被災地に住んでいる少年が、まだがれき道の状態であってもがんばって生きるんだという思いが伝わってくるような、とてもいい川柳でしたね。



ということで、以上、私なりに東北・関東大震災から3年目を迎えたテーマによる記事をお送りいたしました。


もし来年も私のブログが続いていたら、今度は東北・関東大震災が発生してから4年目を迎えた記事を書かせていただきますね。