景数 | 1景 |
題名 | 日本橋雪晴 |
改印 | 安政3年5月 |
落款 | 廣重画 |
描かれた日(推定) | 安政3年1月24日 |
1景日本橋雪晴
まずこの1景の日本橋雪晴に見える場所について解説をしておこう。手前の魚を扱っている通りは魚河岸、川は日本橋川。川には多くの船があるが、その中で人が大勢乗っている屋根のない舟は押送り舟(おしょくり)と呼ばれ、8丁艪で高速に移動することができる。初鰹を伊豆から江戸の運ぶときもこの類の舟で運ばれた。川にかかる橋は手前が日本橋、奥が一石橋である。一石橋(いちこくはし)の名の由来は、その昔橋の両端に後藤という家があり、五斗と五斗で一石という江戸っ子ならではのしゃれから名づけられたと言われている。
この絵に見える場所の地震被害について調査してみよう。日本橋には被害はなかったが、1つ向こうの一石橋は、南側の石垣が崩れた。日本橋と一石橋の間に連なる蔵屋敷と呼ばれる場所は、「日本橋川筋南河岸通土蔵不残破損」つまり土蔵は残らず破損した。しかし別の史料によると倒壊までにはいたらなかったようだ。また絵ではかすみ雲がかかっているが、呉服橋御門前の牧野備後守上屋敷は表長屋が大破、道三橋は橋台の石垣が崩たが、道三橋前にある細川越中守上屋敷はわずかな被害に留まった。
修理の記録を調べると、藤岡屋日記では翌安政3年4月4日に道三橋の修理が完了し通行可能になったとある。その他、絵の中では全ての建物が直っており、地震の爪あとは全くない。市街地については記録がなく、回復についてはあくまで予想するしかないが、蔵の修理記録がいくつか残されている。そのうち斎藤月岑日記では月岑宅の土蔵は、地震後4ヶ月ほどたった2月から修理に入っているが、三井文庫によると三井越後屋では蔵の修理に地震後すぐにとりかかっていて、10月15日には早くも内蔵(うちくら)の荒打ちしている。蔵屋敷辺りの復興をこれらから予想すると、蔵屋敷は日本橋で営業する豪商の蔵が並んでいたので、この絵の改印である安政3年5月には、元の姿を回復することは十分に可能であったと思われる。
魚河岸の地震被害は不明だが、日本橋の南側は壊滅状態だったのに反し、北側は地盤がややよいため、土蔵などは壁がことことく崩れたが、比較的被害は少なかった。また地震後の火災も免れている。火事の多い江戸では、木造家屋の復興は非常に早く、改印の5月までに復興することは、十分可能であったと思われる。
以上から、改印の5月までには復興が十分可能である思われるが、この絵は題のとおり雪晴れであるので、5月よりもっと早い時期の絵であることになる。この絵を天候に照らして見ると、描かれたのはいつになるのか。次項で検証してみる。
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