貴志祐介『青の炎』 | 文学どうでしょう

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青の炎 (角川文庫)/角川書店

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貴志祐介『青の炎』(角川文庫)を読みました。

ミステリの中には、「倒叙ミステリ」というものがあります。普通のミステリだと、名探偵など探偵役をつとめる人物が殺人事件に使われたトリックを暴き、真犯人を指摘するという展開が一般的ですよね。

つまり、最後まで誰が犯人か、いかにして犯行が行われたかは分からないわけで、それをロジカルな推理で当てるのが、ミステリの醍醐味なんですね。読む前に真犯人を知らされたら、楽しみは半減します。

ところが、「倒叙ミステリ」というのは、なんと犯人側から描いたミステリなんです。犯人が完全犯罪を目論む姿が描かれ、警察や探偵は主人公の犯罪を邪魔する存在として、描かれていくこととなります。

最初から犯人の分かっているミステリのどこが面白いかと思われる方も多いかと思いますが、これが、なかなかどうして面白いんですよ。

なにしろずっと犯人側から描かれるわけですから、当然普通のミステリよりも、犯人の心理の動きが克明に描かれるわけです。それが「倒叙ミステリ」の醍醐味で、ぼくは普通のミステリよりも好きですね。

綿密な計画を立てて、とてつもない緊張感の中で犯行が行われ、その後に心理的葛藤があり、少しずつ警察や探偵が迫って来るというスリリングな展開。気持ちがざわざわさせられ続ける面白さがあります。

トリックよりも殺人者の心理に着目した「倒叙ミステリ」は極めて文学的であると言えて、たとえばみなさんご存知のフョードル・ドストエフスキー『罪と罰』も、一種の「倒叙ミステリ」として読めます。

金貸しの老婆を殺害し、思わぬ手違いがあったせいで心理的葛藤に苦しめられる主人公を描いた『罪と罰』に着想を得て書かれたのが、江戸川乱歩の「心理試験」という短編。これもおすすめなので、ぜひ。

色んな短編集に入っていますが、岩波文庫の『江戸川乱歩短篇集』が手に取りやすいですかね。あるいは、新潮文庫のでもよいでしょう。

江戸川乱歩短篇集 (岩波文庫)/岩波書店

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金貸しの老婆から金を奪った青年の物語で、警察が試みる心理試験を徹底的に研究して、どんな質問にも反応出来るように訓練をするんですね。青年の前に立ちはだかるのが、かの明智小五郎という面白さ。

そして、海外でおすすめなのが何と言ってもアラン・ドロン主演の『太陽がいっぱい』やマット・デイモン主演の『リプリー』などの映画の原作になったパトリシア・ハイスミスの傑作『リプリー』です。

リプリー (河出文庫)/河出書房新社

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複雑に絡み合った犯行動機があるのですが、ともかく、金持ちの青年を殺し、姿や筆跡などを真似て、その金持ちの青年になりすまし、すべてを手にしようとするリプリーの物語。とにかく面白い小説です。

海外小説なら『リプリー』、日本の短編小説なら「心理試験」が、ぼくの大好きな「倒叙ミステリ」ですが、日本の長編「倒叙ミステリ」でとにかく好きな作品があります。それが今回紹介する『青の炎』。

2003年には蜷川幸雄監督、二宮和也主演で映画化もされました。

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原作に忠実に作られた映画もかなり面白いですが、やはり映画では性描写など際どいシーンはなかなか描けないですし、主人公の心理描写にはどうしても欠ける部分があるので、ぼくは原作の方が好きです。

『青の炎』は17歳の少年が殺人を決意し、完全犯罪を試みる作品ですが、殺人に至るやむにやまれぬ事情がよく理解出来るだけに、胸が締め付けられるくらい感情移入させられてしまう、そんな小説です。

作品のあらすじ


17歳の櫛森秀一にはある悩みがありました。それは母友子と妹遥香と3人で暮らしていた櫛森家に、最近招かざる客がやって来たこと。

 男は、膨れた腹の上を掻きながら、百八十センチの鴨居をくぐるようにして、キッチンに入ってきた。
 キッチンの灯りに照らされて、男の顔が、はっきりと見えるようになった。
 ぼさぼさの八の字眉の下で、大きな目が、瞬きもせずに三人を睨め回している。黄疸が出ているために、よけいに異様な眼光を放っていた。頬と鼻は不自然に赤く、細かい紫色の血管が走っている。分厚い唇の間からは、汚い乱杭歯と瘦せた歯茎が覗いていた。
「お食事ですか……?」
 友子の声が顫える。男は、さらに一歩近づいた。
 秀一は激しい音を立てて椅子を引き、立ち上がった。腹に力を入れ、しっかりと両の拳を作る。
 遥香が息を呑んで、秀一のシャツの裾を握った。
 男は、小馬鹿にしたように、鼻からふんと息を吐いた。友子に向かって、嗄れた声で、「酒だ」と言う。(44ページ)


この男は曾根隆司と言って、交通事故で夫を亡くし、子供を抱えて困っていた友子が再婚した相手でした。しかし、ギャンブル中毒であり、秀一に手をあげるようになったので10年前に離婚したのです。

揉めに揉めた離婚調停はお金を渡すことで決着し、今では縁もゆかりもなくなった男のはずですが、突然、櫛森家に転がり込んで来てしまい、酒にギャンブルと、好き勝手な生活を始めてしまったのでした。

秀一は祖父の知り合いであり、友子と曾根の離婚調停にも携わっていた加納弁護士に相談しましたが、家主である友子が動かなければ、周りは何も行動することができないのが現状だと言われてしまいます。

そして友子は「とにかく、今はまだ。もう少しだけ、待って」(64ページ)と追い出すために積極的に動くのを避ける様子なのでした。

あの男がいることは、何より妹の遥香にとってよくないと思う秀一は、曾根の殺害計画を考え始めます。火事で殺すのがよさそうですが祖父母から譲り受けた家を燃やさなければならないのがネックです。

色々な殺害計画を考える秀一。殺すこと自体はなんとかなりそうですが問題となるのは死体の処理。どこかに穴を掘ることはできても、まだ車の運転が出来ないので、肝心の死体の運搬が出来ないのでした。

いくら少年法が適応されて死刑にはならないとは言え、殺人をおかすのはあまりにもリスクが大きすぎます。あの男がいなくなればいいのにと思い、その方法を考えたりするもののまだ本気ではありません。

しかし、ある出来事をきっかけに秀一の心は大きく変わったのです。

加納弁護士が家に訪ねてきてくれた時のこと。加納弁護士と友子との会話を盗み聞きしていた秀一は、遥香が実は曾根の連れ子だったことを知りました。遥香の戸籍は今でも、曾根の所に入っているのです。

曾根を無理に追い出そうとすれば、遥香を奪われてしまうかもしれません。本当の家族と暮らしていると思っている遥香にショックを与えるだけでなく、家族がばらばらになるかもしれない危機なのでした。

それだけでも秀一にとってショックでしたが、弁護士に相談したことを怒った曾根が、友子の肉体を思うがままにしたことに激怒します。

 秀一は、椅子の背にもたれて、目をつぶった。
 静かな激怒が、ひたひたと心を満たしていく。それは、今までの、真っ赤な炎のような怒りとは、異なっていた。秀一の脳裏で輝いていたのは、鮮やかなブルーの炎だった。最も深い思索を表す色。だが、その冷たい色相とは裏腹に、靑の炎は、赤い炎以上の高温で燃焼する。
 秀一は、すでに、自分が決断を下しているのに気づいた。残されている問題は、技術的なことにすぎない。(137ページ)


インターネットや本で殺害方法を調べた秀一が最終的に取ることにしたのは、電気を使った方法でした。曾根を眠らせて心臓に電気を通し、自然死に見せかけて殺すのが一番よいだろうと判断したのです。

そのために必要な道具を変装して買い集め、アリバイ工作のために、美術の授業で描いている絵よりも少しだけ描き進んでいる絵を用意しておきました。美術の写生の時間に計画を実行しようというのです。

いよいよ実行の日。美術の時間に学校を抜け出した秀一はロードレーサー(ロードレース用の自転車)で家に帰り、予定通り眠っている曾根を計画通り殺しました。用意していた絵を手に、学校に戻ります。

いつもへらず口を叩きあう相手の福原紀子は、怒った様子でした。

 秀一は、キャンバスを彼女に見せた。
「へえ……。一時間で、よくこれだけ描けたわね」
「描いてたら、久しぶりに乗ってきてね。いい出来だろ?」
「うん。なかなか。でも、どこにいたの?」
「え?」
「わたし、校庭まで見に行ったけど、どこにもいなかったじゃない?」
「……実は、浜の方まで出てた」
「馬っ鹿じゃないの?」
 紀子は、鼻の頭に皺を寄せて、秀一を見た。
「どうしたの? ずいぶん、汗かいてるじゃない」
「外は、けっこう暑かったからな」
「ほんと、馬っ鹿みたい」
紀子は、馬鹿の一つ覚えのように言った。
(224~225ページ)


予定通り、曾根の死は警察によって自然死だと判断されました。ほっと一息ついたのも束の間、予想外のことがいくつか起こったのです。

まず一つ目は、キャンバスの問題。アリバイ工作に使った元の絵を捨てようとすると、キャンバスの木組みの内側に、紀子がいたずら書きをしていたのです。学校にある絵には、いたずら書きがありません。

そしてもう一つ決定的なことは、犯行に使った器具を、由比ヶ浜の粗大ごみの所に隠しておいたのが、いつの間にかなくなっていたこと。

やがてかつての親友で、家庭内で問題を起こして以来、学校に来なくなっていた石岡拓也が秀一の前に現われて、お金をゆすってきます。

あの日たまたま、妙な時間にロードレーサーを走らせる秀一の姿を見かけて不審に思って後をつけたのだと。そして、秀一の家で人が心臓発作で死んだと知り、由比ヶ浜の証拠の品を奪って隠したのでした。

「金、貸してもらいたいだけだって。そうだな……とりあえず、三十万ばかしでいいや。あとは、また、必要になったら言うから」(280ページ)と拓也に言われ、絶体絶命の窮地に陥った、秀一。

はたして、秀一が下すことになった、新たな決断とは一体!?

とまあそんなお話です。冷静で理性的に計画を立てる大人な部分と、つい感情に走ってしまう子供な部分を兼ね備えている主人公秀一。

秀一が完全犯罪を最後までうまくやり遂げられるのか目が離せなくなる小説で、ページをめくる手が震えるくらいスリリングな物語です。

顔をあわせれば喧嘩ばかりしている秀一と紀子の、近いようで離れていて、離れているようで近いような、絶妙な距離感が印象的でした。一度読み始めたら止められなくなる「倒叙ミステリ」の傑作ですよ。

おすすめの一冊なので、興味を持った方はぜひ読んでみてください。

明日からは北村薫の「覆面作家」シリーズ3作を紹介します。まずは『覆面作家は二人いる』からスタート。