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千葉俊二編『江戸川乱歩短篇集』(岩波文庫)を読みました。
音楽のCDには、ベスト・アルバムというものがあります。新曲ではなく、売れたヒット曲など、過去の代表曲を集めたアルバムのことです。
ヒット曲がそのアルバム1枚にまとまっているのはお得で魅力的ですが、その一方で、普通のアルバムのように、全体の流れによって生まれるものや、メリハリのある構成のよさは失われてしまいます。
食べ物で考えてみれば分かりますが、カツ、コロッケ、唐揚げとメイン料理ばかりがお膳に並んでいても胃にもたれます。やっぱりご飯や味噌汁がほしいですし、ポテトサラダとか、茶碗蒸しとか、そういうのもほしくなります。
つまり、パンチ力には欠けても、全体的にバランスの整ったものの方が、よりよい場合もあるのです。
ただ、ベスト・アルバムには普通のアルバムにはないよさがあります。それは、そのアーティストのことを全く知らない場合、とてもいい入門になること。同時に、そのアーティストの大ファンがもう一度いいところだけ聴きたいという時に、最も聴きやすいものであること。
今回紹介する岩波文庫の『江戸川乱歩短篇集』は、言わば江戸川乱歩のベスト・アルバムです。
江戸川乱歩を全く知らない人にとっては、入門に最適な1冊ですし、江戸川乱歩ファンにとっても、江戸川乱歩のよさを再確認することのできる、魅力あふれる1冊です。
ちなみに、他に手に入りやすいものとしては、新潮文庫から出ている『江戸川乱歩傑作選』があります。こちらもいいですよ。
江戸川乱歩傑作選 (新潮文庫)/江戸川 乱歩
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どちらがよりおすすめということもないですが、岩波文庫には12編、新潮文庫には9編の短編が収録されていて、岩波文庫の方が収録作が多い分、値段もやや高めです。
内容的には、6編は同じ短編です。片方にしか収録されていないものもあるわけですが、「押絵と旅する男」が読みたい方は岩波文庫を、「芋虫」を読みたい方は新潮文庫を選ぶとよいかと思います。
この辺りから、内容の方に入っていきますね。江戸川乱歩というのは、子供の頃にぼくが夢中になって読んだほとんど唯一の作家ですが、その中でもずっと印象に残り続けている作品があります。「心理試験」です。
まず、「心理試験」だけを取り上げて考えてみたいと思います。では、あらすじの紹介を簡単に。
「心理試験」
「蕗屋清一郎が、何故これから記すような恐ろしい悪事を思立ったか、その動機については詳しいことは分らぬ」(81ページ)という書き出しで物語は始まります。そうです。犯人側から描いた小説なんです。貧しい学生の蕗屋は、金貸しをしている老婆から金を奪うことを決意します。「おや? なにかと似ているなあ」と思った方は鋭いです。その通りで、ドストエフスキーの『罪と罰』がある程度、下敷きになっていると思います。
老婆の家で下宿をしている友人の斎藤から聞いて、老婆が床の間の植木鉢にお金を隠していることを、蕗屋は知ります。
蕗屋は、綿密に計画を立てます。盗みがバレないようにするためには、老婆を殺害するしかないと考え、その通りに実行するんですね。そして、植木鉢のお金を全部は取らず、半分ほどを盗んで用意しておいた財布に入れます。
その財布を拾ったものとして、警察に届けるんですね。「まさか、自分の盗んだ品物を警察へ届ける奴があろうとは、ほんとうにお釈迦様でもご存知あるまいよ」(92ページ)とほくそ笑む蕗屋。
老婆殺害の犯人として捕まったのは、蕗屋の友人の斎藤でした。斎藤も金のありかを知っていたので、思わず植木鉢に残されていたお金を盗んでしまったんです。
笠森判事は、事件の真相が見えずに苦悩します。盗みは認めても、殺害を否定する斎藤は、どうも犯人らしくないわけです。かといって、他にあやしい人間はいません。ただ同じ日に、斎藤の友人である蕗屋が、拾った財布を警察署に届けていることが気になります。
笠森判事は、2人に対して、心理試験を行うことにします。「頭」「緑」などランダムな単語を伝えて、その言葉から連想される言葉を聞く試験です。さりげなく犯罪と関わりのある言葉を入れておくんですね。「植木鉢」「盗む」など。そうしてその反応を見ようというわけです。
しかし蕗屋は頭がいいので、その心理試験にクリアする方法を考え、訓練します。
綿密な計画を立てる能力があり、強靭な精神力と明晰な頭脳を持つ蕗屋清一郎。そして悩む笠森判事の書斎に、ニコニコ笑いながら現れたのは、かの名探偵、明智小五郎。手に汗を握る2人の対決の行方はいかに!?
とまあそんなお話です。犯罪者が、感情に駆られてだとか、突発的に犯した犯罪の話にぼくはそれほど引き込まれませんが、この蕗屋清一郎のように、冷静で、ロジカルで、とても頭のいい犯罪者の犯罪の話は非常に面白いです。
すべての物事が、蕗屋清一郎の手のひらの上で進行しているわけです。犯した罪はそれはもちろん重いものですけれど、行為に感情が伴っていない(憎しみで殺そうとするわけではない)だけに、将棋の名手の一手を見るような、そんな明晰さ、見事さがあります。
そしてその犯人に対峙するのが、明智小五郎というのがたまらなくいいんですよ。心理試験というものが使われる目新しさもありますが、なによりこの2人の対決に心踊る、そんな短編です。ぼくが江戸川乱歩の短編の中で最も好きな、おすすめの作品です。
作品のあらすじ
他の作品にも、少しずつ触れて終わります。
『江戸川乱歩短編集』には、「二銭銅貨」「D坂の殺人事件」「心理試験」「白昼夢」「屋根裏の散歩者」「人間椅子」「火星の運河」「お勢登場」「鏡地獄」「木馬は廻る」「押絵と旅する男」「目羅博士の不思議な犯罪」の全部で12編が収録されています。
「二銭銅貨」
「あの泥棒が羨しい」(5ページ)という言葉が漏れるほど、貧しい暮らしをしている〈私〉と松村。その泥棒というのは、ある大きな電気工場から、社員の給料を盗んだ泥棒のことです。新聞記者の格好をして堂々と工場の支配人の所へやって来て、トイレに行くふりをしてお金を盗んでいった紳士泥棒。犯人は捕まりましたが、お金をどこに隠したかは分かりません。
ある時、松村が下宿に風呂敷包を抱えて帰って来ます。それはなんと、紳士泥棒の隠しておいたお金だというんですね。松村は二銭銅貨を取り出します。
その二銭銅貨の中は空洞になっていて、中には「南無阿弥陀仏」の文字がたくさん並んでいる紙切れが入っていました。その紙に書かれた文字は、紳士泥棒が仲間にあてた、金の隠し場所を書いた暗号だったんですね。
松村は〈私〉に暗号の解読方法を説明し、自分がどうやってお金を手に入れたかを説明します。そして・・・。
「D坂の殺人事件」
学校を出たばかりで、下宿暮らしでふらふらしている〈私〉は、探偵小説好きの明智小五郎という男と知り合いになります。明智小五郎は、古本屋の細君と幼馴染らしいんですね。古本屋の細君にはある奇妙な噂があります。銭湯で会うと、体中が傷だらけらしいと。
ある時、喫茶店で話していた〈私〉と明智小五郎は、向かいの古本屋から、本を盗んでいる人が何人もいることに気がつきます。どうやら店番の人がいないらしいんです。
2人が古本屋に行ってみると、奥の間は真っ暗なんですが、誰かが倒れているのが分かります。明智小五郎が電気のスイッチをつけると、そこには首を絞められて死んでいる、古本屋の細君の姿がありました。
犯人は一体誰なのか? 〈私〉は興味から推理を始めます。すると1人のあやしげな男の姿が浮かびあがってきて・・・。
「白昼夢」
「晩春の生暖い風が、オドロオドロと、火照った頬に感ぜられる、蒸し暑い日の午後」(124ページ)のこと。〈私〉がぼんやり歩いていると、人だかりができていることに気がつきます。見物人の中心にいる男は、自分が女房をいかに愛していたかを叫んでいます。そして、浮気者だったために、殺して死骸を5つに切り離したというんですね。水で冷やして、「屍蠟」というものにしたと。
本来、怖ろしい話なんですが、見物人それを聞いて、声をあげて笑っています。その「屍蠟」になった女が店先に飾ってあると聞いた〈私〉は・・・。
「屋根裏の散歩者」
なにをやっても面白く感じない郷田三良。「こんな面白くない世の中に生き長らえているよりは、いっそ死んでしまった方がましだ。」(133ページ)と考えています。ある時三良は、素人探偵の明智小五郎と出会って話を聞く内に、「犯罪」というものに強く心惹かれるようになります。
犯罪の話を読み漁り、犯罪者と自分を同一化させることによって喜びを感じる三良。スリの気持ちになって街を歩いたり、女装して男をからかったり。やがて、それにも退屈を感じるようになります。
次に三良が楽しみを覚えたのは、押入れの中で眠ることなんですが、落書きをしていて、ふと天井板が動くことに気がつきます。そこから屋根裏に入れるんですね。
それからというもの、屋根裏を這い回って、隠された他人の生活を覗き見することが、三良のなによりの楽しみになります。倒錯的な、そして犯罪的な喜びですよね。盗聴や盗撮と似たところがあります。
そんなある時、どこか気に入らない遠藤という男が、節穴の真下で口を開けて寝ているのを見つけ、ふと思いついてしまいます。
この節穴から遠藤の口に毒薬を垂らして、殺害することができるのでは? そしてそれは、誰にも見つからないのでは?
自分の犯罪的な思いつきに、喜び打ち震える三良は・・・。
「人間椅子」
夫を送り出して、小説家の佳子は自分宛の手紙に目を通します。すると、その中に差出人不明の原稿があるんですね。「奥様」という呼びかけから始まるその原稿に書かれていたのは、どこか不気味な〈私〉の告白でした。「世にも醜い容貌の持主」(189ページ)である〈私〉は、椅子を作る職人をしていました。非常に優秀な職人なんですが、ある時、自分の作った椅子の中に入り込むことを思いついてしまいます。
椅子を解体し、自分の入れるスペースを作ります。やがて、〈私〉が入り込んだ椅子は、あるホテルのラウンジに据え付けられます。人がいない時に、こっそり椅子の中から抜け出して、盗みをする〈私〉。
ホテルのお客は、中に人間が入っていることなど知らずに、〈私〉の上に座ります。〈私〉は次第に倒錯的な喜びを感じるようになります。
現実では女性に見向きもされない〈私〉が、女性と密接に触れ合えるからです。はたして〈私〉は一体なぜ、佳子に手紙を送ってきたのか?
「火星の運河」
「火星の運河」は、こんな書き出しで始まります。
またあすこへ来たなという、寒いような魅力が私を戦かせた。にぶ色の暗が私の全世界を覆いつくしていた。恐らくは音も匂も、触覚さえもが私の身体から蒸発してしまって、煉羊羹の濃かに澱んだ色彩ばかりが、私のまわりを包んでいた。(214ページ)
感覚的な怖ろしさを持つ暗闇が〈私〉を包み込みます。森へ行った〈私〉は自分の裸の身体が、男ではなくて、自分の恋人によく似た女の身体であることに気がつきます。そして・・・。
幻想的な世界を、シュールなイメージで描き出した短編です。
「お勢登場」
肺病やみの恪太郎には、おせいという奥さんがいるんですが、この奥さんはしょっちゅう出かけて行くんですね。どうやら愛人と会っているらしいんです。黙認というわけでもないですが、恪太郎は別れる気はないので、それを知っているんですが、黙っています。
恪太郎の子供が友達を連れてきて、やがてみんなでかくれんぼをすることになります。恪太郎は押入れの中の長持(着物などを入れておく箱)の中に隠れます。
恪太郎があまりにも見つからないので、かくれんぼは終わってしまい、子供たちは外へ出て行った様子。恪太郎も長持から出ようとしますが、ふたが開かないんです。中に入る時に、蝶番の金具が偶然はまってしまったんですね。
大声をあげて、助けを求め、箱の中で暴れる恪太郎ですが・・・。
「鏡地獄」
5、6人で集まって、怖い話、奇妙な話をみんなで語りあっていた時、最後にKがこんな話をします。Kの不幸な友達である「彼」の話。「物の姿の映る物、例えばガラスとか、レンズとか鏡とか」(250ページ)に異常な執着を見せる彼。両親が亡くなり、莫大な遺産を相続した彼は、財産をどんどん、自分の趣味の研究につぎ込んでいきます。
窓際に望遠鏡を置き、人の家を覗き見たり、顕微鏡で微生物を観察したり、上下左右すべて鏡でできた鏡の部屋の中に、小間使いの美しい娘と入り込んで遊んだり。
ある時、呼ばれた〈私〉が駆けつけると、「玉乗りの玉をもう一層大きくしたようなもの」(267ページ)が実験室の中を転がっていました。中から聞こえてくるのは、人間のものとも動物のものともつかぬ笑い声。
はたして、この奇妙な玉の正体とは!?
「木馬は廻る」
50歳をいくつか越えたラッパ吹きの格二郎。メリーゴーランドのある、木馬館で働いています。この木馬館では、お客さんが木馬に乗ってから、切符を売りにいくという仕組みです。その車掌さんのような仕事をしているのが、18歳のお冬。格二郎には妻子がいますし、年齢も離れていることもあって、2人は恋愛関係ではないんですが、わりと親しく付き合っています。
お冬は新しいショールが欲しいと思っているんですが、お金が足りないので買えません。格二郎は買ってやりたいと思うんですが、こちらも当然お金がありません。
ある時格二郎は、木馬に乗っていた若者が、お冬のポケットに封筒のようなものを入れるのを目撃します。初めは恋文かと思いますが・・・。
「押絵と旅する男」
汽車に乗っている〈私〉は、額のようなものを持った、西洋の魔術師のような風采の男がいることに気がつきます。この車両には他には誰もおらず、ボーイも車掌もやって来ません。「そのほの暗い車室の中へ、私たち二人だけを取り残して、全世界が、あらゆる生き物が、跡形もなく消え失せてしまった感じ」(298ページ)だったんです。
男は〈私〉にその額の中の押絵細工を見せてくれます。老人と美少女が寄り添っているものです。遠眼鏡でこの押絵細工を見た時、〈私〉はこんな風に感じます。
娘は動いていた訳ではないが、その全身の感じが、肉眼で見た時とは、ガラリと変って、生気に満ち、青白い顔がやや桃色に上気し、胸は脈打ち(実際私は心臓の鼓動をさえ聞いた)肉体からは縮緬の衣裳を通して、むしむしと、若い女の生気が蒸発しているように思われた。(305ページ)
男はこの押絵細工の不思議な物語を〈私〉に語り始め・・・。
「目羅博士の不思議な犯罪」
探偵小説の筋を考えるために、浅草や上野、両国辺りをぶらつくことのある〈私〉。ある時、上野の動物園で、「髪を長く延ばした、青白い顔の青年」(326ページ)に出会います。この青年が、〈私〉に不思議な話を語ります。あるビルに、住む人が首吊り自殺をしてしまう部屋があったんです。青年がその謎を探るためにその部屋に入ると、また住人が首吊り自殺をしています。
そして、空き家のはずの向かい側のビルに見える人影・・・。青年はその人影が、目羅博士という医学博士であることを突き止めます。
一体、目羅博士は住人になにをしたのか!?
とまあそんな12編が収録された短編集です。江戸川乱歩の魅力というのは、なんといっても、単なる探偵小説におさまらない、倒錯的な喜びが描かれることにあります。まあ、エロ・グロ的なものですね。
そういった意味では、「屋根裏の散歩者」「人間椅子」「鏡地獄」辺りが、この短編集の中でも代表的な作品と言えるだろうと思います。この3作品には、「普段隠れているものを覗き見る」ことに喜びを感じるという共通点があります。
「押絵と旅する男」も非常に面白い作品です。エロ・グロさはさほどありませんが、発想がとにかく奇抜で、かつシュールすぎない面白さがあります。「現実にこういうことは起こりえるんじゃないか」と思わせてくれる、不思議なリアリティがあります。
双眼鏡とか、下手に逆さに覗けなくなりますね。男の語る話がとにかく興味深いんですが、男と聞き手の2人しかいない、車両の空間もどことなく不思議で印象に残ります。
最後に触れておきたいのが、「火星の運河」です。「火星の運河」というのは、あらすじらしいあらすじがないだけに、うまく紹介しづらい作品ではあるんですが、これはこれでぼくは結構好きですね。なんとも言えないシュールな魅力があります。
名探偵、明智小五郎が活躍する短編から、エロ・グロ、幻想的な作品までが収録された、江戸川乱歩のベスト・アルバム的な短編集です。
江戸川乱歩を初めて読む方も、そして、もう一度江戸川乱歩を読み返してみたい方にも、自信を持っておすすめできる1冊です。ぜひ読んでみてください。
明日は、泉鏡花『婦系図』を紹介する予定です。