ウィリアム・フォークナー『死の床に横たわりて』 | 文学どうでしょう

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死の床に横たわりて (講談社文芸文庫)/講談社

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ウィリアム・フォークナー(佐伯彰一訳)『死の床に横たわりて』(講談社文芸文庫)を読みました。

ミシシッピ州にある架空の土地「ヨクナパトーファ郡」を舞台にした作品を多く残しているフォークナー。今回紹介する『死の床に横たわりて』はその「ヨクナパトーファ・サーガ」の3作目にあたる小説。

タイトルにある通り、一人の人間の死にまつわる出来事を描いた物語ですが、フォークナーがごく普通の書き方をするわけがありません。

小説の書き方には、ざっくり言うと二通りあります。「僕」や「私」など一人の視点で書く一人称と、客観的な視点から書く三人称です。

一人称は日記に近い形であり、個人の感情が文章に投影されるスタイルですね。三人称は映像をとらえるカメラがあるとイメージしてもらうとよいですが、起こったことをそのまま描くスタイルになります。

誰かの死を描く時、一人称ではその文章の書き手が感じたことは描けますが、その書き手以外の人々がどんな風に感じたかは描けません。

そして一方の三人称では、その都度誰かの心理に寄り添って描いていかなければ、それぞれの登場人物がどう感じたかは描けませんよね。

一人称では多くの人々の心理は描けず、かと言って、客観的な視点を持つ三人称では深い感情を描けないという、まさに帯に短し襷に長しなんです。では、フォークナーは、どのように書いたのでしょうか。

これがなかなかにぶっ飛んだ発想をしていて、フォークナーは一人称を積み上げて、一人の人間の死を描くという方法を取ったのでした。

『死の床に横たわりて』は、アディ・バンドレンという、四男一女の母が死んでしまう物語。死んだ後は生まれ故郷のヨクナパトーファ郡ジェファソンに埋葬して欲しいと、アディはずっと願っていました。

そこで、アディの夫のアンスと子供たち、キャッシュ、ダール、ジュエル、デューイ・デル、ヴァーダマンは母の遺体の入った棺桶を運び、道中様々な困難に直面しながら、ジェファソンを目指すのです。

このバンドレン一家のそれぞれと、バンドレン一家が出会った人々の短い一人称が、めまぐるしく変わっていくことによって紡がれている物語で、登場人物が抱える問題や、複雑な心理が描かれていきます。

一人の女性の死と埋葬のための移動という、全体的な物語はとてもシンプルですが、なにしろそれだけ語り手が入れ替わりますし、ちょっと普通じゃない語り手がいるので、なかなかに読みづらい作品です。

しかも、語り手が変わるだけならまだよいですが、フォークナーは「意識の流れ」という登場人物が自然と考えたことを地の文で描く手法を使っているんですね。たとえばデューイ・デルはこう考えます。

 母ちゃんが死んだって聞いた。もっと時間さえありゃ、いいのに。母ちゃんもゆっくり死ねるし、もっと時間がほしい、ああ時間がほしい。早すぎて、早すぎて、早すぎて、森の犯された大地で。あたいが、いやだ、しないっていうんじゃないけれど、早すぎて、早すぎて、早すぎて。
 ほら、看板が言い出した。ニューホープへ三マイル。ニューホープへ三マイルって。時間の子宮っていうのは、これよ。大きくひろげた骨の苦しみと絶望。きつく締めたガードルの中には、犯された事件の内臓がつまってる。看板に近よるにつれて、キャッシュの頭がゆっくり廻る。青白く空ろで、落ち着いて、問いかけるようなキャッシュの顔が、がらんとした赤土の曲がり角を見ている。後輪のわきでは、馬にのったジュエルが、まっすぐ前を見てる。
(125~126ページ)


表示されていないかも知れませんが「時間の子宮っていうのは、これよ。大きくひろげた骨の苦しみと絶望。きつく締めたガードルの中には、犯された事件の内臓がつまってる。」がイタリックの字体です。

フォークナー独特の文体を作り出している大きな特徴である「意識の流れ」の表現は、翻訳ではこんな風にイタリック(斜めの字体)や、あるいは訳者によっては、ゴチック(太い字体)で表されています。

デューイ・デルは、家族にもまだ言っていませんが、実は妊娠しているんですね。しかし結婚出来そうになく、おなかの子をなんとかしなければと考え続けていて、色々な不安が自然と頭に浮かぶのでした。

デューイ・デルの妊娠が一番分かりやすい形ですが、彼女だけはでなく、家族の面々がそれぞれに抱えているものがあります。時に現在と過去が交錯しながら、バンドレン一家について、語られていく物語。

作品のあらすじ


バンドレン一家の近くに住むコーラ・タルは「骨のあるのがすぐ皮膚の下に白い筋になって判る」(11ページ)ほどやつれたアディの顔を眺めていました。外から鋸を使って木を切る音が聞こえてきます。

腕のいい大工職人で、アディの長男のキャッシュが棺桶を作っているのでした。そこへ、次男のダールと三男のジュエルが帰って来ます。

アディの夫のアンスは、コーラの夫のヴァーノン・タルと、アディがもし死んだら、アディの生まれ故郷のヨクナパトーファ郡ジェファソンにある先祖代々の墓に埋葬すると約束したことを話していました。

年齢的にはジュエルの下にあたるデューイ・デルは、綿つみの仕事が一緒だったレーフという男の子供を妊娠して困っており、末っ子のヴァーダマンは、知的な障害があって、物事をうまく把握できません。

町医者のピーボディがやって来た時にはアディはもう手遅れでした。

 わしが出てくると、二人はポーチにいて、ヴァーダマンは階段に腰をおろし、アンスは柱のそばに立ち、寄りかかりもせんで、腕をだらんと垂らし、髪は、水につかった雄鶏そっくりにぴったりともつれ合っとる。奴さんは頭だけ向け、わしのほうをちらりと見た。
「どうしてもっと前に呼びにこんかったんじゃ?」わしはいう。
「あれや、これやとあってな」奴はいう。「わしと息子たちで玉蜀黍の始末をつけるつもりじゃったし、デューイ・デルはアディの看病してるし、それに近所の連中が来て、手伝おうといってくれたりするんで、結局わしゃあ……」
「金なんかなんじゃい」わしはいう。「払えねえうちから、わしが責め立てたりしたたためしがあるかい?」
「金をケチケチしたんじゃねえんで」奴はいう。「わしゃただ、ずっと考えてただが……アディはもうおしまいでしょうが?」
(50ページ)


アディは息を引き取ると棺桶に入れられますが、動き回る父の影を感じながら、ヴァーダマンは、「あん時は、魚じゃなくて、母ちゃんだった、今じゃ魚で、母ちゃんじゃない」(74ページ)と思います。

ジェファソンへ向けてバンドレン一家が出発した日は生憎の雨で、川が増水して橋が渡れなくなっていたり、時間が経てば経つほど死体が臭ってはげたかが寄って来たりと、様々な困難に直面していきます。

旅の道中、ダールはジュエルが15歳の頃を思い出しました。ジュエルは、いつでも眠そうにするようになったのです。ジュエルの仕事はデューイ・デルとヴァーダマンが、代わりにするようになりました。

キャッシュとダールは、ジュエルが夜中にカンカラを持って出かけるのを知って、女のところに行っているなと気が付き、話し合います。

 その後は、えらく滑稽な気がしてきた。奴がぼやっとして、やたらに眠たがって、いそいそ出かけて、やせっこけて、自分じゃうまく立ち廻ってる気でいやがる。相手の女はだれだろうかと考えてみた。それらしいのを知ってる限り、思いうかべてみたが、どうもはっきりと判らんかった。
「若い子じゃねえ」キャッシュがいった。「どこかの人妻だよ。若い子じゃ、こんなに図々しく、またこんなにねばる力があるわけねえ。そこが困るとこじゃが」
「どうして?」俺はいった。「娘っ子より人妻のほうが無難じゃねえか。もっと頭を使えや」(137ページ)


しかし、5ヶ月が過ぎて夏から冬になった時、ジュエルは女の元に通っていたのではないことが、みんなに分かりました。クイックじいさんが持っていた、立派なテキサス馬に乗って、帰って来たからです。

40エーカーの土地を開墾してジュエルは馬を手に入れたのでした。アンスは馬など余計に金がかかると怒りますが、ジュエルは「あんたのもんなんか、一口だって食わせん」(143ページ)と言います。

ダールは何故ジュエルがそんな態度を取ったのか分かりませんでしたが、その夜、ジュエルの枕元で暗闇の中母アディが泣き声も出さずに激しく泣いているのを見て、その理由がはっきりと分ったのでした。

元々は小学校の教師をしていたアディ。やがて、わざわざ4マイルも遠回りをして、アンスが馬車で学校を通りがかっていることに気付き、アンスの求婚を受けて結婚しキャッシュとダールが産まれます。

しかしアディにとってアンスは、無意味な存在になっていきました。

 その時のアンスには、自分がもう死んでいることが判っていなかった。時折り、私は暗闇の中で、彼のそばに寝ていて、今は私のいわば血肉のものとなった土地の音を聞きながら、考えたものだった。アンス、どうしてアンスなの、あんたがなぜアンスなの。アンスという名前のことを考えているうち、しばらくすると、名前が一つの形、一つの容器に見えてきて、じっと見守っているうちに、アンスが液化して、容器の中に流れこみ、まるで冷たい糖蜜が暗闇から容器の中に流れこむみたいに、瓶はいっぱいになって、じっと立っている。戸の枠に戸がはまっていないみたいに、意味はありながら、まるで生命のない、ただの形。すると、瓶の名前も忘れていたことに気づくのだ。(184~185ページ)


アンスを遠ざけている内にジュエルを身ごもったアディは、家を清めるためにデューイ・デルを産み、やがてヴァーダマンも産んで、死んだ後はジェファソンに埋葬してほしいと思うようになったのでした。

大工仕事中に転落して足を痛めているキャッシュ、家族を観察して様々なことを考えるようになったダール、兄弟で一人だけのっぽのジュエル、お腹の子をどうしようかと悩み続けているデューイ・デル。

そして現実がよく分からず、「また水のところへゆけば、母ちゃんが見えるんだ。母ちゃんは箱の中にはおらん。あんな臭いなんかせん。母ちゃんは魚だ」(211ページ)と思い続けているヴァーダマン。

はたして、それぞれの思惑や悩みを抱えるバンドレン一家は、無事にアディをヨクナパトーファ郡ジェファソンで埋葬出来るのか!?

とまあそんなお話です。恋人の死など物語では時に美しく描かれる死ですが、フォークナーはとことんリアル、そしてとことんグロテスクに描いています。思わず顔をおおいたくなるような、異臭漂う作品。

視点はころころ変わりますし、「意識の流れ」が書かれるだけに文体はかなり特殊、いきなり過去の話が挿入されて、時系列もばらばら。

とにかく読みづらいので、簡単におすすめは出来ませんが、しかし一人の人間の死を、これほど多角的に描いた作品が他にあるでしょうか? しかも、少しずつ意外な出来事が明らかになっていく面白さ。

一つの家族、そして一人の人間の死にスポットをあてているだけに、衝撃的な犯罪事件を描いた他の作品と比べてより胸に響くものがあったような気がします。興味を持った方は、ぜひ読んでみてください。

明日もウィリアム・フォークナーで、『アブサロム、アブサロム!』を紹介する予定で、今回のフォークナー特集は、次回で終わりです。