佐藤春夫『田園の憂鬱』 | 文学どうでしょう

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佐藤春夫『田園の憂鬱』(岩波文庫)を読みました。以前は新潮文庫からも出ていましたが、残念ながら現在はどちらも絶版のようです。

詩と小説は同じく文章による芸術ですから、詩人であり、小説家でもあるという人は、それほど珍しくはありません。

しかしながら、そういう人が必ずしも詩的な雰囲気を持ちながら小説を書くとは限らないもので、たとえば島崎藤村などは、あまり詩的感性を感じさせない作風の作家と言えるだろうと思います。

小説というのは、いわゆる起承転結ですが、何かが起こって、それが展開していくことによって、はじめて成立するものです。こうなってこうなってこうなったと。つまりストーリーが大事なんですね。

一方、詩というのはストーリーは必要ではなく、花鳥風月など、その時々に自分の心を強く揺り動かす対象を、感性でとらえようとするものです。カメラのシャッターを切るのに近い感覚でしょうか。

ストーリーを必要とする小説は言わばマクロ的な(大きい)、ストーリーよりも感性が大切な詩は言わばミクロ的な(小さい)視点が必要な、近いようで相反する所もある芸術と言えるだろうと思います。

つまり、小説に詩的感性を持ち込むことは、2つの異なるレンズで世界を見るようなもので、バランスを保つのが難しいものなんです。

ストーリーを求めれば詩的感性は遠ざかり、詩的感性が強く描かれれば描かれるほど、ストーリーは意味をなさなくなっていきます。

そんな中、詩人かつ小説家であり、なおかつ詩的感性を小説に取り込むことに成功した2人の作家がいるんですね。それが室生犀星と佐藤春夫で、どちらも主に大正時代に活躍した文学者です。

ぼくは室生犀星の書く、どこか甘ったるいような情緒あふれる文章がとにかく好きなんです。『或る少女の死まで 他二篇』や『杏っ子』などを以前紹介したので、ぜひそちらの記事もご参照ください。

室生犀星が、メルヘン的な柔らかい詩的感性を小説に持ち込んだのとは対照的に、佐藤春夫は、狂気を孕んだ幻想的な詩的感性を小説に持ち込みました。その代表作が今回紹介する『田園の憂鬱』です。

創作活動に行き詰まり、東京を離れて犬2匹と猫1匹と共に、田舎暮らしを始めた主人公とその妻の話。薔薇を育てながら自然あふれる場所で暮らし、そこで感じたり考えたりしたことが綴られた作品です。

たとえばある時、主人公は、抜け殻から出たばかりの蝉(セミ)を目撃しました。人間からすると無意味のようにも思える、セミのはかない一生を思いながら、じっとその姿を観察していきます。

蝉の羽は見ているうちに、目に見えて、そのちぢくれが引き延ばされた。同時にそれの半透明な乳白色は、刻刻に少しずつしかし確実に無色で透明なものに変化して来るのであった。そうしてあの芽生えのように爽快ではあるけれどもひ弱げな緑も、それに応じてだんだんと黒ずんで、あたかも若草の緑が常盤木のそれになるような、ある現実的な強さが、あきらかにそこにも現れつつあるのであった。彼はこれらのものを二十分あまりもながめつくしている間に――それはむしろある病的な綿密さをもってであった――おのずと息が迫るような厳粛を感じて来た。
 突然、彼は自分の心にむかって言った。
「見よ、生まれる者の悩みを。この小さなものが生まれるためにでも、ここにこれだけの忍耐がある!」
 それから重ねて言った。
「この小さな虫はおれだ! 蝉よ、どうぞ早く飛び立て!」
(29ページ)


生まれたばかりのセミに重ねられる、生命の喜びと生きることの苦悩。そしてやがては、息詰まるような人生を送る主人公自身の姿もまた、必死で生きようとするセミに重ねられていくのです。

ここで描かれているのは、ストーリーではなく感覚的な何かで、俳句ならば五七五で、和歌ならば五七五七七で表現されるものなのではないかと思います。こうした詩的な雰囲気漂う小説なんですね。

この作品の最も大きな特徴は、こうして自然のものでも何でも自分の身に引き寄せて考える主人公の感覚そのものが、徐々に神経質で尖ったものになっていき、やがては狂気を感じさせるものになること。

辺りにはのどかな田園風景が広がっているのですが、田舎の人々と揉めた後、飼い犬が殺されてしまわないか不安に駆られ、時計の音が気になって眠れなくなるなど、怪奇小説のような趣すらあるのです。

物語的な面白さこそないですが、主人公がじわじわと精神的に追い詰められていく様子が感覚的にとらえられている、すごい作品。

エピグラフ(冒頭の引用句)はエドガー・アラン・ポーの詩なのですが、まさに怪奇小説や幻想文学が好きな方におすすめの一冊です。

作品のあらすじ


こんな書き出しで始まります。

 その家が、今、彼の目の前へ現われて来た。
 初めのうちは、大変な元気で砂ぼこりを上げながら、主人のあとになり前になりして、飛びまわりまつわりついていた彼の二匹の犬が、ようよう従順になって、彼のうしろに、二匹並んで、そろそろ随いて来るようになったころである。高い木立ちの下を、道がぐっと大きく曲がった時に、
「ああやっと来ましたよ」
と言いながら、彼らの案内者である赭毛の太っちょの女が、片手で日にやけた額からしたたり落ちる汗を、よごれた手ぬぐいでぬぐいながら、別の片手では、彼らの行く手のほうをさし示した。
(5~6ページ)


この書き出しからして、普通の小説とは違う、違和感のようなものを感じた方も多いのではないでしょうか。興味深い書き出しです。

この場面は、単に犬と一緒に散歩していて家を見つけたというのとは決定的に違っていて、家という対象が突如として現れ、その後について来ていた犬の様子が思い返されるという順序になっています。

こんな風に、小説的なレンズというよりは詩的な、対象への距離が極めて近いレンズを通して紡がれているのが、この作品の特徴です。

女優をしていた妻と東京を離れ、田舎へやって来た〈彼〉は、しばらくお寺に間借りしていましたが、ついに家を借りることにしました。

ちょうどいい空家があるということで、村の人に案内されたのが、「鈍色にどっしりとある落ち着きをもって光っているささやかな菅葺きの屋根」(6ページ)を持つ、その小さな家だったのでした。

 それが彼のこの家を見た最初の機会であった。彼と彼の妻とは、その時、各この草屋根の上にさまようていた彼らのひとみを、互いに相手のそれの上に向けて、ひとみとひとみとで会話をした――
「いい家のような与覚がある」
「ええ私もそう思うの」(6ページ)


その家は元々、あるお金持ちの隠居が若い妾のために建てた離れでした。その妾が愛人を作って出奔してしまった後、隠居は庭いじりを始めます。庭に様々な花の木を植えたのです。

隠居が亡くなると、いい花の木は半ば騙すような形で植木屋が持って行き、家は一旦は百姓が借りたものの家賃が滞って追い出され、その後はそのまま空家になって、すっかり荒れ果てていたのでした。

〈彼〉と妻は、まるで上田秋成の『雨月物語』に登場する「浅茅が宿」のようだと笑い合い、所々を修理しながら、しばらくその家に住むことにしたのでした。

妻は、一番近くにいながら、夫のことがよく分かりません。明るく笑ったかと思えば、暗く落ち込んだり、突然怒り出したり、その時々であまりにも気分のあり方が違うからです。

しかし無邪気に夫の才能を信じ、「あれほど深い自信のあるらしい芸術上の仕事などは忘れて、――放擲して、ほんとうにこの田舎で一生を朽ちさせるつもりであろうか」(11ページ)と思ったりも。

夫が自分につれないのは、他に愛した女と一緒になりたかったからではないかと疑ったりもする妻に対して、〈彼〉はただただ創作上の、そして人生の行き詰まりを感じて苦しんでいたのでした。

やがて、〈彼〉は、家の庭にみすぼらしい薔薇の木を見つけます。陽の光もあたらず、すっかり弱っている可哀想な薔薇の木を見て、それをまるで自分のようだと〈彼〉は思ったんですね。

そこで〈彼〉は、薔薇の木を手入れをすることによって、自分の運命を占おうとします。「薔薇ならば花開かん」(32ページ)、薔薇が美しい花をつけたら、自分の才能も開花するだろうと。

錆びたのこぎりと桑剪ばさみを借りてきた〈彼〉は、薔薇の木に光があたるよう、周りの木の枝を切り始め、その作業に没頭します。

最初に、最も大きな枝が地に墜ちた音で、彼の珍しい仕事を見に来た彼の妻は、何か夫に喚びかけたようであったけれども、彼は全く返事をしなかった。犬でおもは主人がきょうは少しも相手になってくれないのを知ると、彼ら同士二匹で追っかけ合って、庭じゅうを騒ぎ回っていた。何か有頂天とでも言いたいほどの快感が彼にはあった。そうしてむやみに手当たり次第に、なんでも挽き切ってやりたいような気持ちになった。(33~34ページ)


やがて、手入れの甲斐があって、薔薇の木は季節はずれの花をつけました。思わず枝に手を出すと、薔薇のやわらかいとげが〈彼〉の手を刺したのですが、愛猫に噛まれた時のような思いがします。

その小さく弱々しい薔薇の花を見ると、〈彼〉の胸には「悲しみにも似、喜びにも似て、いずれとも分かち難い感情」(48ページ)がこみあげて来て、思いがけず涙があふれ出したのでした。

薔薇の花を美しくたくさん育てることは、少しずつうまくいっているのですが、一方、田舎での生活にはなかなか馴染めません。

周りに住むのは、農作業をするのが当たり前の暮らしをしている人々ですから、〈彼〉のように創作活動に打ち込んでいる人は、遊び人、怠け者だと思われ、どうしても冷たい目で見られてしまうのです。

最も大きな問題となったのは、〈彼〉の飼っている2匹の犬、フラテとレオでした。フラテとレオは近くの家の鶏(ニワトリ)を食べてしまったり、その大きさが恐れられたりしてしまったのです。

〈彼〉は、やむをえずフラテとレオを鎖に繋がざるをえなくなり、散歩するのも労力がいるようになりました。また、村の人々が〈彼〉の犬に危害を加えるのではないかという思いも〈彼〉を悩ませます。

やがて、ちょっとした用事で妻が東京へ行ってしまうと、一人になった〈彼〉は、自分の心を憂鬱にさせる出来事を思い出していき、どんどん精神の暗い迷宮に迷い込んでいってしまい・・・。

はたして、〈彼〉はたくさんの薔薇の花を美しく咲かせることが出来るのか!?

とまあそんなお話です。田舎での、どことなく憂鬱な日々が、〈彼〉の感覚を通して綴られた物語で、言わば散文詩のような作品です。

〈彼〉は非常に繊細な心の持ち主。一つ一つのエピソードは理解出来ないこともないのですが、総合的に見ると完全にどこか病んでいるという感じなので、詩的とは言え、明るく楽しい話ではないです。

もう狂気の一歩手前という感覚で紡がれているのですが、それこそがこの作品の最大の魅力。みなさんが読んだことのないタイプの作品だろうと思うので、興味を持った方は、ぜひ読んでみてください。

明日も佐藤春夫で、『美しき町・西班牙犬の家 他六篇』を紹介する予定です。