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室生犀星『杏っ子』(新潮文庫)を読みました。
今ぼくはちょっと困ってます。この『杏っ子』という作品は、作者である室生犀星自身を思わせる小説家、平山平四郎とその娘の杏子を描いた物語なんですが、一般的な観点からすると、あまり面白い小説ではないかもしれません。
なにしろちょっと長くて、600ページくらいあるんですね。なので、それだけでもおすすめしづらいですし、構成、文章など作品の「評価」という点では、決してぼくも高くはありません。
ですが、困ったことに、ぼくはこの『杏っ子』が非常に好きなんです。もうすごくいいんです。どこがどういいというわけでもないんですが、忘れられない印象が残ります。
描かれている物事に独特の感性が光る部分があって、はっとさせられるんですが、これだけのきらめきを持つ文章というのは、室生犀星以外にほとんど見たことがありません。
たとえばこんな文章。やや長いですが、ちょっと読んでみてください。
平四郎は午後おそくに仕事につかれると、例のピアノの部屋に行って横になり、この大きな図体の楽器の方にむいて、眼をつむり眼を開けていた。この楽器の中はハリガネだらけの街区である。ピアノを製った奴は、ひとつの街をつくろうとは考えなかったろうが、内部は街だらけである。とうとう杏子がピアノを弾くまでになったが、音楽の才能は杏子にあるとは思えない。ただ、杏子がピアノを弾いているので、音楽の臭気が杏子のまわりにあることは確かである。手も顔もピアノの音色に漬けられているようで、ピアノ漬みたいなものだ。平四郎はゆう方に、誰も弾いていないのにこの図体の奥から、なにかを聞こうとして自分の頭で或る音色を考え出して、聴きいろうとしていることがあった。(194ページ)
どうでしょうか。この文章は物事の描写ではなく、詩的な感性によって紡がれています。
ピアノを見て、ピアノの内部のことを空想的に思い浮かべ、残念ながら才能はないものの、それでも娘の杏子から「音楽の臭気」を感じ取り、鳴っていないピアノの音に耳をすまします。こういう文章を読むと、もう単純にいいなあとぼくは思わされてしまうんです。
あまり熱心におすすめしても、「読んだけど、そんなに面白くなかったよ」と言われてしまいそうな小説ではあるので、それでちょっと困ってるんですが、まあ機会があれば、ぜひ読んでみてください。物語として面白いか面白くないかはともかく、ぼくの好きな小説です。
『杏っ子』の物語は大きく分けて、3つの流れから構成されています。
(1)ちょっと辛い境遇が描かれる平山平四郎の少年時代、(2)作家になった平山平四郎に娘杏子が生まれ、その杏子の成長をあたたかい目で見守っていく壮年期、(3)娘杏子と息子平之介の結婚話、の3つです。
『杏っ子』は極めて室生犀星の自伝的色彩の強い小説ではあるんですが、普通の自伝的小説と大きく異なるのは、物語の中心が必ずしも平四郎に固定されていないことです。
平四郎に固定されていないというのはどういうことかというと、杏子が単純に「娘」としてだけ存在するのではなくて、一人の女性として描かれていくということです。
あらすじ紹介でも、あえてあまり触れないでおこうと思いますが、杏子は幸せな結婚生活を送るわけではないんです。ざっくり言えば、夫は夢追い人のろくでなしで、お金に困って非常に苦労します。
そうした苦しい生活が、杏子を中心にして描かれていくんですね。普通の自伝的小説と違い、平四郎が主人公なのではなく、様々な人間の人生が描かれる、その内の一人として物語に登場する感じなんです。
これはちょっと新しい感覚というか、不思議な感じがします。そして、平四郎と杏子は父であり娘であるわけですが、べたべたした親子関係ではないんですね。少し距離があって、お互いにお互いを一人の人間として認め合っているという感じです。
杏子は父親のことを「平四郎さん」と呼びますし、平四郎は結婚のことでもなんでもそうですが、杏子に強制的になにかをさせるということは、ほとんどありません。こうした不思議な関係性も印象に残ります。
冷たく突き放し、放任主義のようでありながら、誰よりも杏子のことを想っている、平四郎のあたたかな目が心に残る作品です。
作品のあらすじ
女中の子供として生まれた平四郎は、青井おかつという女性にもらわれることになります。子供をもらうとお金がもらえるので、それがおかつの目的なんですね。同じようにもらわれてきた兄と姉がいます。
おかつは真乗上人というお坊さんと夫婦のような関係です。「或る雨のふる晩に、平四郎はこの二人の枕元を通って厠に行ったが、重い襖戸を開けると、二人はくみ合って喧嘩をしていた。小便をしながら平四郎は、一体何で父母達が夜中に喧嘩しているんだろうと思った」(35ページ)と書かれるんですが、室生犀星は性的なことに対しての意識が強いというか、わりとこんなことを書くんです。
他にもたとえば、真乗上人と銭湯に行った時のこと。平四郎は裸がなんとなく恥ずかしいので、大事な部分を足や桶で隠したりするんですが、真乗上人は「ぶらんとしたものは、ぶらんとしているまま」(37ページ)で、そこにあるしらがが目についたりします。
普通あまりこんなことは書かないので、感心するのもおかしな話ですが、室生犀星の感性がこんな所でも光っているように思います。
おかつからは、ほとんど虐待のような感じで育てられるので、平四郎は辛い少年時代を過ごすこととなります。
物語は一気に飛んで、もう平山平四郎は小説家になっており、結婚しています。赤ん坊が生まれたので、杏子と名付けました。愛称は杏っ子。
実在の文士たちとの交流が描かれるのもこの小説の面白い所です。関東大震災があったので、「杏子嬢は無事か、奥さんは?」(68ページ)と芥川龍之介がやって来たり、地震のせいで田舎に行くことになったので、菊池寛に家を貸したり。他にも堀辰雄や佐藤春夫の名前が出て来ます。
杏子はすくすく成長していきますが、平四郎が杏子を見る目というのは少し変わっていて、ただ無造作に父が娘を見ている目ではなく、どこか冷たいような、分析的な所があります。
まず、平四郎が女性に抱いているのはこんな考えです。
女の人というものは、裸になってお湯にはいることは勿論だが、べつの意味で、着物でない着物を一枚着て、お湯にはいるような気が、いつも平四郎に感じられた。男に見せないための、こころ構えのうすいきものが、その眼配りのあいだに着ているようであった。だから裸体にはなっているものの、外から考えると、きちんと、うすものを着ていて、そのため滅多にほんものの裸を見せないものである。それほど大事なものなのだ。(142ページ)
ところが、杏子はまだ子供なので、お風呂上りに裸のまま、はしゃいではね回ったりしてるんですね。それで冷静に杏子にはまだ「こころ構えのうすいきもの」はないと考えたりしています。
中でも「鳥の子餅のような」性器を見て、「よその父親というものはそんなところを見ないものであろうか」(143ページ)とかを延々と考えたりしているんです。ちょっと面白いですよね。
こんなことは小説ではあまり書かれませんから、非常に興味深いんですが、まあそれはともかく、要するに単なる「娘」としてではなく、この時からもう「一人の女性」の像を重ね合わせて見ているということなんです。
やがて杏子は少女から娘へと成長していきます。そうすると持ち上がってくるのが結婚の問題です。様々な見合い相手がやって来ますが・・・。杏子は一体、どんな人と結婚することになるのでしょうか。
物語の後半は、杏子のあまり幸せとは言えない結婚生活が中心となって描かれていくことになります。杏子が悩み、苦しんでいる時に、平四郎がとった態度とは一体どんなものだったのか?
とまあそんなお話です。平四郎と杏子は、なんだかちょっと不思議な関係性なんです。近すぎず、かといって遠すぎず。人生というものは辛く苦しいものだと認めて、それをしっかりと受け止めた上で歩いていく、師匠と弟子のような感じと言えばよいでしょうか。
では、最後にぼくのお気に入りのセリフを引用して終わります。平四郎が杏子に言った言葉です。
「・・・印度林檎を一箱買う奴はその美しさも、詩情も喜びも持てない、夏蜜柑一つだって座敷の真中に置いて見たまえ、いかなるものも圧倒されるし、よく考えると此の小さい奴の威張らない美しさに負けてしまう。」(349~350ページ)
貧乏には貧乏のよさがあるというほどの意味ですが、なんだかとても印象的でした。たしかに座敷の真ん中にぽつんと夏蜜柑が置いてあると、圧倒的なイメージがあるような気にさせられるのが面白い所です。
女性が生きていく辛さをまっすぐに見つめた後半も面白いですが、やはり前半の父と娘の物語がとても印象に残ります。単なる子育ての物語ではなくて、ある意味では対等な関係の上に築かれた父娘の深い絆が描かれた、そんな小説です。興味を持った方は、ぜひぜひ。
明日は、芥川龍之介『蜘蛛の糸・杜子春』を紹介する予定です。