水上勉『飢餓海峡』 | 文学どうでしょう

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水上勉『飢餓海峡』(上下、新潮文庫)を読みました。

1954年9月26日。青森と北海道を繋ぐ青函船である洞爺丸が、台風のために沈没し、1000人以上の死者が出るという日本最大の海難事故が起こりました。

実際に起こったこの洞爺丸事故をモチーフにして書かれた小説はいくつかあるのですが、今日と明日はその中でも、推理小説から2作品紹介したいと思います。

今日は、松本清張と並び称される社会派の作家、水上勉の『飢餓海峡』を、明日は日本探偵小説「三大奇書」に数えられる中井英夫『虚無への供物』を紹介する予定でいます。

同じモチーフながら、『飢餓海峡』は社会派、『虚無への供物』はアンチ・ミステリーと、かなり対照的な2作品なので、読み比べてみると面白いですよ。興味のある方はぜひ。

では、早速『飢餓海峡』の内容に入っていきましょう。作者の水上勉は社会派の作家だと書きましたね。

社会派の定義は難しいですが、いかに犯行が行われたかや、誰が犯人かと言うことよりも、犯罪を通して社会の問題を描き、犯罪者の心に密着した推理小説と言えるだろうと思います。

まさに『飢餓海峡』はそういう作品で、謎解きではなく、戦後間もなくの混乱した時代が克明に描写され、人間の心の暗部に迫る、そういう物語になっています。

作品の雰囲気としては『砂の器』など、松本清張の作品に最も近いですが、激動の時代を犯罪者を通して描いているという点で、ヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』の日本版という感じがありますね。

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青函連絡船、層雲丸の海難事故から物語は始まります。

発見された多くの遺体は、乗船名簿を元に遺族に確認してもらって、次々と引き取られていったのですが、何故か、引き取り手のない2つの余分な死体が出てしまったのでした。

函館警察署捜査一課の弓坂吉太郎警部補は、会議でこう発言します。

「報告によりますと、死者は五百三十二名となっておりまして、(中略)救助船員の中で、乗客係を担当しておりました小松茂行さんの証言ですと、二十日の乗船者の総数は八百五十四名、この人数は小松さんが記載した乗船名簿と合致しますが、おかしなことに、乗船者数よりも死体の数が二体多いという数字が出て困っております。小松さんは、名簿以外の乗船客は船長の命令で厳密に取締まったといっておられますし……、この二死体はよけいだったことになります。密航者がいたか、それとも――この死体に引取人がない理由を考えねばなりませんが、私はちょっと変に思うんです」(上巻、18~19ページ)


警察は、この2つの死体の謎に何らかの関与があると見て、犬飼多吉という男の行方を追い始めます。

しかし、犬飼多吉から思わぬ親切を受けた酌婦(しゃくふ。料理屋につとめ、売春もする女性)杉戸八重が嘘の証言をしたため、警察は犬飼多吉の行方を見失ってしまったのでした。

犬飼多吉の行方を追い続ける警察、行方をくらました犬飼多吉、そして犬飼多吉を慕って東京へ出た八重。三者が思わぬ邂逅を遂げた時、新たな悲劇が起こって――。

謎めいた男、犬飼多吉についてはほとんど描かれず、八重が東京で何とか生き抜いて行こうとする姿が中心となる物語です。

青森の貧しい村で生まれ、自分の体を売らなければ生きていけなかった八重の心に希望の光を灯してくれた存在が犬飼多吉でした。

八重は犬飼多吉を慕い、いつの日か再会出来ることを夢見て、生きていきます。はたして、2人は再会することが出来るのでしょうか。

八重の東京での生活は、戦後間もなくの東京がどんな雰囲気だったかの風俗史にもなっていて、その辺りもこの作品の面白い所でした。

作品のあらすじ


こんな書き出しで始まります。

 海峡は荒れていた。
 いつもなら、南に津軽の遠い山波がかすんで見え、汐首の岬のはなから沖にかけて、いか釣舟の姿が、点々と炭切れでもうかべたようにみえるはずなのだが、今朝は一艘の舟も出ていなかった。
 沖は空のいろと一しょに鼠一色にぬりつぶされていた。墨をとかしたような黒い雲の出ている部分もあり、視界は正午近くになると、荒れる波と低くたれこめた雲に閉ざされた。
(上巻、9ページ)


嵐によって沈没した層雲丸の海難事故。そこで出た2つの余分な死体の謎を追う警察は、3450戸を焼き、多くの死傷者を出した岩幌町の火災についても調べていました。

岩幌町の火災の原因は、佐々田伝助という質屋が強盗殺人にあったこと。どうやらその犯人は、網走刑務所を数ヶ月前に出たばかりの、木島忠吉と沼田八郎のようです。

2人が泊まった宿の従業人の証言と宿帳から、木島と沼田は2人組ではなく3人組で、犬飼多吉という体の大きな男が一緒だったことが分かりました。

一方、青森県下北半島。どこからやって来たのか、長い間歩き続けて来た体の大きな男と和服姿の女が、大湊へ向かう軌道車の中で出会いました。

世間話をし、男からタバコをもらったおかえしに、女は握り飯をあげます。

と女は膝の上の風呂敷包みをごそごそひろげはじめた。中から、新聞紙に包んだこんもりと山になった握り飯が出てきた。狐色に焦げている。ずいぶん大きな三角握り飯だった。一つだけ白い指先でつまむと、
「たべない?」
 男の鼻先へつきだしたのだ。男はごくりと咽喉をならした。
「ギンメシか」
「そうよ」
 上唇のうすい口もとを女はにっこりさせた。しかし、男がそれをにらんだまま受けとらないので、うしろのかつぎ屋たちを気にしだした。早くうけとってくれと請求している眼もとが、男の心に何か秘密めいたものをただよわせたらしい。
「おーきに」
 そういうと、男は素早く受取ってぱくりと大口をあけてぱくついた。(上巻、120ページ)


女は杉戸八重、24歳。「花家」で千鶴という名の酌婦として8年間働いています。八重を訪ねて来たのかどうなのか、やがて「花家」で再会した男は犬飼多吉と名乗りました。

自分の貧しい境遇など、身の上話をしながら、八重は男を風呂に入らせ、どこかで怪我したらしい男の傷を治療してやります。

すると、「あんたは親切な人だ」(上巻、140ページ)と男は言い、しわくちゃの新聞紙に包まれた札束(後に六万八千円もの大金だと分かります)を八重にくれると、そのまま去って行ったのでした。

やがて、犬飼多吉の行方を追って、弓坂吉太郎警部補が八重の元を訪ねて来ました。

しかし、「あの人を助けてあげよう。助けてあげねば、あたしの貰った六万八千円は消えてしまう……」(上巻、166ページ)と思った八重は、そんな人には会ったことがないと証言してしまいます。

ほとんど何の手掛かりもないにも関わらず、捜査に情熱を燃やす弓坂警部補はやがて、層雲丸の海難事故の2つの謎の死体が、木島と沼田であることを突き止めたのでした。

おそらく犬飼多吉は、木島と沼田と3人で質屋の強盗殺人並びに放火という恐ろしい犯罪を起こした後、金を独り占めにするために他の2人を海難事故にあわせて殺害したのでしょう。

犬飼多吉の行方を知っていそうなのは、あの時、嘘をついていたかも知れない八重だけだと思う弓坂警部補でしたが、借金を返して東京へ行った八重の行方もまた、分からなくなっていたのでした。

一方、自由の身となって東京へ出て来た八重は、色んな職を転々としながら、いつか小さなタバコ屋でも開こうと思って、お金を貯めています。

10年ほどが過ぎたある日のこと。ふと新聞の記事が八重の目に止まりました。

 三面記事の上段に、二段組の活字でこんな記事が目に入ったのだ。
「刑余者更正事業資金に三千万円を寄贈。舞鶴市の篤志家樽見京一郎氏が発起人で、厚生施設の新設運動活潑化――」
 何げない記事ではあったけれど、八重の眼が吸いこまれるようにその記事に落ちたのは、記事の冒頭部に掲げられた二段の縦位置顔写真であった。たしかにその人物は、犬飼多吉に似ていた。
〈似ている……〉
 八重は思わず息を呑んでその写真をみつめた。
(上巻、440ページ)


初めは八重も、他人の空似だろうと思いました。警察に追われていた男が、たったの10年で市の教育委員もつとめる食品工業の社長という、舞鶴一の名士になれるでしょうか。

あのお金をくれたことをずっと感謝し続け、犬飼多吉のことを慕っていた八重は、たとえ間違いでもいいから会いに行ってみようと舞鶴に向かって旅立って・・・。

はたして、樽見京一郎は犬飼多吉なのか? そして、岩幌町で起こった強盗殺人と火災、層雲丸海難事故で見つかった2つの死体をめぐる真相はいかに!?

とまあそんなお話です。追う者、逃げる者、慕う者、三者三様の物語。犯罪を立証するに足る証拠が何一つない状況で、犯人を追い続ける警察の執念が印象に残ります。

犬飼多吉が八重と出会う場面で、「ギンメシか」と聞きますよね。銀飯というのは、白米のことですから、今の感覚で言えば、珍しいものでもなんでもありません。

ですが、終戦直後はインフレ(お金の価値が下がり、物価がどんどん上がること)が起こったこともあり、なかなか満足にご飯すら食べられなかったんですね。

誰もがみな飢えていた時代の物語なだけに、単なる犯罪を描いた小説とは違い、色々と考えさせられる、骨太な作品になっています。

ミステリとしてではなく、人間ドラマとして読まれるべきタイプの小説なので、意外性や驚きには欠けますが、しみじみと深く心動かされる小説。

上下巻とやや長いですが、興味を持った方は、ぜひ読んでみてください。

明日は、中井英夫『虚無への供物』を紹介する予定です。