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武田泰淳『ひかりごけ』(新潮文庫)を読みました。
武田泰淳は、独特の印象が残る作家です。一言でいうと、「どこかへん」な感じなんです。それはうまく説明できないんですが、武田泰淳ならではとしかいいようのない作風を持った作家です。
重々しいやや粘っこい文体ではありますが、そこにさほど特徴があるわけではないので、テーマというか、物語でとらえようとしているものに、武田泰淳ならではのものがあるのだろうと思います。
武田泰淳のデビュー作は、評論とも評伝ともつかない『司馬遷』という作品です。司馬遷というのは、『史記』を書いた人ですが、その司馬遷に自分自身を重ねて書いたとも言われています。
司馬遷については、中島敦が「李陵」で描いていて、そちらの記事で多少触れているので、興味のある方は見てみてください。
話を戻しますが、武田泰淳は中国文学に造詣が深いことと、デビュー作が小説ではないことに、他の作家とは違う特徴を見出せます。ストーリーを重視した小説というよりは、もう少し違ったなにかを描こうとする作家なんですね。
表題作「ひかりごけ」は、実際にあった事件を元に小説にしたものです。元になったのは、船が難破して、時間が経ってようやく助かった船長が、どうやら船員の肉を食べて生き延びたらしいという、そういう非常にショッキングな事件。
実際の事件を小説にする場合、いくつかのアプローチが考えられますが、最も多いのは、フィクションとして再構築するやり方だろうと思います。三島由紀夫の『金閣寺』などがそうですね。
実際の人物をモデルにして、実際の事件を1つのフィクションとして描くんです。そうすると、物語の中で事件は起こるわけで、その事件を客観的に見る視点というのは、存在しません。
「ひかりごけ」はその点、とても興味深い構成をしています。
ひかりごけというコケを見に羅臼を訪れた〈私〉は、たまたま事件のことを耳にします。そこで事件についての考察が様々なされるんですね。つまり、事件を分析する視点があるんです。
後半になってようやく戯曲の形式で事件が再構築されるんですが、これがまた「どこかへん」な感じなんです。特に裁判の場面は、現実の出来事を越えた、もっと大きなものが描かれます。
内容に関連するので、あまり触れられませんが、主客転倒のようなことが起こります。ぼくら読者は「他人事」だと思ってこの小説を読んでいるわけですよね。おぞましくショッキングだけれど、自分とは関わりのない事件だと。
ところが、この裁判の場面で、ぼくら読者は「他人事」の立場から引きずりおろされる感じがあります。
テーマ的には重いんですが、あらすじを読んで、興味を持った方はぜひ読んでみてください。「どこかへん」な感じを持った稀有な作家の、代表的な1編です。
作品のあらすじ
「ひかりごけ」
ひかりごけを見に、北海道の羅臼を訪れた〈私〉。自分もまだ見たことがないという、中学校の校長に案内されて、洞窟の中へ入っていきます。なかなかひかりごけは見つかりませんが、やがてその光が見えてきます。相手が指し示した場所に目をやっても、苔は光りませんが、自分が何気なく見つめた場所で、次から次へと、ごく一部分だけ、金緑の高貴な絨毯があらわれるのです。光というものには、こんなかすかな、ひかえ目な、ひとりでに結晶するような性質があったのかと感動するほどの淡い光でした。苔が金緑色に光るというよりは、金緑色の苔がいつのまにか光そのものになったと言ったほうがよいでしょう。光りかがやくのではなく、光りしずまる。光を外へ撒きちらすのではなく、光を内部へ吸いこもうとしているようです。(172ページ)
〈私〉は校長から、たまたまある事件の話を聞きます。事件に関心を抱いた〈私〉は、「羅臼村郷土史」を借りて、事件の詳細を調べることにします。
船が難破し、二ヶ月経ってから船長が救出されました。食糧がないので、やむをえず死んだ船員の肉を食べて生き延びたことが分かります。資料では、ある可能性も示唆されています。死んでから食べたのではなく、「食べる目的で殺した」(184ページ)のではないかと。
ここで、「人肉を食べる」ということをテーマにした、野上弥生子の『海神丸』、そして大岡昇平の『野火』との比較、分析がなされます。
一、たんなる殺人。二、人肉を喰う目的でやる殺人。三、喰う目的でやった殺人のあと、人肉は食べない。四、喰う目的でやった殺人のあと、人肉を食べる。五、殺人はやらないで、自然死の人肉を食べる。
この五つを比較すると、(二)は(一)よりも重罪らしいし、(四)は(三)よりも重罪らしい。ただし(一)つまり、たんなる殺人と、(五)つまり、殺人はやらないで自然死の人肉を食べるのと、どちらがより重い罪かとなると、そんな比較が馬鹿々々しくなるほどむずかしい問題になってしまいます。
人間を殺すことと、人間の肉を食べること。この二つの行為が、どこかおのおの異った臭気を発散することだけは、感覚的にわかります。(186ページ)
そして、戯曲の形式で、事件の再現が始まります。船が難破し、食べ物はありません。みんな飢え死にしそうな中、五助という船員が死亡します。
その肉を食べるかどうかが、船員同士の間で議論になります。そして、食うものと食わないものが出てきます。
西川という船員は、やむをえず食べたのですが、「首のうしろに、仏像の光背のごとき光の輪が、緑金色の光を放つ」(204ページ)ようになります。それを見て、八蔵は光の輪が見えると言います。
八蔵 おめえにゃ見えねえだ。おらには、よく見えるだ。
西川 おめえの眼の迷いだべ。
八蔵 うんでねえ。昔からの言い伝えにあるこった。人の肉さ喰ったもんには、首のうしろに光の輪が出るだよ。緑色のな。うッすい、うッすい光の輪が出るだよ。何でもその光はな、ひかりごけつうもんの光に似てるんだと。
西川 (焚火の傍へ走りもどる。光の輪、消える)そったらこた、あるもんでねえ。眼の迷いだ。眼の迷いだ。(204ページ、「ひかりごけ」は原文では傍点)
やがて八蔵も死に、船長と西川だけが残るんですが、その先の展開にはこれ以上触れないことにしますね。
第二幕「法廷の場」では、舞台が変わって、法廷で船長が裁かれることになります。はたして事件はどのように展開していったのか。そして、船長はどのように裁かれるのか!?
とまあそんなお話です。「法廷の場」は特に「どこかへん」な感じで、それはカフカや安部公房などのシュールな感じともまた違った、独特の空気があります。ぜひ注目してみてください。
『ひかりごけ』には、他に「流人島にて」「異形の者」「海肌の匂い」の3編が収録されています。この3編のあらすじに簡単に触れて終わります。
「流人島にて」
〈私〉は船でQ島に向かいます。Q島というのは、「H本島でもてあました凶悪な流人を、島替えして送りつけた小島である。屈強な叛逆者のうち、一人としてQ島からの島抜けに成功できなかった」(11ページ)という歴史を持つ島です。つまり、罪を犯した流人を島流しにした所なんですね。村の子供たちには、「義経」「実朝」「為義」など、武士の名前が多くつけられています。
〈私〉は道の途中で、「傭人」(やといにん)の少年を見かけます。感化院から送られてきた不良少年で、農業など仕事をさせられているんですね。「傭人」に対して、複雑な感情が渦巻く〈私〉。
周りには、この島に初めて来たと言いながら、〈私〉はある男の行方を探し始めます。そして・・・。
「異形の者」
父親が僧侶のため、「魚屋の子が魚屋になり、地主の子が地主になるようにして、僧侶という職業人になった」(79ページ)〈私〉。つまり、仏教を信じて、仏道に入ったのとは少し違うんですね。教えを信じるか信じないかの狭間にいるわけです。若い僧侶が集まって、本山で修行に励みます。そこで様々な若い僧侶と出会います。中でも目立つのが、穴山という僧侶。「オウ」と言いながら、「直立させた陰茎で障子紙に穴をあける」(96ページ)ような荒々しいやつです。
ある時、ささいな事件が起こります。遅刻してきた若い僧侶を、監督する立場の目上の僧侶が殴って戒めたんですね。それに対して、反発の声があがり、若い僧侶たちは集まります。
みんなで山を降りてしまおうとか、みんなでよってたかって殴ってしまえとか、様々な意見が出る中、〈私〉は・・・。設定や人物で後の長編『快楽』に連なる短編。
「海肌の匂い」
漁師村で暮らす、新三と市子の夫婦。町から来た市子は、村にまだ慣れていないようなところがあります。暮らしは漁で成り立っていますが、不漁が続いて困っています。ある時、会話の流れから、秋山という老人に市子は「乗ってみたいけんどな」(143ページ)と漁に参加してみたいと言ってしまいます。秋山は市子を船に乗せてやろうとします。
ところが、船に女は乗せたらいけないというジンクスのようなものがあるので、みんなあまりいい顔はしません。なにより反対なのが夫である新三で、仲間たちにからかわれて、機嫌を損ねてしまいます。
それでも漁について行くことになった市子。そして・・・。
秋山の娘は、ちょっと頭がおかしな女性として登場します。この娘に対して、市子がどんな感想を抱くのかに注目してみてください。
とまあそんな4編が収録された短編集です。どれも「どこかへん」な感じのある短編です。一番読みやすいのは「海肌の匂い」で、新三と市子のどこかべったりとしたような関係性が、村のイメージとも重なり合って、印象に残ります。
最も力がある短編は、「流人島にて」です。こういう短編の書き手というのは、これからどんどん少なくなっていくような気がします。罪が罪を呼んで、どんどんどす黒くなっていく、そうした重みのある作品です。
仏教をテーマにした小説というのは、結構ありますけれど、「異形の者」のように、信仰に迷う姿が描かれることはなかなかないですね。聖と俗が入り混じり、どこか生々しいような空気も漂う、非常に興味深い作品だと思います。
武田泰淳に興味を持ったら、ぜひこの短編集を手にとってみてください。他の作品もその内紹介できるかと思います。
明日は、木下順二『夕鶴・彦市ばなし』を紹介する予定です。