大岡昇平『野火』 | 文学どうでしょう

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野火 (新潮文庫)/大岡 昇平

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大岡昇平『野火』(新潮文庫)を読みました。

『野火』という作品は、戦争を描いた小説の中で、最も読まれている一冊なのではないでしょうか。

200ページ弱の『野火』は、『俘虜記』や『レイテ戦記』と比べるとページ数が少ないことから、学校などでおすすめの対象になりやすいのだろうと思います。

ただ、なにより重要なのは、『野火』が、人間存在そのものを問いかけるような小説であることです。グロテスクで、思わず目を背けたくなる問題とぶつかっている、そんな小説なんです。

少し前に武田泰淳の「ひかりごけ」という作品を紹介しました。「ひかりごけ」は遭難した船長が、飢えのために極限状況に追い込まれ、死んだ船員の肉を食べるという話です。

我々は牛や豚など、動物の肉を食べます。あまり意識しないことではありますが、そこには死があり、我々は生命によって生命を繋いでいます。しかし、動物の肉を食べるのと同じように、人間の肉を食べることはできるでしょうか。

もちろん行為として食べることは可能でしょう。ですが、そこには倫理的なためらい、より正確に言うと嫌悪感に似た禁忌の念が湧き上がってくるかと思います。動物の肉と人間の肉には、感覚的に決定的な違いがあるんですね。

『野火』は、フィリピンのレイテ島を舞台に、さまよう一人の兵士〈私〉の姿を描いた小説です。食料はやがて無くなり、激しい飢えが襲ってきます。食料はありませんが、周りには死んだ兵士たちがいます。

生き抜くために、人肉を食べ始める兵士も現れます。生命の維持のために、人肉を食べることは許されることなのか、どうなのか。〈私〉は大きな決断を迫られることになります。

今回読み直してみて、作品の印象はやや変わりました。「人間の肉を食べるということ」は、もちろんテーマとしては非常に重いものですが、それだけの小説ではないですね。本文にこんな一節があります。

 死ぬまでの時間を、思うままに過すことが出来るという、無意味な自由だけが私の所有であった。携行した一個の手榴弾により、死もまた私の自由な選択の範囲に入っていたが、私はただその時を延期していた。(44ページ)


〈私〉の中で、「生きるか、死ぬか」という二つの考えがぶつかりあってはいません。「死」はすでに決まったこととして目の前にあり、それが早いか遅いかの違いです。好きな時に手榴弾で死ぬこともできます。

〈私〉には残して来た妻もいます。生きて帰りたくないわけはないはずですが、「死」を受け入れざるをえない状況なんですね。

「なにがなんでも生きて帰りたい」という思いで見る風景と、「死」を自明のものとして受け入れて見る風景は、同じようで大きく違うのではないでしょうか。

あらすじの紹介の所でまた引用しようと思いますが、前半で多く書かれる、そうした言わば達観した視点からの風景描写がなにより素晴らしいです。

達観した考えを持って、周りの風景を描いているという点で、『徒然草』や『方丈記』など、古典の随筆と近いものがあると思います。

やや印象が変わったというのはまさにここの所で、「人間の肉を食べるということ」の問題の前に、「人間が生きるということ」自体をも描いた小説なんですね。

それが押し付けがましいものでないだけに、深い印象をもって心に残ります。

作品のあらすじ


「私は頬を打たれた。分隊長は早口に、ほぼ次のようにいった」(5ページ)という書き出しで始まります。〈私〉は肺病になってしまったため、病院に入院したんですが、治ったとされて3日後に病院を追い出されてしまったんですね。

病院から隊に戻ると分隊長は、役に立たない兵隊はいらないから、病院から戻ってくるなと言います。レイテ島での戦いは非常に厳しい状況で、病院にも隊にも食料がないんですね。どちらも余計な人員を受け入れたくないわけです。

「わかりました。田村一等兵はこれより直ちに病院に赴き、入院を許可されない場合は、自決いたします」(6ページ)と〈私〉は言い、フィリピン産の芋を六本もらって隊を離れます。

病院の前で、やはり入れてもらえない何人かの兵士たちと過ごしますが、やがて攻撃にあい、〈私〉は行くあてもなく山の中をさまようことになります。

すでに「死」は〈私〉とともにあります。夜、土が青白く光ると、「いつの時代にか、この場所で死んだ動物の体から残った、燐であろう」(46ページ)と空想し、川の水に触れると、生命について思いをめぐらせます。

 死は既に観念ではなく、映像となって近づいていた。私はこの川岸に、手榴弾により腹を破って死んだ自分を想像した。私はやがて腐り、様々の元素に分解するであろう、三分の二は水から成るという我々の肉体は、大抵は流れ出し、この水と一緒に流れて行くであろう。
 私は改めて目の前の水に見入った。水は私が少年の時から聞き馴れた、あの囁く音を立てて流れていた。石を越え、迂回し、後から後から忙しく現われて、流れ去っていた。それは無限に続く運動のように見えた。(46ページ)


やがて〈私〉は無人となった村で塩を手に入れ、なんとか生き延びます。それから、パロンポンに向かう一隊と出会い、合流します。レイテ島に残った兵士はみなパロンポンに集合するように命令が出ていたんですね。

しかし、この一隊も攻撃を受け、運よく助かった〈私〉はまたさまようことになります。食料はつき、草やヒルまで食べ、極限の飢えに襲われる〈私〉。

〈私〉は死にかけの将校と出会います。将校は意識が朦朧として、ぶつぶつ言っているんですが、死ぬ間際にこう言い残します。

「帰りたい。帰らしてくれ。戦争をよしてくれ。俺は仏だ。南無阿弥陀仏。なんまいだぶ。合掌」
 しかし死の前にどうかすると病人を訪れることのある、あの意識の鮮明な瞬間、彼は警官のような澄んだ眼で、私を見凝めていった。
「何だ、お前まだいたのかい。可哀想に。俺が死んだら、ここを食べてもいいよ」
 彼はのろのろと痩せた左手を挙げ、右手でその上膊部を叩いた。(129~130ページ)


将校は死に、〈私〉は剣を握ります。人肉を食べることを許された〈私〉が出した結論とは!?

とまあそんなお話です。あえてあらすじの紹介では省きましたが、無人となった村で塩を手に入れる所にも、大きなテーマが潜んでいます。

「人間の肉を食べるということ」をまっすぐに見つめた小説です。テーマ的には、かなりずっしりとこたえるものがあります。それだけに、戦争そのもの、そして生きるということについて深く考えさせられる作品です。

罪や生命そのものへの問いかけは、宗教的な響きを持ちます。〈私〉がたどり着いたのはどんな心境だったのか、ぜひ注目してみてください。

明日は、川端康成『古都』を紹介する予定です。