村上春樹『パン屋再襲撃』 | 文学どうでしょう

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パン屋再襲撃 (文春文庫)/村上 春樹

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村上春樹『パン屋再襲撃』(文春文庫)を読みました。

ぼくは村上春樹の短編が好きです。『螢・納屋を焼く・その他の短編』の記事でも書きましたが、村上春樹の短編というのは、短編らしくない短編なんです。

普通の短編小説というのは、きっちりした構成や斬新なオチがあって、そうした凝縮された、言わば完結した世界観が魅力ですよね。

一方で、村上春樹の短編というのは、そうした短編という窮屈な設定に押し込められた感じがしないんです。その短編だけにとどまらない、豊かなイメージ力を感じます。

ぼくは短編は好きですが、短編集は苦手なんです。これはもう何回も書いてますけども、長編も短編も、設定と登場人物を覚えるという作業は同じです。

つまり、12編入ってる短編集を読むということは、ぼくにとって12冊の長編小説を読むのと同じだけのエネルギーを使ってしまうんですね。

ところが、村上春樹の短編集というのは、すごく読みやすいです。なにも考えずにすっと読めます。それはおそらく、登場人物のバックボーン(どこで生まれて、どんな仕事をしていて、どんなことを考えているかなど、その人物の背景的なこと)が厳密に設定されていないことにあります。

キャラクターらしいキャラクターは登場しません。純粋な主人公とか、憎々しい悪役とか、人間関係のしがらみとか、そういうのはないんです。

肉付けされた人物がいないという点で、それは欠点のようにも思えますが、ぼくはむしろいい部分なのではないかと思います。世界観に入り込みやすいので。

「没個性な人物に降りかかる、ちょっと不思議な出来事」が村上春樹の短編なんです。そしてその「不思議な出来事」というのは、スピリチュアル(精神世界)なものを含んでおり、単なる「不思議な出来事」ではない、村上春樹独特の雰囲気があります。

『パン屋再襲撃』は村上春樹の短編集の中でも、おすすめの1冊です。

まず『パン屋再襲撃』というタイトルが面白いと思いませんか? 「パン屋」と「襲撃」という組み合わせの時点で、相当ユニークです。

本来、「パン屋」というのは、どこかやさしいような、あったかくてふわふわしたイメージがあると思います。そこに緊迫さと暴力のイメージを持つ「襲撃」が重なります。

この2つのイメージのぎこちない響きだけでも面白いのに、さらに「襲撃」ではなく「再襲撃」なんですよ。「えっ、『パン屋再襲撃』って何?」と思わず引き込まれますよね。

そして、ジャケットがかっこいいです。最近新装版が出たので、思い立ったら、ぜひジャケ買いしちゃってください。

そうしたタイトル、ジャケットだけではなく、内容もいいです。読みやすく、面白い短編ばかりですので、「村上春樹を読んでみたいけれど、どれから読んだらいいんだろう?」という方におすすめです。

初期3部作も、『ノルウェイの森』もわりと癖があるので、こうした短編集から入るとよいと思いますよ。

作品のあらすじ


各短編を少しずつ紹介します。

『パン屋再襲撃』には、「パン屋再襲撃」「象の消滅」「ファミリー・アフェア」「双子と沈んだ大陸」「ローマ帝国の崩壊・一八八一年のインディアン蜂起・ヒットラーのポーランド侵入・そして強風世界」「ねじまき鳥と火曜日の女たち」の6編が収録されています。

「パン屋再襲撃」

こんな書き出しから始まります。

 パン屋襲撃の話を妻に聞かせたことが正しい選択であったのかどうか、僕にはいまもって確信が持てない。たぶんそれは正しいとか正しくないとかいう基準では推しはかることのできない問題だったのだろう。つまり世の中には正しい結果をもたらす正しくない選択もあるし、正しくない結果をもたらす正しい選択もあるということだ。(11ページ)


この文章は、とても村上春樹らしい文章ですが、ちょっと「おっ」と思った方は、村上春樹をぜひ読んでみてください。うまく説明できませんが、こういうスタンスが村上春樹のスタンスなんです。

夜中の2時前。〈僕〉と妻はベッドで眠っていたんですが、目を覚ましてしまいました。すると、「『オズの魔法使い』にでてくる竜巻のように空腹感が襲いかかってきた」(12ページ)んです。

結婚したばかりということもあって、冷蔵庫の中にあるのは、ビールと玉ねぎとバターとドレッシングと脱臭剤だけ。2人は途方に暮れます。

〈僕〉はかつて同じような空腹感を感じたことがあったのを思い出します。

〈僕〉は妻に、その当時の友達とパン屋を襲撃した話をします。厳密に言えば、襲撃にはならなかった話なんですけど。

その話を聞くと、妻はこう言います。「もう一度パン屋を襲うのよ。それも今すぐにね」(25ページ)と。そして2人は・・・。

「象の消滅」

「町の象舎から象が消えてしまったことを、僕は新聞で知った」(41ページ)という書き出しで始まります。象がいる町なんです。

象の足に嵌められていた鉄の枷(かせ)は、鍵がかかったままそこに残されていて、象だけではなく、飼育係の男も消えてしまっていました。

大手の電気器具メーカーの広告部に勤めている〈僕〉は、商品の宣伝のためのパーティーで、女性誌の編集者である〈彼女〉と出会います。

パーティーの帰り、同じホテルのカクテル・ラウンジでお酒を飲みながら、〈僕〉は〈彼女〉に消えた象の話をします。

「ファミリー・アフェア」

妹と2人で暮らしている〈僕〉は、妹とスパゲッティーのことで口論になります。でもそれは実は、スパゲッティーのことが問題なのではなくて、妹の婚約者のことが問題なんですね。

〈僕〉は妹の婚約者のことが嫌いなんです。嫌いというのは少し違いますね。好きではない、あるいは苦手という感じでしょうか。

たとえば、〈僕〉は特定の恋人は持ちませんが、寝るだけのガール・フレンドはたくさんいます。そんな自由な〈僕〉に対して、妹の婚約者は真面目なんですね。言わば性質として水と油なんです。

〈僕〉と妹の両親は故郷で暮らしているので、必然的に結婚に関することは、〈僕〉が代理としてやらなければなりません。妹の婚約者と会ったり、婚約者の両親と会ったり。

風が吹くと湖の表面にさざなみが立つように、兄と妹の関係の、ささやかな変化を描いた短編です。

この短編がぼくは一番好きです。妹の結婚という、小津安二郎的とも言うべき古典的なテーマを持ち、なおかつ都会的なクールな雰囲気が漂っているのが魅力です。

村上春樹の描く〈僕〉というのは、愚鈍というと少しあれですが、あまり才気走った感じではないんです。ところが、この短編の〈僕〉というのは、かなりスマート(頭のいい)な印象を受けます。

そうした意味で、村上春樹の作品の中でも、異質な作品なのではないでしょうか。〈僕〉と妹の会話のテンポ、内容がユニークで面白い短編なんですが、『ねじまき鳥クロニクル』と重ねると興味深いものがあります。

ねじまき鳥クロニクル』というのは、奥さんのお兄さんとうまくいかない話なんです。どこかしら共通点があるような気がします。

「双子と沈んだ大陸」

「双子とわかれて半年ほど経った頃に、僕は彼女たちの姿を写真雑誌で見かけた」(131ページ)という書き出しで始まります。六本木のディスコの写真に〈僕〉がかつて一緒に暮らしていた双子が写っていたんです。

この双子というのは、『1973年のピンボール』の双子と同じと思っていいです。つまり、初期3部作と関係性の強い短編ですね。

〈僕〉は隣の歯医者の受付の子をデートに誘いますが、断られてしまいます。

〈僕〉は女に夢の話をします。双子が出てくる夢の話。静かで、かつ圧倒的な〈喪失〉が描かれた短編です。

「ローマ帝国の崩壊・一八八一年のインディアン蜂起・ヒットラーのポーランド侵入・そして強風世界」

「八十パーセントの事実と二十パーセントの省察というのが、日記記述についてのポリシー」(168ページ)である〈僕〉。

「眼かくしをつけてセックスをするのが大好き」(168ページ)なガール・フレンドかららしい電話が鳴りますが、聞こえてくるのは風の音だけ。まるで、一八八一年のインディアン蜂起のような・・・。

歴史的なキーワードを日常生活と結びつけた、ユニークな短編。

「ねじまき鳥と火曜日の女たち」

村上春樹の短編というのは、形を変えて長編になることがあるんですが、この「ねじまき鳥と火曜日の女たち」は、のちに『ねじまき鳥クロニクル』になりました。

ねじまき鳥クロニクル』の冒頭部分とほとんど同じなので、あらすじはそちらの記事を参照してください。

〈奇妙な女からの電話〉〈猫の不在〉に関して、この短編と『ねじまき鳥クロニクル』を比較すると非常に興味深いです。

つまり、この短編の時点では、〈奇妙な女〉がどういう存在かは全く分からないですし、〈猫の不在〉というのは、〈僕〉と奥さんの関係のメタファー的な要素がより強いです。

メタファーというのは、なにかを別のもので表すことですが、奥さんは〈僕〉にこう言います。「あなたが殺したのよ」(231ページ)と。

猫がいなくなっても無関心でいることと、直接手を下して殺すのとは、大きく違いますよね。でも、奥さんにとっては同じことなわけです。

メタファーの読み解き方は1つではないですが、たとえば〈僕〉と奥さんの間の〈愛〉が〈猫〉として置き換えられていると読むことができます。

すると、直接〈愛〉を終わらせようとしなくても、無関心は〈愛〉を殺すことと同義になってしまうんですね。〈愛〉がなくなっても、〈愛〉がなくなったことにすら気がつかないというのは、大きな問題であると。

「ねじまき鳥と火曜日の女たち」を読んで、面白そうだと思ったら、ぜひ『ねじまき鳥クロニクル』を読んでみてください。長いですし、精神的なしんどさがある長編ですが、鳥肌立つような傑作です。

とまあそんな6編が収録された短編集です。興味を持った方はぜひ読んでみてください。おすすめです。

明日は村上春樹の短編集『TVピープル』を紹介する予定です。