円城塔『道化師の蝶』 | 文学どうでしょう

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道化師の蝶/円城 塔

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円城塔『道化師の蝶』(講談社)を読みました。芥川賞受賞作です。

芥川賞は、同時受賞作がある場合、読み比べてみるとより面白いです。同じ要素を持っている作品なら受賞作は1つでいいわけで、2つ受賞作があるということは、純文学は純文学でも微妙にジャンルの違う作品ということです。

昨日紹介した田中慎弥「共喰い」は、1970年代の純文学を思わせる、わりとスタンダードなスタイルの小説でしたね。辛く苦しい現実をしっかりした文体で描き出した作品。

一方でこの「道化師の蝶」というのは、文学の最先端とも言うべき小説です。ストーリーを描くのではなく、文章が文章であることの面白さを追求したような作品なんです。

文体や描こうとしている小説の方向性は、イタリアの作家のイタロ・カルヴィーノ(『冬の夜ひとりの旅人が』など)と近いものがあります。

冬の夜ひとりの旅人が (ちくま文庫)/イタロ カルヴィーノ

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物語性のある小説がぼくは好きです。主人公の波瀾万丈な人生に感情移入して、笑って泣けるもの。読み終わって、「ああ面白かったなあ」と言えるもの。

ただそれは、言ってしまえば、マンガでもドラマでも映画でも代用可能なものなわけです。別に小説じゃなくてもいい。では小説にしかできないものはなにか。イラスト化あるいは映像化できないものはなにか。

そう考えた時に、「道化師の蝶」が1つの解答になっていると思うんですね。これは映像化できない面白さのある小説だと思います。

たとえば、「道化師の蝶」には網が印象的に出てきます。「銀色の糸で編まれた小さな袋で、脂の染みて黒光りするボールペンほどの軸に巻きついている」(9ページ)もの。この網で一体どうすると思いますか。

場所は飛行機の中。その網でなにをするかというと、「着想」を捕まえるというんです。飛行機で座っている間、することがないので、みんな色んなことを考えますよね。ほとんどが、くだらない考えばかりでしょうけども、中には素晴らしいアイデアがあるかもしれない。

そのアイデアが浮遊してきた時、捕まえるための網です。「着想」を捕まえられる網。

これは文章で読むとすごく面白いですよね。「着想」はそもそも浮遊するものではないですが、それを捕まえられるというのがユニークです。ビジュアルとしてではなく、文章のトリックとも言うべき面白さがあります。

この網の話や、あらすじを読んで興味を持った方はぜひ読んでみてください。円城塔の初期作品に比べると、設定としては入り込みやすい小説だろうと思います。

作品のあらすじ


『道化師の蝶』には、芥川賞受賞作の「道化師の蝶」と「松ノ枝の記」の2編が収録されています。

「道化師の蝶」

ユニークな献辞があった後、こんな書き出しで始まります。

 旅の間にしか読めない本があるとよい。
 旅の間にも読める本ではつまらない。なにごとにも適した時と場所があるはずであり、どこでも通用するものなどは結局中途半端な紛い物であるにすぎない。(8ページ)


飛行機の中で、〈わたし〉はA.A.エイブラムスと出会います。このエイブラムス氏が「着想」を捕まえる網を持った人です。

飛行機の中でしか読めない本があるべきだという〈わたし〉の「着想」を元に出版した『飛行機の中で読むに限る』が大ヒットします。なぜか船旅用として売れたのですが。

エイブラムス氏はインタビューでこんなことを語ります。

「あれは一九七四年、スイスに向かう機内でした。顔を煽いでいた帽子の中に、蝶が一匹飛び込んだのに気づいたのです」
「飛行機の中に蝶がいたのですか」
 エイブラムス氏は憤然として、
「あなたはわたしの話を完全に勘違いしている。わたしは着想の話をしている。その蝶は帽子をすり抜けましたよ。この世のものではないという明白な証拠だ。それと同時に、見えているのだから物質なのです。実在しているものなのです」(20ページ)


エイブラムス氏が、その場所でしか読めない本のアイデアを得たところが描かれると、次の章では、今まで書かれてきたことは、「希代の多言語作家、友幸友幸の小説『猫の下で読むに限る』からのほぼ全訳」(23ページ)であることが分かります。

無活用ラテン語(ラティーノ・シネ・フレクシオーネ)で記された小説。つまり、ここで書かれていることは、現実に起こったことなのか、そうでないのかは曖昧なわけです。この翻訳家も〈わたし〉として書かれます。

A.A.エイブラムスは実在するらしく、その配下が友幸友幸の小説の原稿を見つけたらしいことが分かります。謎に満ちた友幸友幸について書かれていくと、また章が変わり、「フェズの刺繍」を習うまた別の〈わたし〉の話になります。

場所を転々としながら、昼は手芸を習い、言葉を少しずつ獲得し、夜は聞いたことを文字にする〈わたし〉。自分で話を作るのではなく、耳にしたことを書き続けます。

そして、「そのお話の只中で、わたしは不意に機上にある」(52ページ)ことに〈わたし〉は気づき、通路の向こう側で2人の女性が網について話をしているのを眺めます。友幸友幸の小説とシチュエーションが似ていますよね。

「その網が捕まるのは幸運ではなく、その網が捕まえたものが幸運となる」(53ページ)そんな網の話。それを聞いて、〈わたし〉はこんな風に考えます。

 今はもうすっかり忘れてしまったが、かつてわたしはそんな網を編んだことがあるに違いない。少し違ってあの網は、わたしが将来編むことになる網だと気づく。(53ページ)


とまああらすじの紹介はこの辺りにしておきますけども、こんな風に何人かの〈わたし〉という1人称で描かれていく、友幸友幸の原稿と「発想」を捕らえる網、そして「道化師の蝶」をめぐる物語です。

客観的なスタンスで描かれていないだけに、どこからどこまでが現実に起こったことなのか分からない、複雑な構造になっています。物語内物語が続いていく感じです。

どこがどうなっているのか考えながら分析的に読んでもよいと思いますけれど、この小説はおそらく、ただその分からなさを楽しめばいい小説です。

友幸友幸やその原稿についてのユニークさや、網が作られることとか、そういうどんどん奇妙にずれていく「着想」をめぐる話を面白いなあと思えばいいだろうと。

どの部分がどこに嵌るというような、パズルのような構造にはなっていません。物語は円環構造(最初と最後が円のように繋がっているような感じです)のように見えますけれど、最初の話は実は小説なわけですよね。

友幸友幸の原稿をめぐる現実(と思われる)世界と、友幸友幸の小説内世界とが奇妙にリンクしているとも言えるんですが、どれが現実かすら定かではないわけですから、整合性のある小説として読むよりは、奇妙なずれとか煙に巻く感じのユニークさを楽しめればよいと思います。

ただ、中心になるのはやはり「道化師の蝶」です。友幸友幸という作家はどこまで探しても見つからないわけで、そもそも友幸友幸という作家は存在しないとさえ言えます。

作家がいて作品があるということではなく、ある種の「着想」、つまりアイデアそれ自体を描いた小説なのだろうと思います。

「松ノ枝の記」

こちらも面白い小説です。発想がとにかくユニークです。

〈わたし〉と彼は、お互いの小説を翻訳しあうんですが、段々適当な翻訳というか、もう翻訳自体が創作みたいな感じになっていくんです。やがて2人の間に決定的な変化が起こります。

 三冊目で箍は緩んだ。彼が翻訳したのは、わたしの訳した『松ノ枝の記』であったから。タイトルを、『A Branch of the Pine Branches』と彼はした。『松ノ枝ノ枝の記』とでもなるだろうか。そこでは松ノ枝家が、松ノ枝家が、松ノ枝ノ枝家へと変貌していた。自作の翻訳を翻訳しかえし、そこでは元々分家たちのものだったお話が、ひとつの分家のお話へと重ね描かれた。偶然と呼ぶか必然としておくべきか、わたしも同時にひっそりと、彼による一冊目の翻訳を翻訳し返す作業を進めていたのは言うまでもない。(98~99ページ)


もうそうなると、自分がこれから書くはずの小説を先に書かれるのではないかということになって、彼は疑心暗鬼になり、原稿を送ってこなくなるんです。そこで〈わたし〉は彼に会いに行くことになります。そして・・・。

とまあそんなお話です。本自体をネタにしたものとか、文章が書かれるとはどういうことかをネタにした小説は、本好きであればあるほど面白くて、なんだかにやにやしながら読んでしまいました。

「道化師の蝶」も「松ノ枝の記」も、どこか文章に静謐さを感じる小説だと思います。円城塔が理系の作家であるというイメージが、そこに重なりあっていることもありますけれど、数式を読んでいるような、そんな乾いた印象があります。

ただ、静謐さがあるから無味乾燥な感じかと言えば、そうではありません。ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』の魅力にも近いものがあります。

鏡の国のアリス (新潮文庫)/ルイス キャロル

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その静謐な文章の中に、発想のユニークさや、ユーモラスさがあるんですね。物語性は強くないですが、頭で感じる面白さがあります。あらすじを読んで興味を持った方は、ぜひ読んでみてください。

いわゆる純文学とは一線を画している作品だろうと思います。SF畑から領域を広げたという点で、安部公房のような作家に成長する可能性があります。今後の作品が楽しみな作家ですね。

近々、安部公房も取り上げる予定なので、お楽しみに。

おすすめの関連作品


リンクとして、小説を1冊紹介します。

シコ・ブアルキの『ブダペスト』がおすすめです。

ブダペスト/シコ・ブアルキ

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「道化師の蝶」が面白くて、「こういう感じのをもっと読んでみたいなあ」という方には、自信を持っておすすめできます。ブラジルのミュージシャンが書いた小説で、ゴーストライターを描いた物語です。これもなんだかへんてこで面白い小説なんですよ。

あとはイタロ・カルヴィーノあたりも、文章が文章であることによる面白さを追求している作家なので、共通点があって面白いと思います。

明日は、アガサ・クリスティーの『オリエント急行の殺人』を紹介する予定です。