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フランツ・カフカ/クリスタ・ヴォルフ(池内紀/中込啓子訳)『失踪者/カッサンドラ』(河出書房新社)を読みました。池澤夏樹個人編集=世界文学全集の中の1冊で、ぼくが読むのは8冊目。
この巻は結構きつい巻でした。カフカの「失踪者」はまあともかく、ヴォルフの「カッサンドラ」がかなり読みづらいです。
会話文すらない硬質な文体のせいもあるんですが、それよりなにより、内容が結構難しいです。トロイア戦争を違った観点から捉えなおした小説なので、トロイア戦争の知識がある程度必須です。
たとえばですよ、昔話の「桃太郎」は誰もが知っている話だと思いますが、あれを鬼側の目線で描いたらまた新しい物語になりますよね。愉快に楽しく暮らしていたら、動物を連れた変なやつが突然現れて暴れまわったとか。
あるいはキジの立場から書くとかも面白そうです。そうすると、ベースは「桃太郎」の話と同じで、描かれる出来事も同じだけれど、その出来事が意味する内容としては微妙に違うものが描けたりもするわけです。
ヴォルフの「カッサンドラ」もトロイア戦争をカッサンドラという予言者の目から捉えなおした小説です。アキレウスのキャラクターなんかが結構新しい観点で書かれています。
なので、ベースとなるトロイア戦争の知識がないとどこがどう原典と違うのか分からないですし、この小説だけでストーリーを追うのはかなりきついです。トロイア戦争に関してはあとでまたちょっと書きます。
作品のあらすじ
カフカの「失踪者」
カフカの小説は、カフカが亡くなった後、友人のマックス・ブロートによって発表されたものが多いんですが、この「失踪者」も以前は「アメリカ」というタイトルで出版されていました。
ぼくも中井正文訳 の『アメリカ』を読んだことがあります。角川文庫に入ってます。
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マックス・ブロートの編集のものは、マックス・ブロートの手が加えられているということで、もう一度カフカの原稿を確認しなおした全集や、あるいはもう原稿そのもののコピーが出版されるなど、カフカの原稿をめぐる状況はなかなか複雑なものがあります。
なにしろ作者がこれが決定稿といって出版したものではないので、どう編集して本にするかが大変なんですね。日本の宮澤賢治にも似たような状況があったりもします。
カフカの「失踪者」は未完の小説です。もう露骨に未完です。カフカの他の作品は未完と言ってもそれほど気にならなかったりするんですが、「失踪者」はどうなんでしょう。少なくとも、カフカを初めて読む人にはむかないと思います。
『訴訟』(『審判』と同じ)や『城』を読んでカフカの小説の感じがつかめた人が読むと、設定などがより一層楽しめて、面白い小説です。
「失踪者」は、こんな書き出しで始まります。
女中に誘惑され、その女中に子供ができてしまった。そこで十七歳のカール・ロスマンは貧しい両親の手でアメリカへやられた。速度を落としてニューヨーク港に入っていく船の甲板に立ち、おりから急に輝きはじめた陽光をあびながら、彼はじっと自由の女神像を見つめていた。剣をもった女神が、やおら腕を胸もとにかざしたような気がした。像のまわりに爽やかな風が吹いていた。(5ページ)
物語の主人公はアメリカで生活することになったカールという青年。船ではトランクがなくなったり、火夫をめぐるいざこざに巻き込まれたりしますが、伯父さんである上院議員と会って、伯父さんの元で生活することになります。
英語を習ったり、乗馬学校に通ったりして過ごしますが、なんだか理不尽なことから、伯父さんの元を出ていかなければならないハメになります。そしてうろうろして宿に泊まると、同室の2人組の男たちと知り合いになります。
アイルランド人のロビンソンとフランス人のドラマルシュ。カールはこの2人と一緒に仕事を探すことになります。この2人もなんだか少しへんてこな感じです。いいやつなんだか悪いやつなんだか。
カールはたまたまホテル・オクシデンタルというホテルの調理主任をしている女性に気に入られて、ホテルで雇ってもらえることになります。2人組を振り切るようにして、エレベーター・ボーイとして働き出すカール。
すべてが順風満帆に行くように見えた時、ホテルに酒に酔ったロビンソンが金をせびりにやって来たことから、事態は思わぬ方向に動きはじめ・・・。
とまあそんなお話です。伯父さんの家を出ていかなければならなかったいきさつや、ホテル・オクシデンタルでの出来事など、カフカの〈不条理〉の世界がとてもユニークに展開されます。
カフカの〈不条理〉は、奇想天外な出来事が起こるのではなく、自分とは噛み合わない論理、不思議なルールに巻き込まれてしまう感じなんです。たとえば海外旅行に行ったら、ぼくらは税関でパスポートを見せますよね。
もしそこでパスポートを奪われてしまったら、ぼくらは途方に暮れることでしょう。ぼくらにとってそれは理不尽なことで、なにかおかしいことが起こっていると言えますが、向こうには向こうのなんらかのルールがあってそうしているのかもしれない。
絶対的に強いのは向こうであって、こちらはなす術もなく立ちすくむしかない。そんな状況がカフカの不条理の世界です。幻想的なことが起こるわけではなく、自分とは価値観の違うシステムとの対立が描かれているんです。
物語の後半で、ブルネルダという女性が出てきます。このブルネルダという存在が結構ユニークで面白いんですよ。残念ながらブルネルダの挿話が膨らむ前に物語は終わってしまっていますが。
カフカは面白い作家なので、みなさんもぜひ読んでみてください。ちなみにぼくが一番好きなのは、『城』です。
ヴォルフ「カッサンドラ」
クリスタ・ヴォルフという作家は初めて知りました。自分の知識のなさを言い訳するわけではないんですが、実は日本ではドイツ語圏の作家はあまり読まれていないような気もします。
いまだにゲーテ、ヘッセ、カフカぐらいなのではないでしょうか。トーマス・マンも名前は有名ですが、実際に読んでいる人は少ないだろうと思います。ぼくも『魔の山』で何回遭難したことやら。
海外の小説を読む場合に、たとえばドイツ文学だとすると、ドイツ文学史で重要な作品を読むというよりも、まず翻訳があるかないかが重要になってきます。そして文庫化されているかどうかも大きいです。
もっとはっきり言ってしまうと、ぼくらはドイツ文学史全体を見通しているというよりも、岩波文庫や新潮文庫、光文社古典新訳文庫に収録されているものしか読んでいないというのが現状だろうと思います。
もうちょっと広い視野を持たなきゃなあと反省したりもした今日この頃。まあそんなことはどうでもいいことなのでした。ヴォルフに話を戻します。
訳者の中込啓子の解説によると、ヴォルフは、ナチス政権のドイツ時代に幼少期を過ごし、東西に分かれたドイツの東ドイツで暮らし、やがてはドイツが再統一するという、そういう時代の大きな変化を体験した作家らしいんです。
詳しくはその解説を参照してもらいたいんですが、要するにヴォルフは非常に政治的なものを抱え込んだ作家だということです。ぼくは「カッサンドラ」を単なる物語として読みましたが、そうではなくて、もう少し政治的な読みが必要な小説のような気もします。
つまり、トロイア戦争をカッサンドラの目から再び語り直すことによって、ヴォルフがどんな政治的メッセージを発していたのか、そういったところをドイツの歴史と重ね合わせて見ていくとよいのだろうと思います。
徐々に「カッサンドラ」の内容に入っていきますが、まずはトロイア戦争について。一番楽に知識を得るなら、『トロイ』が最適なんだろうと思います。
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ただ、『トロイ』というのは、神話的な要素をなくして普通の戦争ものになっている上に、ホメロスの『イーリアス』を原典とするなら、登場人物の最後など、違うところが結構あります。
おまけに映画自体がそれほどよいものかどうかもちょっと微妙なんですが、キャラクターと全体の流れを把握するにはよいだろうと思います。
あと本でおすすめなのが、まさにこの『トロイ』の映画にあわせて復刊された、トマス・ブルフィンチの『ギリシア・ローマ神話』(上下)です。
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読み物としてはやや固いですが、簡潔にまとまっていて、とてもよいと思います。値段もそれほど高くないので、手元にあると便利ですよ。索引があるのもいいですし、読書案内もかなり参考になります。
この本を参考にしながら、トロイア戦争について少し書きます。
みなさんシュリーマンはご存知ですか。シュリーマンというのは色々な意味で面白い人で、子供の頃に聞いたトロイア戦争の物語を本当だと信じて、本当に遺跡を発掘してしまった人です。
それでトロイア戦争が単なる神話なのではなく、ある程度歴史的な事実に基づいていたのだと分かりました。夢を追いかけたということだけではなく、数多くの語学を学んだという点でもシュリーマンはすごいです。まっ、発掘方法とか、色々批判は寄せられてますけどね。
「トロイア戦争って全然聞いたことないから困ったなあ」という方でも、〈トロイの木馬〉というのはなんとなく聞いたことがあるのでは? なんかコンピューターウィルスとかでもありましたね。
ギリシア軍がトロイアの城を攻めてるんですが、全然落ちないので、巨大な木馬を作ってそれを置いて去っていくんです。トロイアの人々がやれやれ戦争が終わったと出ていって、木馬を「なんだろうなあ?」と思って見上げます。
それを神さまへの捧げ物だと言う人がいて、町の中へ運んでどんちゃん騒ぎをします。すると夜になると木馬の中からギリシア軍の兵士たちが出て来て・・・。
少し話を変えます。アキレス腱というのはみなさんご存知ですよね。なぜアキレス腱と言うかというと、アキレウスという不死身の英雄に由来しているんです。
アキレウスの母親が息子が不死身になるように川につけるんですけど、足首をもってつけてしまったんです。殴られようがなにされようが無敵なアキレウスなんですが、アキレス腱の部分だけが弱点なんです。
弱点があるということは、それはもう前フリみたいなものなんですが、それは置いておくとしまして。
そのアキレウスが活躍するのが、トロイア戦争です。少しは興味を持ってもらえたでしょうか。ちなみに『トロイ』ではブラッド・ピットが演じています。
トロイア戦争がなぜ始まったかも書きましょう。
3人の女神が誰が一番美しいかを争います。アテーナーとへーラーとアプロディーテー。美しい羊飼いのパリスがそれを決めることになって、女神はそれぞれ自分を選んでくれたら、こんなことをしてあげると言います。
一番美しい女性を妻にしてあげると言ったアプロディーテーをパリスは選びます。
この美しい女性というのが、ギリシアの国の王妃のヘレネーだったから大変です。パリスはヘレネーをトロイアに連れていきます。そこでギリシア軍はヘレネーを取り戻すためにトロイアを攻めはじめると、そういうわけです。
そこにパリスに選ばれなかった女神や神々のなんやかやが重なりあって、もう大変な戦争になります。ちなみに、この辺りを描いた叙事詩がホメロスの『イーリアス』です。
『イーリアス』などでは、オデュッセウスやアキレウスなど英雄たちが中心となって描かれるのに対し、「カッサンドラ」はカッサンドラの目線で描かれます。
カッサンドラはトロイアの姫で、戦争の原因を作ったパリスの妹です。実は羊飼いのパリスは、トロイアの王子だったんです。トロイアを滅ぼすという予言があったので、捨てられたんですね。正確に言うと、殺すように命じられた人が殺さずに捨てたんですけど。
カッサンドラは、すぐれた予言者なんですが、アポローンという神とちょっとごたごたがあって、誰もその予言を信じないようにされてしまいました。これが深いところです。未来が見えて、それをみんなに教えているのに、誰も信じてくれないという・・・。
こんな書き出しで物語は始まります。
ここだったのだ。ここにあの女は立っていた。今は頭が欠けているこの二頭の獅子の石像が、あの女を見つめていた。かつては難攻不落を誇ったこの城塞が、今では瓦礫の山と化している。これが、あの女が見た最後のものだった。忘れ去られて久しい敵と、幾世紀もの歳月、そして太陽や風雨がこの城塞を取り毀してしまった。悠久不変に、空は濃青色のかたまりとなって、はるかな高みにある。間近には、巨岩をキュクロプス式に嵌め込んだ城壁が、きのうもきょうも変わることなく、道なりにつづいている。獅子門のほうへと。その門の下から、血があふれ出てくることなどはない。暗闇の中へと。殺戮の場へと。しかも、たったひとりで。
この物語を語りながら、わたしは死へと赴いてゆく。(331ページ)
まあ全編がこんな感じの文章で分かりづらかったりもするんですが、カッサンドラの意識の中にトロイア戦争すべてが内包されていると見てよいと思います。
カッサンドラから見たトロイア戦争がどのように描かれるのかに注目してもらいたいんですが、トロイア戦争について書かれた本を手元に参照しながらでないと、「カッサンドラ」だけでは分からない部分が多いです。
文体、内容ともに難易度が高い小説ですが、興味を持った方は読んでみてください。
池澤夏樹個人編集=世界文学全集は次、アジェンデの『精霊たちの家』に入っています。
明日は、三上延の『ビブリア古書堂の事件手帖』を紹介する予定です。