志賀直哉『暗夜行路』 | 文学どうでしょう

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暗夜行路 (新潮文庫)/志賀 直哉

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志賀直哉『暗夜行路』(新潮文庫)を読みました。

志賀直哉はみなさんご存知でしょうか。〈小説の神様〉と呼ばれていた人です。「城の崎にて」がぼくの時代は国語の教科書に入っていました。わりと短編の評価が高い作家で、長編はこの『暗夜行路』しかありません。

大学時代、ぼくは横光利一という作家を研究していたんですが、横光利一の初期の短編は志賀直哉の影響をかなり受けていまして、それに関連して志賀直哉も相当読みこんだ覚えがあります。

〈小説の神様〉というのは、志賀直哉の短編小説「小僧の神様」からきた呼び名で、文章のうまさがかなり名高い作家です。ところが志賀直哉の文章はいわゆる名文ではないんです。名文というのは時に技巧を凝らしすぎるきらいがあって、いわば塗りたくりすぎた化粧のような感じです。

たしかにきれいで美しくはなるけれど、化粧を落とした素の顔が美しければ、そちらの方が人に与える印象が強かったりもしますよね。

志賀直哉の文章は削り落とした美学のようなことが言われています。推敲といって原稿の手直しをする作業があるんですが、普通の人はあれもこれも書きたいといって増えるんです。ところが、志賀直哉はどんどん削っていって、原稿が減ったという逸話があります。

『暗夜行路』の新潮文庫の解説にも書いてありますが、志賀直哉の文章についての夏目漱石と芥川龍之介のやりとりなんかも有名ですし、「焚火」という短編についての文学論争も非常に興味深いです。それらについてはまた触れる機会もあると思うので、今日は触れずにどんどん進みます。

ここで気になるのは志賀直哉の文章が、今なおそうした素晴らしいものかどうか、という問題です。〈小説の神様〉なんぼのもんじゃい! という人はぜひ短編集からでもいいので読んでもらいたいと思いますが、正直なところ、今読んで素晴らしさを感じられるかは微妙なところです。

文章は明治の文語文に比べれば随分読みやすいですが、現在の小説に比べるとやはり読みづらいです。全体的な印象としては、がっちりしっかりしたものが残る文体です。短く余計なものは省いた簡素かつ力強い文体。

これは志賀直哉に限らず昔の小説によくある傾向ですが、文末が「ーーた」で終わるのが続くために、「た」「た」「た」と続くその文章の変なリズムの余韻が残ってしまうんです。そうすると、現在の読者としては、文章の美しさなど到底感じられないことになります。

夏目漱石は自分にはああいう文章は書けない、ということを言っているらしいのですが、そうした夏目漱石と志賀直哉の文章の相違すら現在の読者には分かりづらいように思います。むしろよく似ているように感じてしまう。

外面的には似ているようにぼくも思います。両者とも短く簡素かつ力強い文体。では志賀直哉の文章のなにがそれほど絶賛されていたのか。ここから先はぼく自身が感じたことではないので、あくまでも方向性だけ示すという形になりますが、おそらくは文章の内面的なものと言うべきものです。

より分かりやすく言うと、がっちりした文体が外面的なものであるとすれば、なにを書くかという内容が内面的なものです。つまりある種のイメージをとらえ、それを文章に収める、物事を見る目やそのイメージのとらえ方が非常に優れていた作家であったと。小林秀雄がそうした評を書いているらしいので、その内詳しく調べてみます。

そうした志賀直哉の文章の素晴らしさをぼくは今いち感じられませんでしたが、興味のある方はそうしたところを意識しながら読んでみるとよいと思います。

物語は前篇と後篇に分かれています。前篇と後篇にはある大きな爆弾とも言える出来事がそれぞれ隠されていて、かなりショッキングな内容です。どちらの出来事も対になるというか重なり合って響くような構造になっていて、主人公の時任謙作、そして読者の胸に重苦しいものが残ります。

そう、『暗夜行路』は楽しい話ではないんです。ぼくは自分で言うのもなんですが、ロマンチストというかやわらかい心臓を持っているので、こうした倫理的テーマで心臓をぎゅっとやられるともうダメなんですよ。架空世界の話ではなくて、現実世界の体験のように思い悩んでしまいます。ある種のトラウマ本です。

ぼくは『暗夜行路』を読むのはおそらく3回目くらいですが、前篇の爆弾はなんとなく覚えてましたが、後篇の爆弾はすっかり忘れていて、出てきた時は本当にあわわ! と慌てふためきました。青ざめました。なんだか嫌な汗が出てきました。

これだけショッキングな内容を忘れるはずがないので、あまりにもショッキングすぎて、平穏な生活を取り戻すためにぼくの脳が記憶から消し去ったんじゃないかと思ったくらいです。いや多分単なる記憶力のなさですけど(笑)。

みなさんにもぜひその衝撃を味わってもらいたいので、具体的な内容には触れませんが、前篇はともかく、後篇に起こる出来事、そしてそこから浮かび上がってくるテーマは、現代でも問われ続けているテーマです。自分が時任謙作の立場だったらどうするか。ぼくだったらあれですね、さよなら、さよなら、さよなら、ですね。

あ、そうそう古典的作品にありがちなんですが、ぼくがここで爆弾と言っている2つの出来事について、新潮文庫の裏表紙にさらりと書いてあるんです。いや本当に理解に苦しむんですけど、絶対知らないで読んだ方がいいですよ。

気になった方はもう本屋さんに行って、目をつぶるようにして買って、もうカバーを取っちゃって読むとよいと思います。図書館の場合はもう目をつぶってブックカバーをつけちゃいましょう。

作品のあらすじ


物語の主人公は時任謙作という小説家です。この頃の小説家というのは、今とちょっと違って、もう少し書くものと生活が密着している感じです。つまり、本を読んだり、物事を考えたり、友達同士で議論したりするのも仕事の内、みたいなところがあります。

「序詞」という短い章では、時任謙作の〈私〉という視点で物語が描かれます。祖父の所に引き取られたこと。祖父の家にはお栄という若い女性がいたこと。これは祖父の愛人らしいんですね。父親と相撲をとって泣いた話。父親との確執の萌芽が見て取れます。

父子の対立というのは、志賀直哉の小説の大きなテーマなんです。

前篇に入ると、謙作という3人称の形式になります。友達と一緒に芸者の所に行ったりするなど、謙作の生活が描かれます。やがて謙作は奥さんが欲しいと思います。ざっくり言うと、前篇は奥さんを探す話です。

奥さんにしたい娘がいるんですが、なかなかうまくいかない。別の女性との結婚も考えますが、そちらもなかなかうまくいかないんです。やがてその大きな理由が明らかになります。これが第一の爆弾。謙作はショックを受けますが、それを受け止め、人生に立ち向かっていこうとします。

後篇も奥さんを探す話が続きます。その辺りどういう展開をするのかは実際に読んでみてください。謙作は結婚します。この2人がなかなかいいんですね。奥さんは本を読まない人なんですが、それでも読もうと思う。謙作は読まなくていいと言う。その方が仕事がしやすいと言うんです。

2人の関係は微笑ましい感じです。特に夜道で手を握る場面。あれ夜道だったっけな。まあともかく謙作は奥さんと一体になったと感じるんです。

ある悲しい出来事が起こるんです。こどもにまつわる出来事。幸せな夫婦生活に翳りが見えます。ちょっとぎこちない関係になる。謙作は旅に出ます。そして家に帰るとちょっと嫌な状況になっている。そこからまたもう1つの大きな爆弾が出てきます。こちらはかなりショッキングです。

謙作は思い悩みます。自分では自分の感情を処理したと思う。ところが鉄道での場面など、発作的に癇癪を起こしてしまうことがあります。時任謙作は元々が短気な人間でとても大きな器とは言えませんが、それでもその鬱屈した感情はすごく共感できます。

そうなるともう仏教やキリスト教で仏や神を求めていくのと同じで、自分の感情と戦いながら、道を求めていく感じなんです。迷いや感情を捨てると楽になれる。でもどうしても我が出てくる。そうした悩みです。ここは相当面白いですね。面白いというと楽しそうですが、深く、苦しく、考えさせられながらも心揺さぶられる感じです。

苦しむ謙作の前に現れたものとは? 美しい文章として名高い風景描写の場面も出てきます。そして謙作の出した答えとは?

とまあそんな話です。ちょっとなにが書いてあるか分からない部分が多いかとは思いますが、その分実際に読んだ時に楽しめると思うので、こんなもんで勘弁してください。

奥さんを探す話、そして家族の話です。前半から中盤にかけては、まあ面白いんじゃないの? くらいのぼんやりしたテンションで読んでいられますが、後半はもうかなりやられます。ページをめくる手が震えます。それでもページをめくらずにはいられない。

〈小説の神様〉と言われた人の唯一の長編小説。文学史的に知っているだけで、読まずにすますのもいいですけれど、折角なのでぜひ読んでみてください。重いテーマを孕んでますが、相当引き込まれますよ。タイトルもすごくいいじゃないですか。『暗夜行路』ですよ。いいです。

ぜひ背表紙は見ずに、内容をあまり知らずに読んでみてください。

和解』という中編も読み終わってるんですが、思ったよりも遅くなってしまったので、そちらの記事は明日の昼間にでも書きますね。