『虚無の構造』・気分について | くらえもんの気ままに独り言

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 解散総選挙も始まったばかりではございますが、情勢調査によれば与党の圧勝で終わるのはほぼ確実な見通しのようですね(;^_^A


 この報道を見て、自民に投票しようと思ってた方たちが面倒くさくなって投票棄権したりしませんかね?


 まぁ、選挙関連の話はこれくらいにしておいて、今回は西部邁氏の『虚無の構造』の感想&まとめシリーズを久しぶりに書きたいと思います。(第1回から2か月も開いてしまい、申し訳ございません(><;))


前回までのまとめはコチラ

『虚無の構造』

虚無についてhttp://ameblo.jp/claemonstar/entry-11929732472.html


第一章『気分について』

―頽落の精神

Ⅰ.ニヒリズムの自己増殖


 本章は「気分」についての話のようです。いかなる論理や理屈感情や気分といったもののもとに構成されております。


 え?論理や理屈に感情や気分とかが入り込む余地があるのかって?


 論理や理屈を組み立てるための前提や方向性を決めるには感情や気分といったものが必要になりますからね。理屈を理屈だけで説明するのは無理です(;^_^A


 この気分というものが自分の精神の内側にあるものだということは感覚的に分かるかと思いますが、これまた流動的で掴まえるのが非情に難しいものです。


 しかし、この気分の動きを捉え、「時代の気分」とでもよぶべきものを読み解こうとする努力をしないことには、無意識のうちに「気分」の流れに翻弄されてしまうことになってしまいます。


 もちろん現代における「時代の気分」とは「自覚されざるニヒリズム」という厄介なものでございます。なんといっても自覚されていませんからね。ニヒリズムはどんどん増殖されていきますし、ニヒリズムに精神を汚染されてしまいますと、気分なるものも虚無化してしまいます。


 これを放置してしまったら廃人のいっちょあがりですね(;´Д`)


Ⅱ.「気遣い」の衰弱


 人間と道具とのかかわりにおいて、その道具の本来性というか実在に対する問いかけ(気遣い)が弱くなってくることは、自分の在り方というものも見失ってしまうことにつながってしまいます。


 たぶんここで言う道具はいわゆる道具の他、言葉だったり、お金だったり、色んなもの指すのだと思いますが、その存在への気遣いを忘れてしまうと、ニヒリズムに汚染されていきそうです。


 と言いましても、人間は堕落する方に堕落する方に流れていきますからね(;^_^A


 また、印象的だったのが、人間は「多忙」であることをもって「生の充実」とみなしているが、自己への問いを忘れた「平均的日常性」への逃避であり、それは本来的な人間ではなくなってしまうというところ。確かに「多忙」=「充実」と勘違いしている人は多そうですね。しかし、それでは人間とは呼べない者に成り下がってしまいます。ゆっくりと自己への問いかけをする余裕がないと人間は人間たりえないということなのかもしれません。


 西部先生は「気遣い」については「実在への問い」「解釈への歩み」「氏への決意」「良心(伝統)への聴従」と意味で使われており、いわゆる「配慮」とは区別されている点に注意が必要です。


 ハイデッガーや坂口安吾の思想をもとに西部先生は積極的ニヒリズムについて以下のようにまとめました。


 1.消極的ニヒリズム(堕落)から逃れられないことを承知せよ

 2.ニヒリズムに浸りきることもできないと察知せよ

 3.ニヒリズムからの脱出という積極的な企てを準備せよ


 堕落するけど、堕落しきれないから、なんとか堕落から抜け出せ・・・ということでしょうかね。


 だが、問題は堕落しているという自覚がないところか・・・。


Ⅲ.人間の事物化


 「道具」といえば、人間と世界のかかわりに対して意識するということをしますが、「事物」といってしまったら、そこにあるだけのモノです。だから、気遣いもそこには存在しません。


 気遣いを忘れたヒトは「世人」と呼ばれます。


 世人同士の付き合いは単なるメカニズムで技術的なものに過ぎませんから、そこに配慮があっても気遣いはありません。そして技術的配慮で相互に結びついているため「孤独」を自覚することはありません。そもそも「孤独」というものを理解できないでしょう。


 ちなみに「孤独」とは「実在への問い」他者と共有でき得ぬものであり、かつ答えに決してたどり着けないということを知って初めて理解できるわけです。そして、孤独を知る人は他の孤独な人に人間の本来性を感じることで、人間たりえることができるわけです。


 言うまでもなく「世人」はニヒリストです。オルテガの言うところの大衆です。


 世人で埋め尽くされた社会となってしまえば、人間は間違いなく世人となってしまうでしょう。


 技術が発達して「道具」が「事物」とみなされるようになってくると、その一方で人々の大衆化はどんどん進みやすくなっていくのでしょうね。


 本来的な人間でない人間は生の充実を実感できない。そして、退屈に苦しんでしまう。だからこそ、非本来的な次元での多忙に逃げているのだろうと。


 「自分が、家族から国家に至るまでの社会的機制のなかで、本来的には必要とされていないのだと、物心ついた時から感じさせられ考えさせられたりした人間が退屈から無縁でおれるだろうか。(P49)」


 逆に自分が本来的に必要とされていると感じることができれば、充実した生を送ることも可能なのでしょうか。大衆社会が大衆を産み出すとはよく言ったものです。


 退屈から逃げるために人々は多忙へ、しかしそれでも退屈さをぬぐいとることはできず欲望へと走る。


 しかも、この退屈とやらは本来性への問いかけを心掛けている人々をも容赦なく襲い、ニヒリズムで汚染しまくっていくのだからタチが悪い。問いかけの最中にも「つまらない」という感情に否応なくたどりついてしまいがちになるのです。


 さて、どうしたもんか・・・。


Ⅳ.孤独の封殺


 実在への問いを主体的に発しているのはもちろ自分でしかありえません。というわけで、自分というものは孤独なものなのです。実在への問いを他者と共有できるわけがないですからね。


 孤独を知ると、自分の心理に今の自分とは違う自分がいる可能性を読みとることができ、他者について自分の分身とも思えてくるようになります。これは他者に対する気遣いにもつながってきます。(ユング氏が「私とはここにいるみなさんです」と言ったエピソードに近いものを感じますね。)


 西部先生の言いたいことは、世界とのかかわりに問いを差し向け続ける事ができる、頽落しきっていない人間は、孤独の感覚を持って言動するのが他者に対する最低限の礼儀作法だということのようです。


 現代社会においては個人主義が幅を利かせてきておりますが、孤立を恐れた人々は逆に群をなそうとして、本来的な問いを放棄しがちになります。LINEやツイッターetc.なんかで過剰に人々同士がつながりあいたがるのは、他者への気遣いを忘れた孤独を知らない人間が増えてきたということなのかもしれません。


 そして、この孤立者の集合体少数の孤独者の「問い」封殺し、滅ぼしていきます


 人間存在の本来性は「死に関わる存在」として「無」「不安」というものに対する気遣いを要しますが、世人はそれを忘却してしまおうとした結果、生が硬直し、退廃していったのです。


 充実した生を送るために実在への問いかけ(気遣い)が必要なのに、そこには堕落の誘惑がたくさん。堕落は避けられないが、堕落しきれないのも人間(人間でなければ堕落しきれるかもですが)。そこで、なんとか堕落から抜け出したいところだが、孤独であることを自覚し、気遣いを忘れないようにしなければならない。しかし、大量の世人がそれを邪魔してくる・・・ってのが今回のまとめになりましょうか(;^_^A


自分とはなんなのか、世界とは何なのか、この世界に必要な存在と思うことができるか、答えは出ないけどじっくり考える習慣をつけてみましょう。



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