『虚無の構造』・虚無について | くらえもんの気ままに独り言

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 本日より、西部邁氏の『虚無の構造』(中公文庫)のまとめ&感想を不定期でお送りする予定でございます(全9回予定)。本書の原著は1999年に出版されまして、近年文庫化されました。(私が読んだのは文庫版の方です。)


 簡単に言うとニヒリズム(虚無主義)についてと、ニヒリズムへの対処法について書かれた本なのですが、ニーチェの言うところのニヒリズムと西部先生によるニヒリズムの解釈は厳密には違いますので、同じものだと思って読むと少々混乱するかもしれません。あくまでも本書の内容は本書の内容ということで、ニーチェの解説書か何かと勘違いしないようにしたいところです(;^_^A


 それでは、さっそくまとめていきたいと思います。

 『知性の構造』シリーズと同様、個人的なまとめに主眼が置かれた構成になりますので、一部読者の皆様には分かりにくいところもあるかもしれませんが、そこのところはご容赦くださいませ。


序章『虚無について』

―自覚されざる自己喪失


Ⅰ.不気味な訪問者


 もちろん、この不気味な訪問者とは「ニヒリズム」のことですね。「ニヒリズム」の提唱者はニーチェでございますが、ニーチェの時代だけでなく今の世でも遠い昔でも人の心に憑りつき、苦しめているのがニヒリズムということなのでしょう。


 ニヒリズム、それはすなわち虚無ということです。


 ありとあらゆるものがこの虚無というものに蝕まれていっているというのです。


 「現代は虚無の時代」と呼ばれることもありますが、すでに自分がニヒリズムに冒されているということをまずは自覚しなければなりませn。逆に言えば、自分がニヒリズムに冒されていると自覚していない者の言説はすべて空虚なものと言っても過言ではないのです。


 自意識とは「自分は何者か」と問う意識のことですが、この問いは無限に続き終わることがありません。いや、この問いを終わらせる方法が一つだけ・・・。それは「みずからの死」のみなのです。そう・・・もし、自分の存在というものから目を離してしまうと、そのスキをついてニヒリズムはあなたを憑り殺してしまうことでしょう。ニヒリズムと対峙するには自分は何者かという不安を抱え続ける覚悟が必要なのかもしれませんね。


Ⅱ.「実在」を示せない不安


 自分とは何者かという不安は科学の発達によって打ち消せることができるのか?


 自然科学ならともかく(それでも100%の客観性は保証されないが)、特に社会科学の分野においては「象徴によって象徴を解釈する」という循環からは逃れることができず、科学の発達をもってしても不安を打ち消すことはできなさそうです。


 さて、結局は不安から逃げることはできないのですが、心理的葛藤を封じ込めるもっとも簡単なやり方が「忘却」とのこと。これに成功した状態のことを「阿呆の状態」と呼ぶようです。(またの名を「大衆」とか「世人」と呼んだりもする)


 範型化されきった感じ方、考え方、言い方、行い方というものに、科学技術が発達するほど堕ちていってしまうということもあり、むしろ科学というものは、より不安を悪化させるものなのかもしれません。

 

 真理相対主義、それは真理とは見方によって様々だとか、相対的なもので絶対的なものはないという考え方ですが、ある見解とある見解を比較する際には絶対的な基準が必要なわけです。したがって、真理相対主義者は他者との比較は行いません。あるのは自己の意見の絶対視のみです。


 真理相対主義者はニヒリストであり、エゴイストなのですが、真理相対主義者の唯一のよりどころである「自己」とは何か?自己を絶対視するものであればあるほど、きっと自分の中には何もないことに気づくでしょう。


Ⅲ.「当為」を語れない不幸


 「当為」とは当(まさ)に為すべきことですが、これについても多様な価値観の優劣を決めれない価値相対主義というものがあり、これがニヒリズムの病状をより悪化させるのです。


 人間とはさまざまな不確実性の中で何らかの選択をし続けて生きていかなければなりません。この際、よりよいと思われるものを選択するようにできているものです。物の見方によって多様な価値が存在すると考えてしまうと、何かを選択する際に何もできなくなってしまう、つまり、生きることがかなわなくなってしまいます。よって、価値相対主義者が生きていくためには自分の価値観を絶対視し、他者の価値観を無視し続けるしかないのです。


 しかし、実際にはその価値観は世論の価値観と同一視することによって生きていくことになるのが常であります。なので、世論が変わると自分の価値観も変わるというように、どんどん「自己」が喪失するハメになってしまうのです。


 現代のニヒリストは都合の悪い記憶を「忘却」によって封印し、そのくせ政治的に行動することで精神を安定させようとする。そして、専門家の連中は世論に迎合した理論をもってきて社会に影響を与えようとする。均衡財政主義者なんてのもそんな感じなのでしょうね。


 相対主義者は価値の優劣を決めるための絶対的な判断の基準を持たない。ということは、つまり自分の意見を批判されるのが絶対に嫌ということなのかもしれないですね。そうであればこそ、自分の意見が褒められるために他者を褒めるということもあるのかもしれません(他者の意見に関心はないくせに)。


Ⅳ.「ニヒリスト」を名乗れない苦痛


 ニヒリストとはあらゆる権威を、人物であれ制度であれ理論であれ、認めようとはしない人間のことだとのこと。


 ニーチェの場合はニヒリズムとは消極的ニヒリズムと積極的ニヒリズムとがあり、後者のニヒリズムは支持するという立場でありますが、西部先生の考えでは日本では積極的ニヒリズムは成長しにくいし、そもそもニヒリズムの根本は消極的ニヒリズムにあると考えておられます。積極的ニヒリズムに到達するにしても、まず消極的ニヒリズムが先行して到来すると。


 消極的ニヒリズムが根本である理由として、認識という作業において生じる意見はすべて仮説である(つまり、自己との結びつきが確定しない)こと、あるいは認識という作業自体が物事を客観視するようなもので、やはり自己との距離感が発生してしまうからであるとのこと。これを回避するためには同じように自己との距離感や疎遠感というものを共有した他者とコミュニケーションをはかることが重要です。


 しかし、現代においてはその距離感や疎遠感を払拭するために他所とかかわり合うような場やルール(習慣や伝統含む)といったものが失われつつあり、砂粒化してしまった個人がそれを背負い込まなくてはなりません。しかも、ヒューマニズム礼賛の流れが言葉を理想主義の方向で組み立てることを強制し、生きた表現をする場やルールも破壊されていっております。


 そして、自己というものがニヒリズムによって消し去られたのにもかかわらず、そのことに自覚せずに自己について語ったりしているという不幸・・・。自己のアイデンティティとは伝統と自己を同一化する「求め方」と考えることができますが、それをずっと求め続けようとしなければ、個性というものの根拠はなくなり、残ったのは単に自分の欲望のみとなるでしょう。


 結局、過去の偉人たちはニヒリズムと戦い続け、そして敗北し続けてきた歴史があるわけですが、現代人はニヒリズムの存在すら認知することができず、ニヒリズムにいいように侵蝕されまくっているというわけですね


「我々は、「実在」について想うことを忘れ、「当為」について考えることを禁句とし、さらに「虚無」について語ることをやめたのである。(P32)」


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虚無の構造 (中公文庫) 西部邁 著

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