『アフター・モダニティ』・その1 | くらえもんの気ままに独り言

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 今回取り上げますのは、叢書新文明学シリーズの第2弾で先崎彰容氏と浜崎洋介氏の共著でございます、『アフター・モダニティ―近代日本の思想と批評』(北樹出版)でございます。


 様々な問題を孕んでいる「近代日本」ですが、その「近代日本」とはいかなるものであったのかということを、前半では先崎氏が明治中期~後期にかけて中江兆民、北村透谷、石川啄木らにスポットを当てながら紡ぎ出し、後半では浜崎氏が昭和初期、中でも小林秀雄にスポットを当て導き出そうとしております。


 というわけで、感想に入っていきたいと思うのですが、まだまだ本書は読み終わっておりませんので、今回は第Ⅰ部の前半部分についてまとめてみたいと思います。


第Ⅰ部「矛盾(ジレンマ)時代への処方箋―現代社会、ロマン主義、明治日本」(先崎彰容)


第1章 近代日本という迷宮へ


 近代日本とは何か?


 この問題を紐解くために先崎氏は「ロマン主義」という補助線を用いてみたようです。


 ロマン主義なるものは古典主義への違和感から誕生したものであり、個性の主張や規則・ルール・因果律の否定などが特徴のようです。つまり、「絶対的自我」を最重要視するような考え方というわけですね。ニ十世紀のポストモダン思想と結構類似性が見られる考え方のようですね。


 そのくせ、自分に責任をもつ自信がないため、他人に依存し、他人の意見に流されやすくなってしまうとのこと。なんとなく大衆とかニヒリストとかと言い換えてもよさそうな気もしますが、根っこのところは同じような感じでしょうか。熱狂的安倍信者なども似たようなものでしょうかね。


 彼らは自分の居場所を否定し、結びつきを拒否し、自我だけを求めた結果、そこには何もなく宙ぶらりんの状態となってしまったということなのでしょう。バラバラだからこそ「つながり」を求めたがるというのも全体主義に通じる話のようですね。


 先崎氏曰く、自分の存在の不安定さに対する不安から、やってくる刺激にひたすら飛びつき続ける性質を持つ一方で、不安から解放されるために死への憧れをも抱えているとのこと。ロマン主義者は「刺激」と「自閉」の矛盾を抱え込んだ存在だということです。


 それでは、政治におけるロマン主義とはどのようなものになるのでしょうか?


 ロマン主義者は刺激が大好きなので他者との会話も大好きです。でも、彼らは物事を判断するための基準というものを持ち合わせていません(棄ててきたので)。物事を判断する能力のない人たちの議論は永遠に終わりません(議論と呼べるかどうかも怪しいですが)。あれやこれやと単なるおしゃべりに終始してしまうのがオチとなってしまいます。


 このように単なるおしゃべりの連続でその時その時の流れや刺激に飛びついて行くかたちで政治が行われていようなことを「政治的ロマン主義」と言います。自分の発言に責任は持たない、何かの決定はすべて他者任せというような、政治ですね(-"-;A


 一方「ロマン主義的政治」は「政治的ロマン主義」とは逆に、自分の正義のために他者をテロリズムでもって殺戮することをもいとわない政治になります。外からの刺激に過剰に反応してしまうというわけですね。両者とも不安を抱えているところは共通なのですが、一方が他者任せにしてしまうのに対し、一方は他者を滅ぼすことで不安を解決しようということでしょうか。


 いずれにしても、ロマン主義は死と隣り合わせの両極端な性質を同時に抱え込む代物であり、またそういう時代であるということです。


 そして、この矛盾は現代社会にも同様に問題をもたらしています。


 原発反対デモにしろ、戦後レジーム脱却うんぬんにしろ、朝日新聞廃刊運動にしろ、何らかの「敵」を設定し、全体主義的機運を高めようとしている様はまさに「ロマン主義的政治」チックな感じですね。


 このロマン主義という矛盾を抱え込んできた近代日本ですが、この矛盾から目を背け、豊かさのみを追求してきたところに問題がありそうです。このあたりは中野剛志氏と佐藤健志氏の『国家のツジツマ』でも似たような議論の展開がされていたように感じます。


『国家のツジツマ』・その3

http://ameblo.jp/claemonstar/entry-11805948419.html


 明治維新以降、西洋化・近代化への違和感・抵抗、そして日本のアイデンティティの危機、これがロマン主義が日本を取り巻いていく土壌を形成していったようですね。


 西洋でも東洋でもない近代日本。外向・内向に引き裂かれてしまった近代日本。


 この矛盾の存在を自覚していた明治の数名の人物にスポットを当てることで、近代日本とは何であるかを先崎氏は紐解いていくことにしたようです。


第2章 中江兆民―東洋のルソーと『社会契約論』


 中江兆民と言えばルソーの『社会契約論』を翻訳したことで知られていますが、激情型の性格であった一方で、実は思想までもが過激だったわけではないようです。


 明治維新という劇的な変化の最中、経済においても政治においても急激な変化が人々を襲い、これは結構やばいんじゃないかと中江兆民は危機感を抱いていたようですね。特に無限の欲望と拡張をもたらす自由主義経済にはかなり警戒していたと。


 確かにこの危機感はその後の歴史を振り返ると正しかったのではないかと思われます。(現代も同様の危機に直面しているわけではありますが・・・。)


 中江兆民がヨーロッパ(特にフランス)から学んだこと。人々は自由をもとめてフランス革命を起こしたはずが、殺戮に次ぐ殺戮の末、しまいにはナポレオンという一人の英雄を待望し、自ら自由を放棄したと。つまり、砂粒化してしまったがゆえに過剰な「つながり」を求めるに至ったということでしょうか。


 どうやら、明治の当時にも英雄待望論はあったようですが、中江兆民はこれを警戒していたようです。


 この英雄待望論の原因は過激な封建精神空虚感によるものではないかと兆民は分析したわけですね。某カリスマ兵団や安倍信者も似たような精神性なのでしょうか。明治期から問題となっていたものは現代でもなお問題ということなのかもしれませんね。


 兆民は「昔なつかし」の人たちへの暴徒化・過激化を批判する一方で、「新しずき」の人たちの現実を直視しない理想主義的な所も批判。両者とも過激に特効薬を求めようとするのですが、実は近代日本が抱える問題を解決する特効薬などないということを兆民は知っていたのでした。


 つまり、兆民は反自由主義ではありましたが、革命主義者ではなかったわけです。


 兆民の答えはやはり、歴史が築きあげてきた「良習慣」、つまり「伝統」にあったようです。『知性の構造』において西部邁氏が言っていたように、過剰を避け平衡を維持しようとするには「伝統」に思いを馳せることが大事になってくるのではないでしょうか。少なくとも自分の主観的な正義感のみがもたらすものは「不安」ということになってくるのではないかと思います。


 さて、中江兆民以後、時代はさらに混沌としていき、ロマン主義的なものが現れ始めてくるのですが、その話については次回というわけで(;^_^A。


 近代日本とは何ぞや?ということが気になる方は是非ご一読ください。


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