信仰と教科書 | 秋山のブログ

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菅原氏のコメントで、経済学における大きな問題を示唆する発言があったので、これを取り上げてみたい。

 

『事実をまとめたのが、教科書です。教科書が言っているではなく、単なる事実をまとめたものが教科書です。その単なる事実をあなたが必死に否定するのは、どうしてですか?』

 

教科書に載っていることが事実とは限らないことは、本来言うまでもないことだ。それは学問の進歩で事実だったことが事実でなくなることを指すのではない。教科書は新しいことをこれから学ぶ人間のための教材であるから、例えば条件が変わることによって成立しなくなったりするような細かい話が省略されたりしていることもあるだろう。広く網羅する必要性から、意見が分かれるような内容から、事実であることが明らかでないような内容まで載っているだろう。すなわち教科書の内容というのは、広く浅いもので、(言葉の定義のようなもの以外は)ルールではなく、体系的な基礎をつけるための道具である。必ずしも正しくない可能性を常に意識しながら、利用すべきものであるはずだ。

 

事実と呼べるものは、莫大な観察や、様々な実験によって、強固に確認されたもののみである。しかもその確認は、昔の経済学者が物価と失業率を因果関係だとしたフィリップス曲線のような、いい加減な因果推論に基づくものではいけない。なかなかハードルが高いものである。しかしそうでないものは、常に間違っている可能性を考慮しながら考えなくてはならないのである。

エビデンス重視の考え方は、医学では一昔前流行し定着した。経済学では最近その傾向は強まっている。しかし経済学におけるエビデンスは全く少ない状況である。エビデンスだらけというか、エビデンスがないことがないくらいの物理学とは全く異なることは理解しておかなければならない。(蛇足だが、医学においてはエビデンスはどんどん作られているが、山程疾患や薬等々があるため、追いつくことはないだろう。従って今後も様々な事実、理論から構造を推測し考えることは重要である)

 

教科書はプロパガンダに利用されることもある。歴史の教科書を見れば、それは言うまでもないだろう(某国は言うに及ばず、日本の教科書に関してもである)。経済学の教科書に悪意が紛れ込まないと考えるならば、それはどこぞのカルト宗教と同じだ。そもそも経済学は、アダム・スミス以前の時代から、政策決定に関わる主張を強化するために利用されてきた。一部のものの利益のために、今見れば正しくない政策も採用されてきた。その性質上、経済学を悪用しようとする人間は多い。多くの経済学者が善意により研究をしていたとしても、紛れ込まされた悪意のある理論を見破れなければ、間違った政策の後押しをすることになるだろう。

 

経済学の教科書における悪い例をあげるとすれば、マンキューの教科書に載っている十大原理などがそうだろう。この十大原理は、経済学において覚えるべき概念を内包しており、経済を理解する上で役に立つそれらを理解するためだと善意に捉えることも可能ではあるが、実際のところ細かい条件が省略されていたり、正確でなかったり、むしろ誤りであるものもある。これを大原理として学んだ学生は、それを事実としてそのまま無条件に当てはめてしまう可能性が高いし、実際によく見かけるところである。

 

教科書を聖書かコーランのように扱ってはならない。いや、聖書やコーランだって、とにかく原理原則を守るという立場の人間が、世界中に災厄をばら撒いているのではないか。それらの書からエッセンスを読み取り、現実の生活の役に立つように活用することこそが重要であるはずだ。(蛇足だが、そういった視点のイスラム教は決して悪いものではない)

経済学は本来、人々を幸福にするための学問のはずである。経済学の知識がなければ正しい経済政策かどうか判断することもできないだろう。経済学の教科書に関してすべきことは、そこに書いてある文章を事実として理解記憶することでなく、そこからエッセンスを学び取り、経済に関して考察できるようになることである。