文教祖のいとこ文龍基氏の証言「京城商工実務学校入学は1936年」 | ちゃぬの裏韓国日記

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■やはり文鮮明教組がソウル留学(京城商工実務学校入学)したのは1936年だった


文氏の路程について 投稿者:モーリス 投稿日:2003/05/10(Sat) 06:23 No.2767

文氏の路程について

なにせ離教して相当程度年月が過ぎておりますので、これからの論議が的外れになるかもしれないことをお断りしておきます。また、何回かに分けてアップすることになることも。文氏の路程については、特に1960年代以前は直接的な根拠資料が乏しいのでなかなか難しい面があることはご承知いただけると思います。これを反対に言うと「何でも言える」になるのですが・・・。
疑問の始まりは幾つかあり簡単ではありませんが、まず「文氏はいつ日本に来たのか。」があります。
まず、ネット上で見られる文氏の路程(協会側)や手元にある協会関係の資料から文氏の初期の学歴を見ますと、
・13歳まで書堂で勉学され、1934年五山普通学校3学年に編入、1年間修学。1938年3月25日定州公立普通学校卒業(Tsurugai氏のページ)
・1933年雲龍学院へ通う。1934年4月雲龍学院から私立五山普通学校3学年に編入。1935年4月五山普通学校から定州公立普通学校に(4学年)に転校。1938年3月定州公立普通学校卒業。(「聖地定州」)
となっています。

1978年10月4日に発行された「統一教会史」上巻でも1934年春平北定州にある私立五山普通学校3年に編入、1935年4月定州公立尋常小学校4学年に転学、1938年3月小学校に卒業、となっています。
多分今もこれでしょう、変わっているでしょうか。

何が疑問かといいますと、今私の手元に「第2次朝鮮教育令(大正11年勅令第19号」があります。これは大正11年(1922年)2月6日に公布され昭和13年(1938年)4月1日の第3次朝鮮教育令公布まで、その当時の朝鮮における学校制度の根幹を定めたものですから、文氏もこれに該当します。その第3条では「国語ヲ常用セサル者ニ普通教育ヲ為ス学校ハ普通学校、高等普通学校及女子高等普通学校トス」、その第5条1には「普通学校ノ修業年限ハ六年トス但土地ノ情況ニ依リ五年又ハ四年ト為スコトヲ得」、5条2には「普通学校ニ入学スルコトヲ得ル者ハ年齢六年以上ノ者トス」となっています。

つまり初等教育は、今の日本の小学校制度に近かったといっても良いでしょう。そうなると、普通の朝鮮の人が6歳から入学して12歳で卒業する過程を、確かに13歳まで書堂で勉強していたという事情はあったにせよ、非常に優秀な生徒であったとされる文氏が18歳で卒業したということになります。「少し遅すぎるのではないか」と思えても不思議ではないでしょう。
実はこの後の路程と関連してくるのですが、日本統一協会の資料でも創設期の資料(「歩みこられし主の道」「地と汗と涙」)では小学校の卒業には触れていませんが、文氏の日本への出発を1939年としており、18歳小学校課程卒業では学制上それは無理でしょう。
創成期以後70年代中盤からの統一協会では大体上記のような主の路程になってきているのです。「後から分かってきたのだから1938年卒業ではないか」と考えられる方もおいでになるのでしょうが、もうひとつの論拠があります。しかも文氏の身内からの証言です。
統一協会機関誌ファミリーの1988年4月号から6月号までに文龍基氏による文鮮明氏の路程の証が掲載されています。彼は文鮮明氏の父親(文慶裕氏)の兄弟(慶裕氏は長男、文龍基氏の父親、文慶福氏は次男)の息子で、文鮮明氏には従弟にあたる人です。また、彼の父親が早く亡くなっていたので、文龍基氏は文鮮明氏の父親のもとで育っています。

彼の言葉によると「私の父は早く亡くなったので、私は文先生のお父様であられる伯父様のもとで育ちました。食事もいつも慶裕伯父様のお宅でしていました。だから、文先生の御家族とは私の物、あなたの物という区別した生活はしていなかったのです。慶裕伯父様のもとで子として育ったのです。」ということになっています。つまり生活を共にしていたわけなのです。
また、この証は1987年8月7日に大阪で行われたものですが、その際「1987年春 文先生が韓国に帰ってこられた時、幹部の方々の前で{故郷の話は彼に聞きなさい}と私の方を示しておっしゃったので、こうして招待を受け皆様の前でお話しすることになりました。」とのことで、いわば文鮮明氏のお墨付きがついた話にもなるわけです。
そして彼はこの時期について「六歳になられて書道(同時に漢文)を勉強されました。13歳にして初めて小学校にお入りになられたのです。お年もそうですけれども、とても勉強ができ3ヶ月で1年を修了し、3ヶ月で2年を修了されたのです。そのようにして3年間学んで15歳で小学校を終えられたのです。字を書いても先生は大変上手ですし、勉強もできますからどんどん成績を上げてしまうのです。小学校を卒業なされて16歳の時に、ソウルにある中学校の電気科で勉強されました。」と証言しています。

なお、掲載されている彼の話は巷にある路程とは違う内容を示していますので、興味のある方は読まれたらと思います。
これだけではなく、学制上の観点からも合わないのではないかと思われる面がでてきますが、それは次の機会にします。

http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Kaigan/8586/kakorogu3.html

1974年1月26日日本語訳版「主の路程」では
1936年4月17日 イエスから啓示
1939年 啓示を受けて日本留学

となっている



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