イエスは胎中聖別されたユダの血統から生まれた?(2) | ちゃぬの裏韓国日記

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(統一教会=世界平和統一家庭連合)

「イエスは胎中聖別されたユダの血統から生まれた?(1)」で、文教祖がみ言葉で「イエスはユダ族の血統から誕生する」と語っていたことに対して、ザカリヤはユダ族ではなくレビ族であると書きました。

では、文教祖がレビ族をみ言葉でどのように語っているかみてみましょう。

■文教祖の「レビ族」に関してのみ言葉

『このように公的に生きる人間は、神様が守って下さるのです。レビ族には取り分がありませんでした。ありましたか? 祭司長たちには取り分がありましたか? ユダヤの国の土地は半砂漠地帯ですから、取り分までなかったらどんなに心細いでしょう。この国の民謡を聞いてみると、みんな身悶えして、仕方なく神を呼び求める内容なのです。悲嘆にくれ、光を失った節まわしですよ。そのままでいい土地でもあれば希望もあるのですが、土地といえば全部が半砂漠地帯であって、羊一匹育てられない荒れ地なのです。そんな所で取り分もなく生きるのですから、どんなに心細いでしょうか? しかしながら彼らは、神の為に生きたのです。』
(心情と公的生活1970年8月11日トンミョン旅館)

レビ族が治める教会の祭壇の前に、11支派は全部10分の1献金を捧げなければなりません。これからは10分の1献金を捧げなければ教会員ではありません。もともとは10分の3献金を捧げなければなりません。一つは自分の国のために、一つは世界のために、一つは教会のためにです。10分の3献金を捧げなければなりません。』
(礼節と儀式 第3章礼拝と教会生活礼節1976年2月22日)

『それは、特定な祭司長によってやるのではありません。それは方向性の道を行く時のヤコブの二番目の子供であるレビ族であり、それは移動のときには必要だけれども、定着した場合には自由に方向を分かたなければなりません。だから皆が、レビ族性を固める基準をもたなければ、生きた祭壇を構えて、そのまま歩くことができません。そうしないと四方八方からサタンが攻撃します。実体祭物があるからです。そう考えてみた場合、統一教会は一体、なんでしょう。祭壇の歴史からみた場合には、実体祭壇を構えなければなりませんんそれはイスラエル民族が帰る時のレビみたいに、方向性をもつ、そういう時代です。ちゃんと祭壇を構えた周囲に十二弟子を固めて、そして実体とともに全てを捧げるような準備をするのでなければなりません。だから条件物である祭物を捧げた場合には、神の条件物の祭物期間を通さなければ、その勝利圏は生まれてきません。』
(我々の今後の活動1978年9月23日松濤本部)

『だから、将来他人の世話を受けないためには、生活していくことにおいて全部が自立できなければなりません。昔と違うのです。イスラエル民族の十二支派のレビ族は、全部が十一条(註・十分の一献金)をもらって生活しましたが、それは今まで神が選んだ民族を聖別するための歴史だったからです。しかし、今や選ばれた民族が生活できる歴史とするためには、経済問題を解決できなければなりません。分かりました? ですから、ここに参席した君たちは特別責任が重いのです。』
(祝福家庭子女修練会でのみ言葉1984年7月10日ベルベディア)

『今日、復帰路程にある私たちは、二つの国に対する立場です。そうではありませんか? 今、天の国もなければならないし……。サタン世界の国を脱け出す過程においては、二つの国の立場にいるので、私たちはこの二つの世界を脱け出すことができないので、韓国の民として生まれたならば、この国の前に税金をささげます。そうでしょう? この国に税金をささげ、その次には、天に十一条を出します。十一条というものは、自分の国のためにささげるものではありません。それは、祭司長、レビ族のために、祭司長の職分をする人々のために、天の数として出すのです。』
(牧会者の道「十一条」より)

『このようにして、私たちがある基準をなして、この民族が私たちによって、天の前に立てられるようになる時に、イスラエル十二支派は、ユダヤ民族は、このレビ族が正しくなせるか、なせないかによって、その民族の興亡が左右されたというのです。祭司長たちが腐敗すれば、その国も滅びるのです。祭司長が忠誠を尽くせば、その国も栄えるというのです。過去の歴史がそうだったというのです。』
(牧会者の道「現代の祭司長、責任者の行く道」より)

『地域長、地区長とは何かといえば、祭司長です。祭司長は、どの一族から出たのかといえば、レビ一族から出ました。それでは、レビ族は、イスラエル民族がカナンの地に復帰された時、どのようになりましたか? レビ族が分け前を受けましたか、受けませんでしたか? 皆さん答えてみなさい。カナンの地に復帰したあと、十二支派に分かれた時、分け前にあずかりましたか、あずかりませんでしたか?それも分かりませんか?(あずかりませんでした)。レビ支派は、分け前にあずかることができませんでした。レビ族は、祭司長一族であるので……。祭司長一族は、カインたちが食べさせ、生活させなければならないのです。分かりますか?』
(牧会者の道「レビ族の祭司長の行く道」より)

レビ族には、取り分はなかったのです。「月給が二万五千ウォンだ、三万ウォンだ、五万ウォンだ……。私は月給をもらわなくては……」このような思いを抱く牧会者の、その教会は滅びるのです。そのような宗教は、しまいには、サタンの祭物になってしまうのです。ですから、先生にお金があって、使ったあと残ったといっても、皆さんにあげては駄目だということです。分かりますか?』
(牧会者の道「祭司長の祭物精神」より)

『モーセの母はどんな血統かといえば、レビ族の血統です。レビ族は、神に特別仕えた血統で、神の祭司長の子孫だというのです。旧約時代の祭司長は、神の仕事を引き受けながら子女を生んで後孫を繁殖させ、代を継いで天の仕事をするようにしました。そのような良い血統をもち「水から引き出した」という意味の名前をもったモーセでした。「水から引き出した」ということは、一方ではモーセだけ引き出したのではなく、すべての人を水から引き出すことを意味します。』
(李耀翰著「信仰生活シリーズ3」)

上記はレビ族に関するみ言葉のすべてですが、み言葉を見てみるとレビ族と祭司長ザカリヤの関係は一切語られていません。文教祖は、ザカリヤがユダ族だと本当に信じていたのでしょうか?



■もしイエスがザカリヤの血統ならばモーセと同じ祭司レビ族の血統?

※幕屋信仰はモーセの時に始まる

<聖書の中のレビ族>
モーセ
アロン(モーセの兄)
ナダブ(アロンの長男)
アビフ(アロンの次男)
エルアザル(アロンの三男)
イタマル(アロンの四男)
エリ
サムエル・・・

※モーセは原理講論では、イエスの雛形(象徴的路程)で「イエスは、神が、既にモーセを立てて見せてくださった表示路程を、そのまま歩まれているということを言われたのである。ゆえにモーセは、次に来られるイエスの模擬者となるのである」と書かれていますが、血統的関連性は書かれていません。

※ちなみに祭司長は「アロンの家系」から選出されます。



■レビ族は12支族とは別の祭祀担当

文教祖はみ言葉の中でレビ族が12支族の中の一つだと誤解をしているようですが、レビ族は祭祀担当として抜けて12支族と別に独立した支族でした。

<出エジプト12支族>
ルベン(母レア)  ⇒①ルベン
シメオン(母レア) ⇒②シメオン
レビ(母レア)   ⇒祭祀担当 
ユダ(母レア)   ⇒③ユダ族 
ダン(母ビルハ)  ⇒④ダン族 
ナフタリ(母ビルハ)⇒⑤ ナフタリ
ガド(母ジルハ)  ⇒⑥ガド族 
アシェル(母ジルハ)⇒⑦アシェル 
イッサカル(母レア)⇒⑧イッサカル 
ゼブルン(母レア) ⇒⑨ゼブルン 
ヨセフ(母ラケル) ⇒⑩マナセ、⑪エフライム    
ベニヤミン(母ラケル)⇒⑫ベニヤミン族
 
『レビ族が治める教会の祭壇の前に(他の)11支派は』『イスラエル民族の十二支派のレビ族は』などと語っているところをみると語った当時はレビ族が12支族の中の一つだと思っていたようです。
文教祖は聖書が真っ赤になるくらい研究したらしいですが、このレビ族の話を持ってきたのは単に教会長や牧会者、教会員に10分の1献金や所有権放棄の内容を話すために持ち出したもので、イエスやザカリヤの血統とは関係ありません。



■教会長・牧会者・教会員は所有権も存在意識も持つな!

レビ族の話が出たのでついでに私がコメントに書いたものを再掲します。み言葉でユダヤ民族の祭祀担当のレビ族の話を出しているのは、教会長・牧会者に対して語られています。

<牧会者は祭物>

統一教会で牧会者(教会長)は教会にとってアベル、つまり文教祖に近い存在で、その方たちは文教祖にどのように教育されているかを「牧会者の道」のみ言葉を見ると

①牧会者は祭物(犠牲をものなう)
②祭物なので所有権がない
②祭物なので存在意識があってはいけない

ロボットになるしかないですね。
下記のみ言葉にもあるように「存在意識」を無くせ、教会に不満を持つ時点で天の反逆者と言われれば、上の命令に「絶対服従」するしかありません。教会長といえど組織の人間ですから、上司の命令、つまりアベル中のアベル=お父様の命令は絶対聞かなければ「死」を意味するわけです。「心」があってはいけない、主張があってはいけないという教育を受けた人(特に韓国人)がアベルだということです。そうすると、そのアベルもカインに「そうなれ」と教育するでしょう。その連鎖が永遠に続きます。


<牧会者の存在意識についてのみ言葉>

⇒悪い牧会者

『自分を主張したり、存在意識をもったりすれば、天の反逆者になるのです。』

『祭司長(牧会者)の責任は祭物になることですが、祭物になった者は、存在意識と所有観念をもってはいけません。お金が少し入れば、「このお金で私に必要なものを買わなければならない。私に鏡がないので、良い鏡を一つ買わなければならない。ブラウスが着たい。ワンピースが着たい。あのツーピースを一度買って着てみたならいいだろうに」という、こんなくだらない考えをしている婦人たちはみんな反省しなければなりません。』
(牧会者への道P75より)


⇒転じて「真の牧会者とは」

『順応と不平を考えて見たとき、真のものと接することのできるものは、不平ではなく順応だということを皆さんは知らなければなりません。驕慢と犠牲がぶつかるようになるとき、驕慢が主体になるのではなく、犠牲が主体として残るしかないことを、皆さんは知らなければなりません。強制と従順がぶつかり合うとき、どちらが主体として残るようになるかといえば、強制は退いて、従順が残るというのです。これを皆さんは知らなければならないのです。聖書が教えてくれた犠牲であるとか、柔和と謙遜だとか、従順であるとか、服従であるとかいう言葉は、たやすく、一つになり得る、新たな群れをして、新しい革命のための重要な提示であり、重要な信条であり、重要な綱領であるということを私たちはここで主張することができます。』
(牧会者への道P95より)


上記のように教会は「絶対服従信仰」=不平を言わず従順な人だけが生き残れる組織です。
しかしよく考えると、日本人的気質は元来「従順」に慣れています。いわゆる「君臣一体」思想があるわけですから、この「牧会者への道」というみ言葉はやはり韓国人向けなのかもしれません。

たとえば
●韓国人は社長になったとたん威張りだす。下を虐げる。
●日本人は社長のほうが社員より苦労している。腰が低い。

そういう民族性・国民性の違いもあるのに、もともと従順な日本人に「もっと従順になれ!」といったらどうなるでしょう。
それに、日本人は外見より中身を重視します。これは韓国人と真逆です。つまり日本人は位置よりその人の人格や、精神性のほうに頭を下げるのです。
この感覚は、韓国人にはよくわからない感覚だそうです。