2007年 枯れ紅葉の京都
27 愛人生活と新しい愛人と捨てられた愛人生活 -10
(祇王寺を訪れたので、『平家物語』「祇王」に脱線中。やっと最終回なり。)
さて、仏御前(ホトケゴゼン)が加わって、祇王(ギオウ)、祇王の妹祇女(ギニョ)、母刀自(トジ)との4人、この世の恨みも嘆きも忘れて、祇王寺で一緒に念仏三昧の生活をして、念願の往生を遂げたらしい。
四人(シニン)一所にこもりゐて、朝夕仏前に花香(ハナコウ)をそなへ、余念なくねがひければ、遅速こそありけれ、講堂(ゴウドウ)の過去帳にも、「祇王、祇女、仏、とぢらが尊霊(ソンリョウ)」と、四人一所に入れられけり。あはれなりし事どもなり。
と、『平家物語』「祇王」の章は締めくくられている。
嵯峨野の山腹にある祇王寺で、女4人、念仏に専念して暮らし、早く死んだ者、遅く死んだ者、死期の違いはあるものの、皆それぞれに極楽往生した。死者の名前や死亡年月日などを記しておく「過去帳」にも、4人が一所に記されている(現在するとのこと)
と、証言するようにこの章は終わっているのだ。(=◇=;)
さて、ここでや~~~~~っと最初の疑問に行き着いた。
祇王寺で4人一所に念仏三昧の生活をし、亡くなり、過去帳にまで一所に記載されているにも関わらず、祇王寺に仏御前の墓だけがないのはなぜか?
彼女たちを自殺したいほどに苦しめた男、平清盛の供養塔が彼らの墓にちょこねんと並んで建てられているのは、な~ぜ~?
(↑祇王寺にある祇王、祇女、刀自の墓[左]と清盛の供養塔[右])
これほど心許し合って一所に暮らした4人なら、墓だって一所にありそうなものでしょ?
仏御前が最後に死んだから、彼女を看取ってやる人もおらず、墓も残してやる人もいなかったということだろうか?
仏御前は先に亡くなった3人の墓を建てて供養しながら過ごした後、最後1人でこと切れて、そのまま1人、身も腐り、虫やら鳥やら獣たちやらがそれを食べ、あるいは風化し、骨だけ祇王寺のどこかにまばらに埋もれていたというのだろうか?
腑に落ちないなぁ……と思って読み始めた「祇王」だったが、
数冊、本に目を通しているうちに、
仏御前は後年、生き伸びて、ふるさと加賀で白拍子をしていたのを見たものがいるとかいないとか……という後日談を見つけた。
(注:本を図書館に返してしまったので、出典がわからず、明記できません。あしからず。(^_^;))
その信憑性は定かではないが、それなら仏御前の墓が祇王寺に並んでいなかったのも頷ける。('-'*)(,_,*)('-'*)(,_,*)
一番若い祇王だけ最後に生き残って、祇王の母刀自、祇王、そして祇王の妹祇女を葬ると、清盛さえ恨まない心の仏御前が、清盛の供養塔を祇王たちの墓の横に建てたとしても不思議はない。('-'*)(,_,*)('-'*)(,_,*)
しかし、ここでまた新たな疑問が湧く。
仏御前はなぜ最期まで祇王寺で念仏三昧を貫かなかったのか?
折角出家して心の安寧を得ていたのに、なぜ、憐れな白拍子の身分に戻っていったのか?
そして、もう一つ、「一向宗」を調べていて、「一向一揆」まで覗いてみると、まず「加賀の一向一揆」が出てきた。仏御前―加賀の出身―加賀の一向一揆、一向宗―歌念仏、踊り念仏―歌い舞う白拍子
……この繋がり、偶然だろうか?(-_☆)
さらに、もう一つ、祇王を調べていたら、祇王が清盛に愛されている頃、何か望みはないか? と聞かれ、祇王は治水の悪さでふるさとの人々が苦労しているからという理由で、ふるさとに灌漑工事をさせている。それは「祇王水道」とか名づけられているらしい。
(注:この本も図書館に返してしまったので、出典を明記できません。あしからず。f^_^;)
それに、「一向宗」は、治水を得意としたということが、その特徴として挙げられている。
白拍子祇王の水道と一向宗の治水
……これも繋がらない?(-_☆)
平家物語の原文には、祇王が清盛に水道を作るよう頼んで作らせたという話は全く入っていない。
だから、この水道の話はどこまで本当か、よくわからない。( ・(ェ)・)
が、
事実かもしれないし、
事実でないとしたら、
「治水を白拍子祇王がしてくれた」と人々に思わせる意図が誰かにあったことは確かだろう。(-_☆)
白拍子―歌、踊り―身分制度反対、性差別反対―民を救う治水―権力に対抗して、人々が一丸となって頑張る
……繋がってるんじゃない?(-_☆)
それと、仏によって救われるという徹底したスタイル。
祇王は結局、仏御前が尼になって出家してきたから、仏御前に対してくすぶりつづけていた理不尽な恨みが晴れたのである。つまり、祇王は仏御前=仏によって救われたのだ。
清盛はというと、仏御前が初めて屋敷を訪れてきたとき、「祇王があらん所へは、神ともいへ仏ともいへ、かなふまじきぞ。」と言ってはねつけている。
神も仏も恐れぬ傲慢ぶりをぶりぶりさせて、結局、仏御前に逃げられている。
これは清盛が仏に見放されたということを暗示して見せてもいるのではないか? 清盛の最期、推して知るべしだろう。(-"-;A
原文を読むほどに、
「念仏に専念しなさい!」
「南無阿弥陀仏で救われる!」
「この世(現世)は空しい!」
「念仏していれば極楽浄土!」
というメッセージがそこかしこに散りばめられている。
最愛の囲われ者から転落した白拍子、己の力ではいかんともしがたい権力に弄ばれた女、あらすじだけ読めばそんな弱い女の栄枯盛衰を描いたかに見える「祇王」。
「祇王」は平清盛の非情さをアピールするために後から挿入された章であるという見方もある。確かに清盛は権力をカサに来た、傲慢で常軌を逸した非道な男として登場している。
しかし、それよりもなによりも、
仏教(特に南無阿弥陀仏の念仏系仏教、特に一向宗)を広めるための作品となっているではないか。(°Д°;≡°Д°;)
あれこれと脱線したが、
祇王寺を訪れたことから、「祇王」を読み始め、祇王寺で極楽往生するまで一緒に念仏三昧に暮らしていたはずの4人のうち、「仏御前の墓」だけがない理由・・・
それは、最後まで生き残った仏御前が、祇王たちを弔った後は、ふるさと加賀に戻ったから。
過去帳には祇王たちと一緒に4人仲良く名前を連ねているのは、尼である仏御前は嵯峨野で祇王たちと一緒に成仏したということにしてもらったから。
そしておそらく、
還俗した仏御前は
ふるさとで白拍子をしながら、
歌と舞い(踊り)で仏の教え、念仏の大切さを広めることに余生を費やした。
ということだろう……と思われる。
うん。
そーに違いないっ!(女の勘!)
ってことで、祇王の章はこれにてオ・シ・マ・イ。
自分で納得したので、これでよしとします。(^^ゞ
祇王の章をこれまで読んでくださった方、長いことお付き合いくださって、ありがとうございました。(。-人-。)
次回から再び京都旅行の日記に戻ります。
あ~、長かったぁ~。(苦笑)
注:原文抜粋は『平家物語一』完訳日本の古典42(小学館)に拠る
(26へ) つづく (28へ)
27 愛人生活と新しい愛人と捨てられた愛人生活 -10
(祇王寺を訪れたので、『平家物語』「祇王」に脱線中。やっと最終回なり。)
さて、仏御前(ホトケゴゼン)が加わって、祇王(ギオウ)、祇王の妹祇女(ギニョ)、母刀自(トジ)との4人、この世の恨みも嘆きも忘れて、祇王寺で一緒に念仏三昧の生活をして、念願の往生を遂げたらしい。
四人(シニン)一所にこもりゐて、朝夕仏前に花香(ハナコウ)をそなへ、余念なくねがひければ、遅速こそありけれ、講堂(ゴウドウ)の過去帳にも、「祇王、祇女、仏、とぢらが尊霊(ソンリョウ)」と、四人一所に入れられけり。あはれなりし事どもなり。
と、『平家物語』「祇王」の章は締めくくられている。
嵯峨野の山腹にある祇王寺で、女4人、念仏に専念して暮らし、早く死んだ者、遅く死んだ者、死期の違いはあるものの、皆それぞれに極楽往生した。死者の名前や死亡年月日などを記しておく「過去帳」にも、4人が一所に記されている(現在するとのこと)
と、証言するようにこの章は終わっているのだ。(=◇=;)
さて、ここでや~~~~~っと最初の疑問に行き着いた。
祇王寺で4人一所に念仏三昧の生活をし、亡くなり、過去帳にまで一所に記載されているにも関わらず、祇王寺に仏御前の墓だけがないのはなぜか?
彼女たちを自殺したいほどに苦しめた男、平清盛の供養塔が彼らの墓にちょこねんと並んで建てられているのは、な~ぜ~?
(↑祇王寺にある祇王、祇女、刀自の墓[左]と清盛の供養塔[右])
これほど心許し合って一所に暮らした4人なら、墓だって一所にありそうなものでしょ?
仏御前が最後に死んだから、彼女を看取ってやる人もおらず、墓も残してやる人もいなかったということだろうか?
仏御前は先に亡くなった3人の墓を建てて供養しながら過ごした後、最後1人でこと切れて、そのまま1人、身も腐り、虫やら鳥やら獣たちやらがそれを食べ、あるいは風化し、骨だけ祇王寺のどこかにまばらに埋もれていたというのだろうか?
腑に落ちないなぁ……と思って読み始めた「祇王」だったが、
数冊、本に目を通しているうちに、
仏御前は後年、生き伸びて、ふるさと加賀で白拍子をしていたのを見たものがいるとかいないとか……という後日談を見つけた。
(注:本を図書館に返してしまったので、出典がわからず、明記できません。あしからず。(^_^;))
その信憑性は定かではないが、それなら仏御前の墓が祇王寺に並んでいなかったのも頷ける。('-'*)(,_,*)('-'*)(,_,*)
一番若い祇王だけ最後に生き残って、祇王の母刀自、祇王、そして祇王の妹祇女を葬ると、清盛さえ恨まない心の仏御前が、清盛の供養塔を祇王たちの墓の横に建てたとしても不思議はない。('-'*)(,_,*)('-'*)(,_,*)
しかし、ここでまた新たな疑問が湧く。
仏御前はなぜ最期まで祇王寺で念仏三昧を貫かなかったのか?
折角出家して心の安寧を得ていたのに、なぜ、憐れな白拍子の身分に戻っていったのか?
そして、もう一つ、「一向宗」を調べていて、「一向一揆」まで覗いてみると、まず「加賀の一向一揆」が出てきた。仏御前―加賀の出身―加賀の一向一揆、一向宗―歌念仏、踊り念仏―歌い舞う白拍子
……この繋がり、偶然だろうか?(-_☆)
さらに、もう一つ、祇王を調べていたら、祇王が清盛に愛されている頃、何か望みはないか? と聞かれ、祇王は治水の悪さでふるさとの人々が苦労しているからという理由で、ふるさとに灌漑工事をさせている。それは「祇王水道」とか名づけられているらしい。
(注:この本も図書館に返してしまったので、出典を明記できません。あしからず。f^_^;)
それに、「一向宗」は、治水を得意としたということが、その特徴として挙げられている。
白拍子祇王の水道と一向宗の治水
……これも繋がらない?(-_☆)
平家物語の原文には、祇王が清盛に水道を作るよう頼んで作らせたという話は全く入っていない。
だから、この水道の話はどこまで本当か、よくわからない。( ・(ェ)・)
が、
事実かもしれないし、
事実でないとしたら、
「治水を白拍子祇王がしてくれた」と人々に思わせる意図が誰かにあったことは確かだろう。(-_☆)
白拍子―歌、踊り―身分制度反対、性差別反対―民を救う治水―権力に対抗して、人々が一丸となって頑張る
……繋がってるんじゃない?(-_☆)
それと、仏によって救われるという徹底したスタイル。
祇王は結局、仏御前が尼になって出家してきたから、仏御前に対してくすぶりつづけていた理不尽な恨みが晴れたのである。つまり、祇王は仏御前=仏によって救われたのだ。
清盛はというと、仏御前が初めて屋敷を訪れてきたとき、「祇王があらん所へは、神ともいへ仏ともいへ、かなふまじきぞ。」と言ってはねつけている。
神も仏も恐れぬ傲慢ぶりをぶりぶりさせて、結局、仏御前に逃げられている。
これは清盛が仏に見放されたということを暗示して見せてもいるのではないか? 清盛の最期、推して知るべしだろう。(-"-;A
原文を読むほどに、
「念仏に専念しなさい!」
「南無阿弥陀仏で救われる!」
「この世(現世)は空しい!」
「念仏していれば極楽浄土!」
というメッセージがそこかしこに散りばめられている。
最愛の囲われ者から転落した白拍子、己の力ではいかんともしがたい権力に弄ばれた女、あらすじだけ読めばそんな弱い女の栄枯盛衰を描いたかに見える「祇王」。
「祇王」は平清盛の非情さをアピールするために後から挿入された章であるという見方もある。確かに清盛は権力をカサに来た、傲慢で常軌を逸した非道な男として登場している。
しかし、それよりもなによりも、
仏教(特に南無阿弥陀仏の念仏系仏教、特に一向宗)を広めるための作品となっているではないか。(°Д°;≡°Д°;)
あれこれと脱線したが、
祇王寺を訪れたことから、「祇王」を読み始め、祇王寺で極楽往生するまで一緒に念仏三昧に暮らしていたはずの4人のうち、「仏御前の墓」だけがない理由・・・
それは、最後まで生き残った仏御前が、祇王たちを弔った後は、ふるさと加賀に戻ったから。
過去帳には祇王たちと一緒に4人仲良く名前を連ねているのは、尼である仏御前は嵯峨野で祇王たちと一緒に成仏したということにしてもらったから。
そしておそらく、
還俗した仏御前は
ふるさとで白拍子をしながら、
歌と舞い(踊り)で仏の教え、念仏の大切さを広めることに余生を費やした。
ということだろう……と思われる。
うん。
そーに違いないっ!(女の勘!)
ってことで、祇王の章はこれにてオ・シ・マ・イ。
自分で納得したので、これでよしとします。(^^ゞ
祇王の章をこれまで読んでくださった方、長いことお付き合いくださって、ありがとうございました。(。-人-。)
次回から再び京都旅行の日記に戻ります。
あ~、長かったぁ~。(苦笑)
注:原文抜粋は『平家物語一』完訳日本の古典42(小学館)に拠る
(26へ) つづく (28へ)