裏も見えちゃった…蔵の街と、川に秘められた思い/栃木市お散歩総集編*過去更新更新Ver15.11 | ゆるポタで心リセット“おれ野_お散歩日記”by_✡CAMMIYA…ちょいマニアックで開運

裏も見えちゃった…蔵の街と、川に秘められた思い/栃木市お散歩総集編*過去更新更新Ver15.11


栃木駅(とちぎえき)
栃木県栃木市沼和田町にあるJR東日本(両毛線・小山起点10.8km地点)と、東武鉄道(日光線・東武動物公園起点44.9km地点)の駅
JRの駅は足利駅管理で、JR東日本ステーションサービス(2015年6月30日まではJR高崎鉄道サービス)が受託する業務委託駅。
東武の駅については、かつてはJR東日本に駅業務を委託していたが、高架化完成後は自社で業務を行っている。日光線系統のほか、隣の新栃木駅から分岐する宇都宮線のほとんどの列車も乗り入れ、かつ当駅で折り返すため、実質2路線3方向の列車が利用できる。
(栃木駅東武線ホームにて本ブログ管理者2016.11.23撮影)

1888年(明治21年)5月22日 - 両毛鉄道の駅として開業。
1929年(昭和4年)4月1日 - 東武日光線の駅が開業。
2000年(平成12年)5月17日 - 東武日光線の駅が高架化。
2003年(平成15年)4月4日 - JR両毛線の駅が高架化。

2015年乗降人員10,488人/日(JR)-11,525人/日(東武)

新大平下1511187500

プラッツおおひら
■本ブログ内関連記事参照

栃木1409213389  

ある休日の朝、早起きして、
未だ観光客が来ない誰も歩いていない蔵の街で、

眩しく輝く朝陽と
店蔵のツーショット写真が上手く撮れないか?
と愚策する。。。
(本ブログ管理者2014.9.21撮影)

■本ブログ内関連記事「2014.9.21吉方位とり(総集編)」   参照

岩下の新生姜ミュージアムにて、、、

■本ブログ内関連記事参照

栃木1312091417  

栃木駅(正面)と、駅近(表/裏)の様子。。。
本ブログ管理者2013.12.9撮影

メインストリートの1本裏側(東側)路地を歩く、、、

栃木県栃木市河合町にて本ブログ管理者2016.11.23撮影

昭和21年栃木駅周辺

昭和21年の栃木駅周辺
□外部リンクより航空写真引用

栃木市のレザー工場があるあたり、、、
(グーグルマップより引用 ■本ブログ内関連記事参照栃木市旭町4付近拡大


栃木市旭町4付近拡大
(グーグルマップより引用)

栃木1312011397  
倭町(やまとちょう)のファミリーマートが気になったので入ってみた

■本ブログ内関連記事参照  

(栃木県栃木市倭町10-1/本ブログ管理者2013.12.9撮影)
栃木1312091299  
蔵造り風の八百屋さん
(本ブログ管理者2013.12.9撮影)
栃木1312091298  

現代的なビルと蔵造りの商家が混在する栃木の街並み。。。

1864年6月5日、

太平山に立て篭もった天狗党が軍資金を集めるために現在の栃木市へ。

栃木陣屋での軍資金調達に失敗。

その結果火を放たれ栃木市内は火の海に化し、多くの人が犠牲に。

(*天狗党の乱=幕末水戸藩の派閥抗争、尊攘改革「激」派VS保守派)

その後火災に強い土蔵造りの建物を商家が競うように建てたのが現在の「蔵の街・栃木」に繋がったのだそうだ・・・。

(本ブログ管理者2013.12.9撮影)
栃木151  
栃木(とちぎ…栃木県栃木市)

江戸時代より例幣使街道の宿場町として、

また舟運で栄えた問屋町として、北関東の商都と呼ばれた。
京都から日光に至る例幣使街道が通る栃木の宿は、東照宮に参拝する西国の諸大名も通り、賑わいを見せた。
この例幣使街道の一部が今の中心街をなす大通りや嘉右衛門町通りであり、その両側には黒塗りの重厚な見世蔵や、白壁の土蔵群が残り、当時の繁栄振りを偲ばせている。

出典: □栃木市観光協会の公式HP  

(本ブログ管理者2006.5撮影)
栃木1312091396  
「とちぎ蔵の街美術館」外観と、その周辺

蔵の街美術館は、

江戸時代庶民の困窮を救った善野家の「おたすけ蔵」だったのだそうだ。

(栃木県栃木市万町=よろずちょう/本ブログ管理者2013.12.9撮影)
栃木1312091304  
「岡田記念館(代官屋敷)」

なお、在郷町「嘉右衛門町(かうえもんちょう)」地区の一部は、

2012年7月9日、

栃木県では初の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。

■本ブログ内関連記事参照  

(栃木県栃木市嘉右衛門町1-12/本ブログ管理者2013.12.9撮影)
栃木1312091361  
「岡田記念館(別邸・翁島)」

■本ブログ内関連記事参照  

(栃木県栃木市嘉右衛門町/本ブログ管理者2013.12.9撮影)栃木1505145354
天然温泉「湯楽の里 栃木温泉」
■本ブログ内関連記事(特選豚ロース焼き編)参照


なお、直上写真は
本ブログ管理者2015.5.14実利用時に撮影した建物外観写真に、
「湯楽の里」公式HPより引用した露天風呂の写真を付け加えて、
本ブログ管理者が画像加工編集したもの。

小山城1603068353

 
栃木市~小山市の間を流れる「思川」の名称由来

元々は朝鮮への海上交通の平安を守護する玄界灘の神として、大和朝廷によって古くから重視された神々(3女神)の1つであり、大陸との緊密化によって5世紀以降国家神として祭られるようになった「田心姫神(たごりひめ)」に因んだものなのだそうです。

田心川と書かれたのが、いつしか思川となった?)
■本ブログ内関連記事参照

(小山城址公園にて本ブログ管理者撮影)大平銀河1511187504
ってな訳で、地域の至る所で湧水と田心姫神が祀られている

■本ブログ内関連記事参照
(カフェ「銀河鉄道」にて本ブログ管理者撮影)西方1510227191

西方町
そういえば、今はここも「栃木市」なのね、、、

■本ブログ内関連記事(「道の駅」編)参照
(「道の駅にしかた」にて本ブログ管理者撮影)

■本ブログ内関連記事(「宇都宮藩界編」)参照

■本ブログ内関連記事(「いきいき夢ロマン編」)参照


栃木陣屋跡
現在、裁判所がある所がそうだと言われているが、市街地化のため遺構らしきものは特に見られない。
栃木陣屋は足利・河内・都賀の3郡で1万1千石を領した戸田氏の陣屋であったらしく、初め陣屋は栃木城内(■本ブログ内関連記事参照)に置かれたというが、どういうわけか別地に移されたものらしい。
幕末、天狗党の乱で、天狗党の一味に金を要求されて、400両を渡してしまった。それが関八州取締役の知る所となり、反乱軍に加担したとみなされた栃木陣屋は攻め込まれ、悲惨な目に遭うこととなる。

栃木陣屋の築城年代は定かではないが戸田忠時(江戸時代前期から中期にかけての旗本、のち譜代大名。下野足利藩の初代藩主。江戸幕府の側用人=将軍の傍に付き老中と将軍の橋渡し役。宇都宮藩戸田家分家初代)によって築かれた。
戸田忠時は三千石の加増を受けて足利郡・河内郡・都賀郡で一万一千石を領し、足利に居住した。日本城郭体系では築城年代として宝永元年(1704年)と記載されているが、戸田忠時が下野国を領したのは宝永2年(1705年)のことである。