「河岸場」の風景写真コレクション…(ver.15.07過去記事更新版)
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八幡の渡し跡(やわたのわたし…埼玉県白岡市)
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境河岸(さかいがし…茨城県境町)
境河岸は本来、関宿城下町の五町のうちの一つ「境町」であり、村高約437石・耕地面積約155町歩を有していた。
境河岸の起りは関宿と結城とを結ぶ街道の渡しであったと推定されている。
江戸幕府は元和2年(1616年)に定船場を指定したが、このうちの一つとして境の渡しが含まれ、境河岸は「鬼怒川 - 利根川 - 江戸川」の奥州 - 江戸輸送ルートが成立するとその要衝として繁栄していった。
江戸期に境河岸で主に取り扱われた物資としては年貢米をはじめとして、山形最上の紅花や漆、米沢の蝋、会津の漆器などである。この他に煙草や鷄卵も扱われていた。
■本ブログ内関連記事参照(福田屋内部編)
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福岡の対岸にあるのは古市場(ふるいちば…埼玉県川越市)
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左沢(あてらざわ…山形県大江町)
大江町(おおえまち)は、山形県の中央部にある人口9000人の町。
町の中心部は、町域の東端付近の左沢(あてらざわ)地区であり、最上川が急角度に蛇行する場所にあり、寒河江市に近く、JR左沢線の終着地。
町の中心である左沢(あてらざわ)は、難読地名としても知られている。
語源については、寒河江市から見て最上川の対岸『あちら』の転訛であるという説があるそうだ・・・・・
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伊勢神宮前の船着場・・・(三重県伊勢市)
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柳川(福岡県柳川市)
柳川市(やながわし)は、福岡県南部、筑後地方の南西部に位置する市。
市内を掘割が縦横に流れることから水の都と呼ばれ、筑後地方南西部における商業の中心地であるとともに、鰻料理、掘割を使った川下り、旧藩主立花氏の別邸「御花」が全国的にも有名。
このほかにも干拓地を中心にい草、有明海で海苔の養殖なども盛んな都市。
札場河岸(ふだばかし…埼玉県草加市)
綾瀬川の河川激甚災害対策特別緊急事業の終了を記念し、
平成元年度から平成3年度にかけて草加松原遊歩道の南端に整備された
かつての「河岸」の面影を今に再現した草加の名所の一つ
かつて賑わった舟運の河岸場が復元されているほか、
五角形の望楼や休憩所が建てられ、望楼からは綾瀬川や草加松原が一望できる。
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札場河岸は、綾瀬川を利用した舟運に使われていた私(わたくし)河岸。
所有していた家が高札の立った場所にあり屋号が「札場」であったことからそう呼ばれているのだそうだ・・・・・
護岸工事で取り除かれた船着き場の石段を修復し当時の雰囲気を再現
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1992(平成4)年7月10日、
建設省(現・国土交通省)の手づくり郷土賞の「くらしに根づく施設」部門受賞
出典: □外部リンク参照/埼玉県草加市役所の公式HP
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札場河岸の周辺は「草加松原」と呼ばれています。。。
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草加松原(そうかまつばら)
「日本の道 百選」にも選ばれてる日光街道
その日光街道の名所草加松原遊歩道は綾瀬川沿い約1.5キロメートルの美しい松並木
古くは江戸時代から「千本松原」と呼ばれ、うっそうとした緑のトンネルを形成し街道の名所となっていたそうだ。。。
草加松原遊歩道には県指定文化財「甚左エ門堰」や「松尾芭蕉像」また「正岡子規句碑」、さらには松尾芭蕉の「奥の細道」より引用され名前が付けられた太鼓型の2つの歩道橋「百代橋(ひゃくたいばし)」と「矢立橋やたてばし)」など観光スポットとしても見どころ満載・・・
佐原(さわら…千葉県香取市)の街並み・・・
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古くから水郷の町として栄え、
市街地の小野川沿いには小江戸とも呼ばれる当時の町並みが残っている
また、伊能忠敬の養子婿先の地でもあり、地図の町としても有名
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樋橋(じゃあじゃあ橋)
伊能忠敬旧宅前にある、小野川にかかる橋
もとは江戸時代の前期につくられた佐原村用水を、
小野川の東岸から対岸の水田に送るための大樋だった・・・
300年近く使われ、
戦前にコンクリートの橋になってからも
橋の下側につけられた大樋を流れる水が
小野川にあふれ落ちて「ジャージャー」と音を立てるので
「じゃあじゃあ橋」の通称で親しまれていた
今の橋は観光用につくられたもので、30分ごとに落水させている
この樋橋の落水は「残したい日本の音風景100選」に選ばれている。。。
出典: □外部リンク参照/千葉県香取市商工観光課の公式HP
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栃木(とちぎ…栃木県栃木市)
江戸時代より例幣使街道の宿場町として、
また舟運で栄えた問屋町として、北関東の商都と呼ばれた。
京都から日光に至る例幣使街道が通る栃木の宿は、東照宮に参拝する西国の諸大名も通り、賑わいを見せた。
この例幣使街道の一部が今の中心街をなす大通りや嘉右衛門町通りであり、その両側には黒塗りの重厚な見世蔵や、白壁の土蔵群が残り、当時の繁栄振りを偲ばせている。
出典: □栃木市観光協会の公式HP
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石巻(いしのまき:上…宮城県石巻市 震災前に本ブログ管理者撮影)
と、
塩釜(しおがま:下…宮城県塩釜市 震災前に本ブログ管理者撮影)
どちらも、元々は河岸(川湊)から外港(海岸)へ展開発展した。。。
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(例/宮城県亘理郡亘理町荒浜・・・資料出所「河北新報」)
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■本ブログ内関連記事参照(塩釜)
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黒沢尻(くろさわじり…岩手県北上市)
岩手県和賀地方は盛岡藩内の穀倉地帯に位置しており、黒沢尻の河岸(商港)は領内最大だった。
米350俵積みのひらた船が60艘配置されており、藩米はここから船で約150キロ下流の石巻へ運ばれた。
日数は下りは3日、上りは10日。
そのほか黒沢尻河岸には100俵積みの船が18艘と民間の商船が45艘が所属しており、造船所もあり20人の船大工が働いていたという。
北上展勝地の対岸には河岸跡の岸壁のようなものが残っている(復元?)。
出典: □外部リンク参照/奥州道中膝栗毛
(河岸場模型…北上市立博物館の許可を得て本ブログ管理者撮影) ↑
岡(おか…埼玉県朝霞市)
大きな、有名な河岸(川港、津)ばかりが注目されるが、
実は、小さな河岸(船着場)は、
全国津々浦々、川の在るところ、どこにでも存在した。
たとえば、埼玉県の新河岸川の場合、
大きな川港であり、町も栄え、現在でも立派な建築遺構が残る志木(宗岡)、
福岡(ふじみ野市上福岡)、新河岸(川越市)の3つばかりが注目されるが、
もっと下流(東京都界寄り)の朝霞市内には、支流の黒目川との合流点付近に、
小さな船着場が5つ存在したそうだ
(出典:朝霞市博物館「総合案内」より)。
単なる小さな船着場には、当然のことながら、上福岡や川越市新河岸のような
立派な「廻船問屋」の御屋敷など存在しない。
在ったのは、
たった1軒の小さな倉庫・物置程度の「小屋」だけだったという=模型写真。
(残念ながら、今日において遺構はまったく残されていない・・・) ↑
引又河岸(ひきまたかし=志木河岸)
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引又河岸(ひきまたかし…埼玉県志木市)
江戸時代、川越藩によって制定された新河岸川の河岸場。
現在の埼玉県志木市に位置する。
江戸時代前期に新河岸川の舟運が始まると、沿川には多数の河岸場が置かれた。
その中で引又河岸は、奥州道(現:志木街道)と新河岸川の交点に位置し、
内陸部との交通に恵まれていた為、
明暦から寛文年間にかけて、市(六斎市)や宿場(引又宿)が設けられていった。
幕末から明治初期にかけて最も繁栄するも、
大正時代に東上鉄道(現:東武東上線)が開通して、舟運とともに衰退した。
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(河岸場模型…志木市郷土資料館の許可を得て本ブログ管理者撮影)
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大石田(おおいしだ…山形県大石田町)
「最上川水運の大石田河岸の集落と職人」1995年、山形県大石田町 p.24
に、本ブログ管理者加筆修正
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凡例
●・・・廻船問屋
●・・・船宿
●・・・船大工
●・・・牛車・荷車挽
●・・・旅館
◎・・・船役所跡
(江戸後期~明治初期)
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川岸町(かわぎしまち…群馬県桐生市)
現在の町域は住居表示が実施されずに川岸町として残った地域であり、住居表示の実施により町名が変更された旧川岸町域は、現在の仲町三丁目の南部にあたる。
町名はかつて市内を流れていた新川に由来する。
現在は新川地区整備計画に基づき市街地内は暗渠とされ、道路や駐車場になっているようだ。。。。。
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1960(昭和35)年頃の砂利運搬鉄道と渡し