突然、何か音がしたとします。
ビクッとしますよね。
これは動物でも一緒です。
音がしたと、意識する前に反応しているはずです。
反射がかってに起こって意識がそちらを向きます。
それから、『音がした』と認識し、何だろうと思うのです。
五感を持った私たちの身体はそういうものです。
意識よりも先に無意識が動いています
私たちは、表層の自我の意思によって動いているのではなく、潜在意識の働きによって反射によって自動的に動いているというのが私たちの存在の実相です。
『起きることが起こっている』ということはそういうことです。
私たちの深層意識である身体は、その起っていることに、意識に上る前に反応しています。
刺激に対して起こる反応を『縁起』と言います。。
『縁起』によって宇宙は動いています。
縁に触れて反応し合って事が起こって行くわけです。
すべてが刺激、すべてが縁です。
表層の自我の思考も縁起によって起こるわけですが、しかし自我の反応は遅れがちです。
自我は思考が専門ですから。
だから、起こっていることとの間にギャップが生じてしまいます。
思考は『今ここ』に居ないことが多いからです。
だから『今ここ』に対応できる正しい思考が必要になります。
思考を止めて『起きることが起こっている』だだ中に入ってみようとするのが『瞑想』です。
ただ思考を止めるだけが『瞑想』では有りません。
誤った思考ではなく、正しい思考をしている瞬間は『瞑想』していることになります。
正しい思考とは『起きていることが起こっている』のが私たちの存在の実相であることを、わきまえてする思考です。
そして、私たちは『起きることが起こっている』ことを認識できる存在です。
また『起こっていることを起こしている』のも私たちです・・
それを本当の私たちだと認識することが『悟り』です。
自我という表層意識の働きを起こしている働きそのものが本当の私たちだということを知ることです。
だから自我そのものは、本当の私たちそのものではありません。
自我はいつも悪者扱いにされています。
まあ、悪者扱いにしているのも自我自身なんですが・・・
しかし、自我の働きがなければ、私たちは、私たち自身がが宇宙であることも、存在していることさえも意識することはできませんでした。
ただ問題は、自我が『今ここ』に生きていないときに起きます。
『起きていることが起こっている』ところから離れて、溜め込んだ記憶にフォーカスを当ててばかりいる時です。
これでは現実とのギャップが生じ、不具合が生じます。これが苦悩の原因です。
自我は分別知の機能です。
自と他を分けて考える機能です。
ワンネスだけではつまらないのでワンネスが創り出した機能です。
あなたがいて、私がいるから面白いのです。
男がいて、女がいるから面白いのです。
もちろん分別知は潜在意識という無分別智によって支えられています。作り出されていると言ってもいいでしょう。
『起きることを起こしている』大元によって支えられているということです。
その大元が本当の私たちです。
生まれることもなく死ぬこともない宇宙に充満しているエネルギーが本当の私たちです。
それを顕在意識である自我が悟るのが『悟り』です。
何かを認識できるのは、すべて顕在意識である自我の作用です。
至高体験もそれを認識できるのであれば自我の働きです。
自我は私たちの潜在意識が楽しむために創った機能です。私たちの目的は楽しい感情を得ることです。
一人、ワンネスのままでは、なんの変化もなく何も楽しめませんからね。
あなたがいて、私がいて、男がいて女がいるから楽しめるのです。
そのために個に分割しました。
自我プログラムの一部に不具合が生じていますが、まだ完璧なプログラムではないのでしょう。
本来の『楽しむ』という目的のために修正してゆけばいいのです。
もしからしたら、そのことさえも楽しみのプランに入っているのかもしれませんね。
自我の全てにサヨナラしてしまえば、元も子もありません。
顕在意識体(自我)の存在しない、ただの静寂の宇宙になってしまいます。
自我は顕在意識の働きですよ。
決して悪い奴ではありません。
悪いのは間違った思考を持つことだけです。
哲学や、科学を発展させたのも自我の分別知の働きです。
いろいろと恩恵を受けていますよね。
『気づく』のも自我の働きです。
『気づいている』と『気づいていない』の分別がなければ、それを意識できないからです。
気づくことによって完全に自我がなくなることはありません。なくなってゆくのは誤った思考だけです。自我本体の機能はなくなることがありません。
なくなってしまえば、恍惚の人(ボケ)になってしまいます。生きながら静寂の宇宙に帰ってしまったも同然です。
あなたの心の奥では静寂は求めていません。
静寂にはいつでも戻れるからです。
あなたの心の奥で求めているのは喜びです。
ただ、意識が起こる以前に『縁起によって起きることが起こっている』、そして、そこに起こっているすべてが私たち自身であるということが、この記事にテーマです。
お釈迦様の手の上の孫悟空。
それが自我です。
お釈迦様は本当の私たちの存在の実相。
煩悩に良いも悪いもありません。
仏様はジャッジしません。
。
お釈迦様の手のひらの上で大いに遊びましょう。
ちなみに、英語で煩悩はマンキー(猿)マインドでしたね。
人間は私たちの最高傑作です。
自我としては、お猿さんと一緒にしてはいけませんね。
といっても彼らも私たちのパーツです。
自我は分別知。
お釈迦様は無分別智ですから、全てを知っているけど感知はしません。
自我に任せきっています。
すべては孫悟空である自我(顕在意識)に任されています。
お釈迦様の手のひらの上で、私たちは自由です。
あくまで、喩えでおとぎ話ですからね。
ヒントにしていただければ幸いです。
応援いつもありがとうございます。
ビクッとしますよね。
これは動物でも一緒です。
音がしたと、意識する前に反応しているはずです。
反射がかってに起こって意識がそちらを向きます。
それから、『音がした』と認識し、何だろうと思うのです。
五感を持った私たちの身体はそういうものです。
意識よりも先に無意識が動いています
私たちは、表層の自我の意思によって動いているのではなく、潜在意識の働きによって反射によって自動的に動いているというのが私たちの存在の実相です。
『起きることが起こっている』ということはそういうことです。
私たちの深層意識である身体は、その起っていることに、意識に上る前に反応しています。
刺激に対して起こる反応を『縁起』と言います。。
『縁起』によって宇宙は動いています。
縁に触れて反応し合って事が起こって行くわけです。
すべてが刺激、すべてが縁です。
表層の自我の思考も縁起によって起こるわけですが、しかし自我の反応は遅れがちです。
自我は思考が専門ですから。
だから、起こっていることとの間にギャップが生じてしまいます。
思考は『今ここ』に居ないことが多いからです。
だから『今ここ』に対応できる正しい思考が必要になります。
思考を止めて『起きることが起こっている』だだ中に入ってみようとするのが『瞑想』です。
ただ思考を止めるだけが『瞑想』では有りません。
誤った思考ではなく、正しい思考をしている瞬間は『瞑想』していることになります。
正しい思考とは『起きていることが起こっている』のが私たちの存在の実相であることを、わきまえてする思考です。
そして、私たちは『起きることが起こっている』ことを認識できる存在です。
また『起こっていることを起こしている』のも私たちです・・
それを本当の私たちだと認識することが『悟り』です。
自我という表層意識の働きを起こしている働きそのものが本当の私たちだということを知ることです。
だから自我そのものは、本当の私たちそのものではありません。
自我はいつも悪者扱いにされています。
まあ、悪者扱いにしているのも自我自身なんですが・・・
しかし、自我の働きがなければ、私たちは、私たち自身がが宇宙であることも、存在していることさえも意識することはできませんでした。
ただ問題は、自我が『今ここ』に生きていないときに起きます。
『起きていることが起こっている』ところから離れて、溜め込んだ記憶にフォーカスを当ててばかりいる時です。
これでは現実とのギャップが生じ、不具合が生じます。これが苦悩の原因です。
自我は分別知の機能です。
自と他を分けて考える機能です。
ワンネスだけではつまらないのでワンネスが創り出した機能です。
あなたがいて、私がいるから面白いのです。
男がいて、女がいるから面白いのです。
もちろん分別知は潜在意識という無分別智によって支えられています。作り出されていると言ってもいいでしょう。
『起きることを起こしている』大元によって支えられているということです。
その大元が本当の私たちです。
生まれることもなく死ぬこともない宇宙に充満しているエネルギーが本当の私たちです。
それを顕在意識である自我が悟るのが『悟り』です。
何かを認識できるのは、すべて顕在意識である自我の作用です。
至高体験もそれを認識できるのであれば自我の働きです。
自我は私たちの潜在意識が楽しむために創った機能です。私たちの目的は楽しい感情を得ることです。
一人、ワンネスのままでは、なんの変化もなく何も楽しめませんからね。
あなたがいて、私がいて、男がいて女がいるから楽しめるのです。
そのために個に分割しました。
自我プログラムの一部に不具合が生じていますが、まだ完璧なプログラムではないのでしょう。
本来の『楽しむ』という目的のために修正してゆけばいいのです。
もしからしたら、そのことさえも楽しみのプランに入っているのかもしれませんね。
自我の全てにサヨナラしてしまえば、元も子もありません。
顕在意識体(自我)の存在しない、ただの静寂の宇宙になってしまいます。
自我は顕在意識の働きですよ。
決して悪い奴ではありません。
悪いのは間違った思考を持つことだけです。
哲学や、科学を発展させたのも自我の分別知の働きです。
いろいろと恩恵を受けていますよね。
『気づく』のも自我の働きです。
『気づいている』と『気づいていない』の分別がなければ、それを意識できないからです。
気づくことによって完全に自我がなくなることはありません。なくなってゆくのは誤った思考だけです。自我本体の機能はなくなることがありません。
なくなってしまえば、恍惚の人(ボケ)になってしまいます。生きながら静寂の宇宙に帰ってしまったも同然です。
あなたの心の奥では静寂は求めていません。
静寂にはいつでも戻れるからです。
あなたの心の奥で求めているのは喜びです。
ただ、意識が起こる以前に『縁起によって起きることが起こっている』、そして、そこに起こっているすべてが私たち自身であるということが、この記事にテーマです。
お釈迦様の手の上の孫悟空。
それが自我です。
お釈迦様は本当の私たちの存在の実相。
煩悩に良いも悪いもありません。
仏様はジャッジしません。
。
お釈迦様の手のひらの上で大いに遊びましょう。
ちなみに、英語で煩悩はマンキー(猿)マインドでしたね。
人間は私たちの最高傑作です。
自我としては、お猿さんと一緒にしてはいけませんね。
といっても彼らも私たちのパーツです。
自我は分別知。
お釈迦様は無分別智ですから、全てを知っているけど感知はしません。
自我に任せきっています。
すべては孫悟空である自我(顕在意識)に任されています。
お釈迦様の手のひらの上で、私たちは自由です。
あくまで、喩えでおとぎ話ですからね。
ヒントにしていただければ幸いです。
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