セットで¥580。クローン・シェイク付き。 | “Mind Resolve” ~ この国の人間の心が どこまでも晴れわたる空のように澄みきる日は もう訪れないのだろうか‥

恐い内容です。読まないほうが身のためです。
 
     chapter 007
 
   Sympathy For The Hades
  
  
  
都会の片隅で「残飯 漁ってればいいんだ」とか、「悪い大人になった 」とか、
最期に逢ったとき、こちらの印象をどう受け取ったのか…。
やはり、勝手な決めつけが多かったと思う。
「俺はまだ死なないし、俺の家族もこのままでは終らない」
と、俺が心に強く決めた限り、俺は野垂れ死にしないし、俺の家族も必ず生き残る。
生き残って、残りの人生を誰よりも幸せになる。
俺を巧く利用できなかった”俺のことを使えなかった”連中が、明日、
犬死にしようが、癌に侵されてくたばろうが、
頭くるって喚きながら息を引き取ろうが(…目に浮かぶぜ)、
俺には関係ない。というより、むしろ、そうなって当然だ。
俺が念じたものは俺が解かない限りは永遠に消えない。
そのように創り替えてもらってある。
 
という具合に
それこそ、毎日毎日、自分への葛藤も含め、
精神的に迫害を受けたことを怨みながら生きていた時期もある。
「他人ではなく、自分で選んだ道だからな」
と、いくら自分に云い聞かせても、拘りを捨てきれない。
かといって、精神病院へ通院して精神安定剤を貰って
自分をごまかすような馬鹿げたこともしたくない。
「死ぬ間際に最期に一本だけ煙草を吸うんですよ…」
と、その煙草の火は俺が点けると決めていたし、銘柄も“キャメル”と決まっていた。
もっとも、それどころじゃなかったと思うけどな…。
 
「素に戻されるから、どんどん言葉を失って行く」
「中に入っているモノが動物だから人間の言葉で会話できなくなって行く…」
するとやがては、人間の形をして人間と一緒に生活することが とても困難になるとでもというのか?
 
俺は俺の父親の兄が わずか21歳という若さで、青酸カリを呷って自殺して、
”親よりも先に自分から死ぬ”という、それほどの凶悪犯罪。自然界に対する叛逆行為を犯して、
それがそのままある日、俺の中に入って俺が同じ方向へ引っ張られたのではないか? とも思っていた。
自殺志願の理由が、(勝手に)心に決めた者と結ばれなかったことに発端があるとか、
人一倍、刃物のヤエバの輝きに魅せられ、(心の中で)そういう物を宝にしていたとか、
「側によると殺されるんじゃないか」と思うほど、なんだか怖かったとか、
そういう性格の描写ひとつひとつが、どこを取っても(十代~二十代の頃の)俺とダブる。
「…たまたま。偶然。考えすぎだよ」
と、その事実を知る親も親戚一同も、そんなふうに言うかも知れないが、
偶然なら偶然であってほしい。
それよりも、
「お前、そんな若さで何をそんな暇なこと考えてるの? そんなことよりもっとやるべきことがあるだろ!」
と、しっかりとした指導者の心で叱ってもらいたい。
と、そう思うこともあった。
 
ところが、先日、人間に捕らえられ、前足と後ろ足を棒に結わえつけられ、
運ばれている途中に死んだ鹿なのか狼なのか、
両足を持ち上げられ、首を左よりに垂らした格好で虫の息になっている状態の金縛りに遭い、
目が覚めた。
夢ではない。
なにか、俺にとっては遠い記憶のように思えても、それは、ついさっきまでの事のように、
はっきりとした感触が身体にある。
その時は、ぞっとした反面、「畜生っ! 出て行けっ!」とも思った。
 
世の中には、蛇を奉った神社で親に願掛けされ、自分でもそこの境内で手を合わせたことにより、
蛇が入っているとか、その蛇と狸が会話をしたとか、
獺や犬や狐に操られていて、普段そうした動物の匂いが体臭にあり、
寝ているときもそれぞれ、その格好をしているとか、
物を食べる仕種が人間の格好ではないとか、
本人が気づかなくても、それを見ている周囲の者が、それを否定しないというケースもあるようだが、
「まさか自分が…」
と、その解決には時間をかけたくない。
要するに、そんな自分でいたくない。
“気がつけば一瞬で抜ける”
と信じたいが、ではそれが、いつ頃から入ってしまっているのか?
なんでどうして、具体的に肉体の、どこにどのように問題があるために、
そういうモノが精神の隙間、“ポケット”へ跳び込んでくるのか?
   
日本全国の共産思想系のご家族のみなさんが奨励する映画『ノケモノ娘』とか、
韓国人の頭で作った映画『ゴースト』の駄作リメイク版とか、
生きるためにほとんど役に立たないファミコンのような愚作の数々の中にも、
霊や怪奇現象をテーマに取り上げる理由が
現代に生きる人間の意識の中にある。
だからもしも自分の身に、自分の中でそういうことがはじまってしまった時、
静かな暗闇で背中の方で蝋燭に火を灯すとか、
太陽の下で昼寝をするとか、
朝のスペクトラムを浴びるとか、自分の力で抜く方法はともかく、
一度、空にしてもまた入ってこないように防止するには、
己が常にどうあるべきなのか?
この辺りが重要と思うが、何より本人が、
「自分が自分でない」と、はっきりと気づかない限り、
猫であろうと河童であろうと、いつまでも居心地よく燻ぶられてしまう・かも知れない。
そして十二分に気をつけなければならないことは
「ある日 突然・・・」という思い込みから、神聖な能力を授かったとか言ってみたり、
家畜小屋で身体を洗ってもらえない豚のような体型で
「私はブッダの生まれ変わりだ。座敷豚ではない」とか、
「私はキリストの再来としてここにいる」などと、
大勢の人を募って夜空を指差してはいけない
ネット上の小さな枠の中で小山の大将になっている分には安全弁が閉まっている状態だが、
新興宗教、教祖様という言葉、文字を見たら “詐欺” “詐欺師”と読んだ方が無難だ・な。
…あのサリン現場からまっすぐ走って来て地下鉄を抜けた朝の目黒線の脱線事故ほどではないが
1993年のTHE・THE の
 
               Slow Emotion Replay            
   
という歌の意味、その回答を理解する上でも
いくらか重要な点では、その精神、魂の容器である肉体に問題があって、
本来のモノとは別のモノが入ったために
「視える」「聞こえる」「感じる」ということは決して、前世の記憶でも何でもない。
まずその者の肉体、筋肉全体に流れる血液の循環が
本来あるべき状態から外れている。

ここでは敢えて、「憑依」だとか「憑き物」という言葉は使わずに書いてきたが、
俺はそういう精神世界用語が大嫌いなので今後も使わないし、こうした問題は、
そういう”解ったようなフリ”をしている連中の使う表現、
幼稚で浅はかな単語で解釈して済む問題ではない。
でもあとで一回だけ遣わせてね。ちょとだけ便利なもんで仕方ない・・・
また今後、「そんなものはない!」「俺には関係ない」という者ほど、そうした問題で苦しむことになる。
「ない」と思えば「ある」という者の言葉を、精神を、存在を否定することになる。
そこには信頼関係も何も生じない。ただ疑いの眼差しで相手を否定する。
自分が勝手に「ない」と決めつけているだけで、
「ない」ということを証明できる根拠はどこにもない。
そこで人間としての成長も止まってしまう。
例えば俺にもかつてこういうことがあった。
この内容は Half Life  というタイトルで、
俺が以前に自分のことを本にしようと思って途中でやめた内容の一部だけど、
そういうことで困っている、あるいは悩んでいる人に何かの参考になるかも知れない。
 
芝居の勉強をしてた時は、レッスンの他に
不規則に撮影の仕事
が入るので、会社員にはならなかった。
その22歳から25歳の当時は、つまらないことで借金も色々あったので
どうしても月に30万というカネが必要だった。
だから生活してゆくためには、週に三つか四つのバイトをやっていた。
そのうちの一つに、ステージ・ハンドとか、
遊園地や体育館で行われるイベントの会場撤去や仕込みのバイトがあった。
25歳のある日、汐留ピットインという場所。
現在の汐留駅付近 / この当時は貨物列車の貨車が並び、鉄の錆び臭いがしていた
そこで、ある展示会(色々な食材を利用した海外アート展)の撤去をやった時、
ろくに飯も喰わずに朝から働いて、帰る時には妙に身体が重くなっていた。
駅のトイレで鏡を見ると、自分の顔が真っ黒になっているので驚いた。
その形相は、この世に生きている者とは思えないほど、
目玉だけがギョロギョロと動く、歩く死体のようだった。
…それはもう桐生の安部先生も熱演した、マイケル・ジャクソンのスリラー なんてもんじゃない。
動物なのか人間なのか、いま想えば恐らく、“人間だった者”と思うが、
翌日、寝て起きても、あんまり苦しいから、他の仕事はぜんぶ休んで、
先生の所を尋ねた。
“創った側の人”の顔を見たら、何とか落ち着けることができたけど、
「全身を鎖で縛られたような状態で、両肩を上から抑え付けられて
『動くなよ』って云われてるような状態なんです…」
と説明すると、先生は優しく笑いながら気を送ってくれた。その気の指導の後で
「憑依霊が入ってたからね、苦しかったね」
と云っていた。
 日本の鍼灸師は、もう誰もできないようだが、古来、中国の鍼、鍼灸の極意には、
漢方の君臣使佐【くんしんしさ】という処方と同じように、
瀉す【しゃす】補う、回す、支えて加える・という具合に、
本来は鍼の打ち方にも、その時その時、その人に合った加減があるという。
 ここで云う“創った側の人”「先生の気の指導」というのも、やはり、
自然の状態を保つ状態で施されていた。
 
 
“創った側の人”の気がどういうものか、それを確かめる一つ、
人間の設計図 』を持っていれば誰にでもできることだけど、
まずコップを二つ用意して、適当に水を入れて、
一方を「仏様に…」。もう一方を「先生に…」って、
何時間かそのまま置いておく。先生に逢ったことがある人は十分間でもいい。
すると、「仏様…」の方だけは生臭くなってくる。
丸一日も置いておけば、
「ゼッタイ飲めない」というほど濁ってしまうけど、
「先生に…」とあげておいたコップの水は、いつまでも透き通ってる。
飲んでも大丈夫。
それを“創った側の人”本人から直接聞いた時、
さっそくやってみた。すると、これは不思議である。
俺の場合はコップを三つ用意して、
右に「先生に…」、
左に「仏様に…」、
真ん中に「自分に…」と置いてみた。
真ん中の水は
           ######## 以下略 ########
 
要するに、そういうことが「ある」か「ない」かと尋ねられれば、
俺も「あるよ」と肯定はする。それでも、
「ある」という者もまやかしで「ある」とほざいている者(自称;超能力者とか)もいれば、
ほんとうにそのことで苦しんでいる者もいる。
決して頭がどうかしている訳ではなく、
「ある」ということを信じてもらえない観念、恐怖、悲愴感が心の扉の鍵となってしまう。
「ある」と思えば在る。「ない」と思えばない。
言葉では簡単なことでも、言葉を出す肉体を動かす精神が
大きく自然界からズレている。
また「ある」と気づかぬうちに別の世界へ引っ張られ、結果的に
身勝手に破滅する場合もある。
例えば自殺。
“生きることより死ぬことを選ぶ”という
この何事より兇い犯罪行為は
催眠術によるものと、もうひとつ、生きている現実の世界とは別の
“彷徨い空間”へ引っ張られるケースがある・みたいだよ。
“彷徨い空間”とは天国でも極楽でも地獄でも “あの世”でも何でもない。
キリストも釈迦も日蓮も神道・古神道も関係ない。
ただ暗く冷たいような狭い永遠に窮屈な処で、ただ只管に同じ場所を僅かに浮遊していられるだけの、
永遠に孤立したまま永遠にそこから出られない場所。天国や地獄より居るのが辛いと思うよ。きっとな。
後悔しても絶対に戻れないし、生まれ変わることも絶対にできない。そういう場所。
そこの場所が勝手に無理矢理に引っ張るのではなく、
自分が引っ張られるように望んで引っ張られる。
催眠術の場合も、自殺するように催眠術を掛けた人や文献、組織が悪いのではなく、
そういう催眠術を掛けられるように望んだ本人の浅はかな考え、
弱いくせに強がってた心を見破られるのを恐れた、あるいは、
見破って欲しかったのに裏切られたと勝手に思い込んだ子供みたいな勘違いで、
生きることを投げ出した・・・・その程度。
でも、人間は、いま死ぬという瞬間に必ず正気に戻っている。誰でも。
だからその次の瞬間には物凄い後悔に迫られる魂。
そして次に待つのは計り知れない永遠の孤独、孤立という恐怖。
仏壇の外で、墓場の前で、生きている誰が何を唱えようと、語りかけようとも、
悟れないし、そこにはいない。
死ぬ瞬間までいた場所の直ぐ裏側にあるその場所からは一歩も動
けない。
そこへまた生きている人間の誰が来て何を拝もうとも語りかけようとも、
自殺した魂は、本来の死ぬ予定とは違う形で死んだ限り、安らかにも眠れなければ、
次に生まれ替わるはずの準備も用意されない。
 
通常は受胎した瞬間からはじまり、この世で堂々と生きて、しっかりと自分の役割を果たした魂には、
何の恐怖も罪悪感もなく、死んだ瞬間に直ぐに分解され、
次に別の肉体とその生きる場所を借りて用意されるまで、
決められた場所で一つ一つ磨かれる。(…磨かれる程度にも誤差はあるらしい。)
ところが、自殺した魂は、その一連の自然界の道理から外れてしまったために、
そのように風呂にも入れなければ脱衣所で着替えることもできない。
絶対にやり直しも利かない。
後悔してる本人が一番よく判っている。永遠にそのまま。絶対にもうどうにもならない。
人間がどんなに遺伝子組み換え、遺伝子工学、クローン・テクノロジーの研究を頑張ったところで、
途中からその道理は変えられない。
生命あるどんな植物も動物も、人間も、それらのシステムを外して造り変えることはできないし、
“創った”としても創ったので
はなく、造った物はその辺の機械と変わりない。
例えば人間でも猿でも、山羊や牛でも鼠でも、
何とかして似せて造ってみても、巧く上手にコピーしたつもりでも、
人間の目で見た状態で、その物体の細胞は急激に老化して行くように見える。
それをまた人間は、科学は、学問は、教育は、研究し、造り替えようと努力し、させる。
しかしそれは、その物体は、初めから手本とした生命とはまったく違う。
人間や猿や山羊、牛、鼠に見えても、それは、人間でも猿でも、
山羊や牛、鼠でもない。単に機械のように動く急激に腐りやすい物体である。
人間は、その牛を馬を羊を、鶏を食べようというのか。あるいは、その、
課せられた目的もなく生きるように造作された“動くナマモノ”を
結婚相手として選び、子孫繁栄に役立てようというのか。
その物体は自分自身で動き、いびつに変形して、不恰好に動き回ったとしても、
受胎の瞬間には何も入っていない。
手本となった生物、生命が最初に存在していたから、
その一部から同じような形に整うように似せて造作したから、
造った人は嬉しかったかも知れない。
またその関係者も高層ビルの最上階でシャンパンの栓を飛ばして喜んだかも知れない。しかし、
自分達がやろうとしていることは、その造作した物体には、
例え言葉が通じるように改造・改良したとしても、通じない。
なぜならそれは生命ではない。
勝手な努力、必要以上の知識で、自然界に存在するようにしてしまったかも知れないが、
それは腐りやすい血が流れて動くように造作した物体に過ぎない。
その肉を、ステーキを、誰が食べるのか。
その卵を誰が、朝食という人間の身体にいちばんよく廻るエネルギーとして噛み砕くのか。
(ここまで読んで吐き気を催した人は正常な人間だと思う)
そしてその人の形に似せた腐りやすい物体と、誰が性行為を交わして、次にどんな化け物を造るのか。
自分達でやれば善い。自分達で喰えば善い。遠慮することはない。
誰も文句は云わない。造作を手がけた本人達で嗜むのなら、それでいいじゃないか。
   
例えば、本来の人間に与えられた自然界の稲作ひとつにしても、
土を耕し水を張り、そこへ苗を植えて肥料をやり、水を調節して、作る者は常に稲を見守り、
また稲も、育ててくれる人間の思いに応えて成長し、秋、借り入れる時も駆られることを望んで、
その場所にしっかりと根を張って立っている。
酒になる米も同様、それは酒として仕込まれてからも瓶に詰められるまでの間、
常に発酵して生きている。
それを仕込む人、作る人は、酒が酒としてできるまでは、自分が眠る一時を惜しむほど、
生きていることを常に確認し、それが成熟することを願っている。
酒は酒として、その気持ちに応えた味になる。
ところが、最初から魂のない物体には、生きるという目的がない。
だから頭蓋骨の中に脳に似せた細胞組織があったとしても、
それが自分の身体を完全に操るわけでもなく、また物の道理として物体は壊れて行く。
自ら呼吸をする物体として、生きながらにして徐々に細胞が腐って行く。
その腐り方は普通にナマモノが腐敗する順序とも違う。
自然界には無かった物体としての腐り方で壊れて行く。
学者にも、その研究にカネを出す者にも、それは変えられないし、なぜなのかは解らない。
だからいずれ、本人達が食べる。食べてみても解らないが食べる。
自分で解らなければ他人にも食べさせる。
それが明日のジャンク・フードかも知れない。
セットで¥580。クローン・シェイク付き。今なら宇宙旅行が当るチャンス!
   
人間は宇宙のことも何ひとつとして解らないのに解ったつもりになり、
その、精神の障害を負った者から教え受け、なおかつ、
その障害がどんな形で肉体に現れようとも、その異常者の話を「素晴らしい」と、
手を合わせ涙を流し、神を見つめるように熱心に聞いている。
そしてその意志が引き継がれることを望んでいる。
「これは子供には見せたくない」
「これはアイツが知らなくていい、知る必要がない」
社会の中でルールを作る以前に、無意識のうちに、その階級に沿った判断をできる人間がいる。
それを言葉では、道徳だとか倫理などと呼んでいるかも知れない。しかし、
人間そのものにとっても、見てはいけないもの、知ってはいけないこと、
中を覗いてみて手を触れようとしてもいけないことがある。
それは大宇宙も、また、“インナー・スペース”と呼んでいる場所、その考え方、
人間の創られ方の断片を覗き見るような格好をした無意味な砂遊び…
月の地質調査や火星探索であっても、
決して、この地球上で人間が人間として生きることに必要なことでもない・と思うよ。
 
ところが、目に見えない部分の仕組みが、自然界にある一つの道理として、
はっきりと解き明かされなければ、我々人間は、本来あるべき姿で生きられなくなってしまった。
特に、自分が何なのか?
これを教えてくれる人もいなければ、解るように書いた文献もない。
どこにもない。
そしてそのことを伏せてしまう世の中の教育が、宗教が、学者の造る学問が、
目に視えない問題で苦しんでいる者を更に苦しめている。
やがてこの問題は、今までの教育、今までの宗教、今までの科学、
一部の人間が都合のいいように作った今までの学問では抑え切れなくなってくる。
 
ティーンネイジャーが、セックスと暴力とドラッグ
(と、あるいはスピード狂)を避けて通ることができない時代に生きているのと同じように、
現代、人類の多くは、こうした問題を避けて生きることは、もうできない…というほど、
人間は自然界を破壊してきてしまった。
目に見える部分での破壊が、かつて、海や野山だった場所であることが判らなくなるほど
開発されていることと同時に、自然界の目に視えない部分の破壊は計り知れない。
そうして人類は、揺れ動く大地によって押し潰され、大きな波に呑み込まれ、溺れ死んで逝く。
それは今後も、開発された場所であればあるほど危険な場所であったり、
それこそ、何十億年も前からバランスを保っていた場所での大きな動きであったり、
人間は自然界の成すがまま、手も足も出ない。
また自然界を、そのように変貌させてきたのも我々人間である。
人間が野生の動物と共存できないどころか、最早、人間一人一人が、自然界と共存不可能となってきた。
癌や交通事故死、無駄な戦死、殉職、自殺などという おかしな死亡原因と並ぶように、今は、
陽照り、干ばつによって殺される者もいれば、想像もつかない寒さの中で息を引き取る者も
一度に一人二人ではなくなってしまった。かつてとは違う。
犯罪はといえば、「かつての金属バット事件などたいしたことねぇな・・・」というほど、
刺し殺したあとで時限爆弾を仕掛けた本人が、のうのうと温泉に浸かっている。
学校では教えてないようなことでも、誰の手も借りず、平気で出来てしまう。
「これはいったいなんなんだろう?」
と、疑問に持つ年寄がまず、だらしがない。
その上、ちょっと苦しくなればすぐにクビ吊って死んじまうよう
な無責任な大人もいる。
…40代後半、50代、60代のみなさんですよ。
 
かつては俺も、「いつか死んでやる」ではなく、どうして、いつ、どうやって死ぬと決めて、
「俺の人生は俺がコントロールする」
と、心に強く、そう決めていた。
だけどそれは、若い者が通る“関所”に過ぎなかった。
「関所だ。関所のようなもんだよ」
ある指導者にそう教えられて楽になった。 (この頁最後の 追記 参照)
ところが今は、そんな指導者はいない。
指導する立場にある人間が、平気でそういう大罪を犯している。
俺は、その大人連中を許せないのではなく、
そういう無責任な大人社会をつくりあげた教育が許せない。
もう絶対に受け入れないし、
自分の子供にも今までの教育を丸ごと頭に被せたくはない。
「日教組が悪いっ、全教斗がどうの…」というくだらない問題ではない。
そんなことで騒いできた連中(お昼のワイドショーも含め)は、
墜落した旅客機の破片の周りで黒焦げになってしまえばいいというほど、
自分に正直に正しく生きようとする人間の身代わりに、
自分に嘘をついて生きている人間の見せしめになればいい・とも思っている。
「…それは酷い」ではない。
“運動”なんてものに呑気にクビをつっこんでいる者ほど危機感がない。
かつて、あそこの山の土を牛乳瓶に詰めて遺族に売っていた者もいたが、
そういう性根の腐りきったバチアタリよりもっとワルイと思うよ、
何かの権利を主張して運動しているだけのような連中は。
犠牲になった人に失礼というより完全に他人事でしかない。
広い世の中にはもっと大変なことがあるのに、一年中、
思想新聞の“読み合わせ”とかやってる。
そんな会合の何が人間の役に立つ? 
生きることをナメるのもオトトイで終わりにした方がいい。
反共反動イデオロギーなんてどこにもない。
科学的社会主義の国家の確立は絶対にない。
人間みんなが赤い色に染まってしまったら沖縄の住民は生きて行けない。
日本の人口がどんなに減少しても
ここしばらくは沖縄の人口はもっと増えるし、もっと栄える。
それは生きることの真剣みがちがう。気合がちがう。
本土の都心近郊でメガホン持って今でも騒いでる連中とは訳が違う。
そんな時代は終ったんだよ。1985年にな。
はやく気づいてくれ。…頼むぜ。                           シングルス
 
 
あの、8月12日。 俺はそうした連中と一緒に海水浴へ出かけたまま
家には帰らなかった。
あの浜辺であの星空を仰いだとき、もう俺は、
左寄りでも右寄りでもいたくはなかった。
お年寄りの用意した思想に縛られて生きるより、
自分で自分が生きるための力を身につけたかった。
あれから20年が経った。
俺は、俺が観た星が流れる夜空を俺以上に美しいと、俺の子供に感じてほしいし、
必ずそれを観せる。
 
 
 
     ≪ 追 記 
 
     仮題: 自然界の大罪
 

 
俺にとっては、かなり前のことになるが、今から二十年ほど前、17歳の時、
一人の存在に対し、「自分の生涯をかけて…」という思い込みから、
ある晩秋の夜、「一緒に死んでも構わない…」と応えてくれたにも拘らず、
結局は青春の1ページのように終わってしまった恋を20代半ばまでずっと引き摺っていた。
 そこには、肉体と、それを容器とすると云われる心。
その両方のバランスを崩してしまうことで、
“自分の名前”に由来するある問題から、目に見えない世界と共鳴し、
自殺願望を抱いてしまう“心の歪み”があった。
 それから十年後、母親が「精神分裂」という病名を付けられることになってからも、
息子である自分にはどうにならず、何もできなかったこと。そして、
自分がやりたいことが常に遠ざかってしまう下手クソな人生の歩み方。
友達の悩みにも何一つ手助けにならない自分の存在…。
なぜかそうしたすべてを予兆するかのように、17歳の時、
「十年後、27歳になって『本当にもうどうにもならないな』と、
その頃になっても今と何も変わらなければ、自分で自分の命を断つ。
それでも少しはマシで、『あと五年くらい生きてみよう』と思えたら、とりあえず頑張ってみて、
その時になって、『やっぱり駄目だな』と思ったら、32歳の冬、必ず自殺しよう」
と、そう決心してしまった。
 それが生きている人間の役に立つかどうかは別として、巷の自己啓発関連の様々な本や、
役者のテキスト、あるいは、ウェブスターの辞書にも、似たようなことが載っているかも知れないが、
 これまでの自分の経験から、悪いことでも善いことでも、
一度、自分自身で心から、「そうしよう!」と決めてしまうと、
人間の人生とは本当にそういう道を辿ってしまうもので、
黄金率のスピードやサイクルも、善い方向より悪い方向へ進むことの方が速い。
その思いは、つい最近まで、“おかしな癖”や“思考の物体化”として残っていた。
 そういう甘ったれた頭で生きていた自分。まだ世間の世の字も知らず、
精神の成長を止めるように、自殺願望という“関所”から先へ進めなかった自分。
それほどまでに弱く、強がって生きていたことは、
この二十年以上の月日の中で、だいぶ解けてきたように思える。
 
 そのために、大勢の人に助けられ、
中でも“創った側の人”には、たくさんのことを気づかせてもらい、
こんな自分にも生きることに喜びを感じ、
生かされていることへ感謝できる気持ちを取り戻せるようにしてもらった。
 つい昨日まで父親も、
「お前たち兄弟を産んだ母親が、医者に精神分裂と云われて、
その病気が遺伝しなければいいと、オレはそれだけを願ってるんだ…」と云っていたり、
その常識も反映されていたのか、「どこか異質な存在、紙一重…」
というレッテルを、周囲に貼られたこともある。 (今もあんまりかわりねぇか?
頭がおかしい人間の扱いを受けたことも、
毎日のように、他人から罵られ、批判され、比較され、決めつけられ、時には殴られ……。
 正直云って、生きることを「大変だ…」と思って、
疲れるだけの状況へ自分で自分を陥れる生き方は、
27歳まで、それほど変わっていなかったかも知れない。
 十八歳の8月12日、新潟へ海水浴に行って帰らなかった、あの時のままの自分であれば、
どこかのテロリズムに、きっと身も心も委ねていたか、
あるいは平成九年の神戸市須磨区の惨状より早くに、
自分がソレを演じていたか…。確かに心の底から拳銃が欲しい時期もあった。
“創った側の人”のお陰で、人を騙したり殺めたりする職に就かずに済んだが、
誰にも何にも迷惑のかからない生き方で、
自分が創られた通りに生きることに気づかされたことは、
今後、どんなことがあっても命を張って伝えていこうと思う。
「世界は変わる、そこに自分の持っている力も役立たせる」と思っていた十代後半から
二十代を経て、今日までの自分には、常に軌道修正され、
自分でも軌道修正しながら、僅かでも、
最初に与えられた目的に近づいていることが確認できて来た。
 今までのように、人間として生きなければならないことを、
どこか苦しく感じたり、自分の心を敵に回し、自殺願望を掲げることで、
本来の姿から逃避する嘆かわしさもなく、やるべきことを確実にやり遂げ、
安心して死ぬことができる人間…。
そういう人間になれるよう、充実した楽しい毎日を送る自分を取り戻している。 (…一応な。) 
 
 あの、運命の“27歳”を迎える前年、平成5年9月14日午前、とある車中で、
“創った側の人”に、
「それは若いモンが通る関所みたいなもんだ…。
俺もあった、そういう時期が。
誰でも若い時、一度は考える。だから関所だ」
そう云われた言葉の落ち着いたトーンに、少しばかり気がほぐれたが、
その時そこで「その念いを捨てたい」という自分の気持ちをグズグズした口調で口走った後、
静かに走る車の後部座席から聞こえてきたのは、
「できるもんならやってみな、俺の前で、そんなこと…。
見てて手伝ってやるから…、やれるもんならやってみればいいじゃない…」
という言霊だった。
 俺は22歳の時にも、やはり、“創った側の人”に心を洗われている。
 それは、鰈の唐揚が美味い京国料理の、ある小料理屋で、正直にも抜け抜けと生意気に、
自殺願望を持っていることを打ち明けた時のことだった。
「う~ん、それは困ったねぇ。
…あのね、自殺するといことは何よりの罪だよ。
世の中にある犯罪の、最も悪い、最高の罪だ。
…だってねぇ、生きているんじゃないんだよ、生かされているんだよ。
だから自然界に対する物凄い罪、大罪だよ、それは。
この世に創られて産まれた人間が、
親よりも先に、自分から勝手に死ぬなんてことは、
それほどの大罪、自然界に対する叛逆行為はないよ」
 その言葉を発する眼を見れなかった俺の横で“創った側の人”は続けて、
「生きることは義務だよ。義務の遂行だよ。それこそ、鳥でも、昆虫でも、草も木も、
どんな者であっても、自然界に生命を持っているならば…。
生きることは限りなく義務の遂行でしかないよ」
 そこに淡々と温かく聞こえた、その大切な応えを聞いて、
ただただ涙するばかりの俺の横で、先生は、
「まぁ飲んでよ」と優しく、酒を注いでくれた。
 今でも時々、自分の手元の温かい徳利を、
気の利かない自分よりも先に傾けてくれる姿を想い出してみると、
あの日の洗心、突っ張った心が癒されたことを痛感する。
 それからの五年間、27歳までは、夏が過ぎ行く度、様々な葛藤の中で過ごした。
 考えて眠らない日もあれば、考えて疲れる自分をごまかしながら、
相変わらず他人の不幸を笑い飛ばしたり、誰かを愚弄して平気で傷つける台詞を吐いては、
後でその自分を懲らしめるために職を転々とした。
次から次へ解決の着かない問題を独り抱え込んでは、
その一つ一つを蹴散らすかのように酒に溺れ、時には腹癒せに器物を破損する…。
そういう馬鹿げた人生を歩んで「当たり前だ」という自分を演じてきた。
 そんな歪んだ生活の中、幾つか、怪しくおかしな癖や悪趣味もあった。
 ひとつは、刃物を握り、しばらくヤエバの輝きを見つめながら、身近な物でその切れ味を確かめること。
二度か三度、先の尖った物を人に投げつけたこともあったが、ある映画の最後で、
アランドロンが、悪役の相手の隠し持っていた拳銃より先に、
手元の銀のペーパーナイフを相手の胸に刺すシーンには憬れた。
また、勤め先の電動工具を使い、鋼の破片を鋭く研いで
“世界にたった一つしかないナイフ”を自分特性に作ってみたり、
完成すると必ず、それを板切れなどに投げつけ、狙いを定めた場所に美しく刺さるまで訓練する。
 自分の手で拵えた刃が勢い良く、ストンッ!と、
建物の壁や床に刺さる瞬間の感触、心地好さは、「何とも云えない…」という想いで、
おそらく時間が許す限り、いつまでもやっていた・かも知れない。それはまた、
小学校低学年の頃、もの心ついてから間もないうち、
既に自分の中に存在していた“独り遊び”の世界だったようにも想える。
 最早、誰の身に何時、何が起こっても、まったく不思議ではないほど自然が崩壊した今日、
もしもあのまま運悪く、何か大きな災難に見舞われていたなら、
おそらく、“北関東の七つの大罪”になっていたかも知れない。
 もっとも“自殺する”という犯罪行為よりはマシだったかも知れないが…
 とにかく刃物は、怖いけど好きだった。
 その悪趣味が、どうして自分の中に在ったのか!? 
 それも、例の“自殺した人”と関係があったことが、やはり、つい最近になって判って来た。
  
   つづく。
  
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犯罪心理学の盲点  新・自殺犯罪 最前線 
~ 動物の霊に操れられる奴の魂の階級も上へあがれるのかい?』 より
  
  
  
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