兵庫県現代詩協会について。
この協会、名前が厳(いかめ)しいから、敷居が高いですよね。
僕も8年前、詩を書き始めた'16年12月の時も、僕には縁遠いプロ詩人の集まりなんだろうな、と思っていました。
だから、協会の主催する(年に一度ある)無料の「詩のフェスタ神戸」に、ありがたく参加しながら、
敬して遠ざけていました。
で、3年ほど経った、’19年11月に入会しまし)た。
その年の2月から本格的な詩の投稿を開始していたし、いつか会長の時里二郎さんとお話をしてみたかったんですよね。
兵庫県現代詩協会は、兵庫県在住じゃない大阪の方もおられますし、別に詩集を出していなくても、詩がお好きな方なら参加できます、実は。
これをご覧の、近畿圏の方々、いかがですか?
ぜひ、入会しましょう。
今なら、リアル僕と話ができる特権付きです。笑
(僕は、役員でも幹部でも、古参会員でもないので、隅っこにいますから、見つけにくいかも、です。笑
人見知りなので、某女子大学の教室関係の知っている方々に黙礼して、こそこそっと帰っています。)
で、昨日は、所属している兵庫県現代詩協会の総会と、親睦会でした。
そこで、協会の既知じゃない人に、
昨日は、ビール片手に、問われるままに、自分の中の、詩と小説の関係について説明しながら、気づいてしまいました。
何をか?
* * * * * *
さて、それを書きます。
急に真面目な、かつ、大それたことで語り、書きします。
「僕にとって、詩を書くことは、もう自己実現でも、自己表現でもなくて、それ以上の、僕がこの手で世界を変える野心の、一つの手段でもある」
はぁ?
以前、僕は、自分で、苫米地英人さんやその他の方々が書かれたことに賛同して、
大目標、大煩悩を立てました。
いや、詩を書くことだけじゃないんです。
小説を書くことも、加わっています、です。
手始めに、兵庫県で、詩を使って、講座を持ちたいなあと思っておりますが。
最終的には、どうなるか、わかりません。
「一人でも多くの人に、詩を手始めに、さまざまな文学表現に目覚めてもらって、兵庫県を出発点として、日本を、世界を変えたい」
だって、表現することは、自分の盲点(スコトーマ)に気づくことで、言語化できていない認識を、書いて、部分と全体をリンクさせるのがゲシュタルト思考だから。
これを、大目標・大煩悩とします。爆笑
(頭、おかしくなってますよね。でも、真剣な目標です。)
で、急に現実的な話を、以下、メモ書きをそのまま書き写します。
そのためには、世に出ないといけない。
無名から有名へ、と、のし上がらないとね、いけないんです。
詩の世界で、それを、のし上がろうと思えば、詩集で受賞する必要があるんだけど、
詩集の場合は、実力が必要なことはもちろんのこと、それ以外に詩集を出すお金が、運以外に何よりも必要なんだよね。
また、詩集を出せるなんて、金銭的にも内容的にも、数年に1回きりだ。
そういう意味では、小説の方が世に出るチャンスがいっぱいある。
何よりも、中央の、大きなものを受賞さえすれば、勝手に宣伝される。
つまり、零から出発し、徒手空拳で勝負できるのが小説なんだよね。
結論としては、すごく難易度は高く大変だけど、費用対効果では、詩よりこちら、小説だ。
対して、短歌・俳句は、詩よりも初心者がとっつきやすいけど、束縛と制限が大きいよね。
詩の方が自由度があるけど、愛好者人口が極端に少なく狭い世界。
お偉い方々がひしめき合って、群雄割拠。
個性のプチ戦国時代でしょう。
きっと、僕個人だけが詩の世界でいくら頑張っても、いや、誰が頑張っても、何も変わらない世界。
もともとが個人主義な世界ですから。
だから、と言って、現状は皆、沈む「詩という船」のことは一切、気にせず、いる状態。
(そもそも、日本自体が岸田くんの頑張りで滅び壊滅しつつある令和6年)
けど、短歌・俳句と違って、詩は小説へ飛び移れる。
ということは、僕だけじゃなく、一人の、詩人兼小説家を,作れば、いいんだ。
いや、1人じゃなく、2人、4人、10人、50人とね。
それなら、変わる。
いわば、織田信長を50人、揃えれば、既存の戦国史は根本的に変わるでしょう。笑
そのルート自体は、すでにあるけど、みんな特殊だと思っている。
たまたま、2刀流になる人がいる、特殊かつ秘宝的なものだ、と思って、疑わない。
ある意味、正しくて、そうなのだろう
でも、果たして、完全にそうなのか?
そもそも、文学のジャンル分けに意味があるのか?
手始めに、僕が、その詩と小説の公開された、分岐ルートを作りましょう。
また、小説はインパクトが大きいけど、ちゃんと実力を育て保持してしないと使い捨てされる。
映画・アニメと他メディアヘ拡散できる強みは最大の力だ。
何を、馬鹿なことを書いてるんだ、と自分でも思います。
常識人から見ると、
元々、詩を書くことさえ非常識なのに、何を寝ぼけたことを言っているのか?
ええ。
これらは、正常な判断ではないかと思います。
それがほぼ99%正解なのでしょう。
でも、1%違う、と僕は主張したいです。
僕の残りの人生を、実現へ向けて努力してみます。
だって、日本と日本文化が好きですから、決して国粋主義ではなく、外国の文化、漢文や西欧、ロシアも含めて、文学が好きですから。
人間が好きですから。
詩や小説を、少なくとも俳句や短歌並みに、入れる文学にしたいんです。
いわば、文学から、日本社会を変えたい。
後の人たち、未来の日本人に、変に「常識の正しさ」で歪んだものじゃない、誰もが感じ・考えられる、普通の世界からのルートを残したいんです。
そこを歩みたいと思う人たちをアシストして、育てるお手伝いをしたいんです。
もともと、どれだけ憧れても、まともに詩も小説も書けなかった、
16年前までの才能無しで全く書けなかった僕でしたから。
だからこそ、できることをしたいんです。
そんな人たちへ、俳句や短歌と同じく歩める、希望のルートを残したいんですよ。
もちろん、最後の頂へ、登頂成功するのは、個々人バラバラ、たどり着けるかどうか、「天分」という、訳わからない世界のものだとは、当然思っています。
そこまで、僕個人の力の及ぶ範囲じゃない。
が、その第1歩を、韻文(短詩系も含む)と散文への入り方から、小説と詩へのルートを作ることは、僕にもできる。
いや、僕にしかできないか。