一昨日の金曜日、わずかアクセス数212で、28位でした。
いつもなら、350ぐらいは越えないと、20番台にならないのですが、
GWで、全体のアクセスが少なかったのでしょうね。
さて、昨日は、ずっと書いていた、今年度の国民文化祭の募集する「清流の国ぎふ ショートショート文芸賞」向け原稿を、2篇書き上げ、推敲もして完成させました。
今日、郵便局へ直接、持っていって、投函します。
マーサさん教室へ出す課題詩は、7割程度の出来ですが、草稿を書いてはおります。
もう3・4日、寝かせて完成予定です。
で、ここまでは予定通りなので、ここも予定に従って、内田百閒文学賞50枚に行かないで、
先の、次のラスボス級の大物の、文學界新人賞向け原稿へ向けて、本を読んだり、案を練り直すつもりでいます。
どの道、金曜の夜に三ノ宮駅で乗車する寝台特急サンライズ出雲のことや、土日の栃木県スクーリングで、一旦、大きく気勢が削がれますからね。
それに、今日は午後、兵庫県現代詩協会の総会と、その後の親睦会ですから。
何度も書いているように、シンクロニシティ的な流れや、「新しい詩の声」の受賞、小説創作の腕前向上といい、
今年は当たり年なのは確実なようなので、
どんどん、いろいろな挑戦をして、成長する機会をつかんでみようと考えています。
どれだけ創作の秘密に近づいた認識が持てても、実際に作品を描いて検証しないと、「絵に描いた餅」止まりですから。
ところで、今までは小説・物語は書いていても、実は気がつかないうちに、児童文学という首輪と足枷を自分に嵌めていたのだと、
最近、つくづく思います。
小説の講座はしっかり受け続けていたし、バンバン小説の分析読みはしていたのに、
書く際は児童文学という枠の中に、自分自身が無意識に押し込め、閉じ込めていたようなのです。
ある意味、自分で自分に催眠をかけて、洗脳していたんです。
「お前には、まだ本格的な小説は書けないが、児童文学なら書けるかも知れぬぞ」と。
同じ物語ジャンルでもあるし(?)、ヤングアダルトなど小説系と瓜二つに見えるものもあったので、幻惑されていたのですね。
そこから、小説道へ入るなら入りやすいだろうと安易とまでは行かないけれど、
それがベストな選択だと思っていた。
けど、今回、ショートショートを書くために、星新一さんの作品、数十を分析読みしてみて、気づきました。
俳句や短歌が、決して詩と書き方はまるで違うように、ショートショートは小説とは違う型・制約があるんだなあ、と実感しました。
もちろん、今回の応募作は原稿用紙3枚という無謀とも言える制約があったからこそ、気づけたことですが、
ほぼキャラクター性でオリジナリティは出せる枚数じゃない。
なら、後は世界観とストーリーで勝負。
ストーリー展開そのものの自由にできる空間・枚数もない。
だから、ストーリーは1イシューで、書かれないゲシュタルト空間・感覚を利用せざるを得なくなる。
今年の3月以降でなければ、このゲシュタルト的な書き方はできない。
前に、4枚小説の講座を1年弱、受講していた経験が活きました。
今では、4枚という、プラス1枚がどれだけありがたいものか、しみじみと実感し、わかりました。
今、10枚で書いていいというなら、すごく長いなあ、楽だなぁ、と感じますよ。笑
また、星新一さんの、エヌ氏を主人公にした、乾いた語り口に、
長い50枚以上の児童文学を書くときに、自分の幼年時代の経験にすごく引っ張られた〈湿った〉書き方をしてことにも、改めて気づかされました。
今回の、ショートショートを書く経験も、大きな目で見たら、後に、より長い小説を書くための大事な布石になった、と感じてしまいます。
その意味では、一見、寄り道をしているようにも見えると思うんですが、
こうしたさまざまな発見があるので、これもまた、シンクロニシティの一環だったと感じます。
きっと、来週に再開する内田百閒文学賞50枚も、一連の流れの重要なパーツや経験になるのでしょうね。
こうして自己暗示的に確認を重ねつつ、文學界新人賞への挑戦準備を、今週限定で少しずつやっています。
今日、今、この時からね。
目標は100-120枚ほどか。
できれば、7月初めまでに草稿を完成させたいな。
あらゆるシンクロニシティの流れが、そこへ向かって収束しているのを感じるからね。
たぶん、僕の現代詩作品に通じる、モダニズム的なお遊び表現が入る作品になるはず。
やっと制限なく、書ける、と思うと楽しみです。