今日は、午前中が近くの小学校で、バドミントンの開放教室のコーチをする日だ。
でも、出動にはまだ時間があるから、ショートショート文芸賞の3枚の仕上げに取り掛かっている。
けど、考えてゆくと、一昨日の22枚とは勝手が違うよな。
書けない、見えない空間への思惑や意図を最大限に生かさないといけない感覚が大事になってくる。
できるだけ、一昨日の小説の書き方と、ある意味、つながっている部分を頼りに、コントロールしてみる。
制御のポイントは、作品における独自のキャラクター性入れる枚数がなく、既存の存在の流用で読み手任せ点のが特徴かな。
で、ついストーリー展開に流れてしまいそうだけど、そもそも展開させる枚数・空間もないんだから、
結局、これは、どう見せるか、考えさせるかの、世界観メイン勝負になるんだよね。
午後、帰った後が本格的な仕上げになるけど、今の間に、できることをやっておこう。
2篇応募できるうちの、1篇は星新一風にしてオマージュ作品にして、もう1篇は全く独自のものにする予定。
今、真剣に、一つ大きな流れを考えているからね。それは、
「清流の国ぎふ ショートショート文芸賞」→(「坊っちゃん文学賞」)→6月「文學界新人賞」
というもので、
もちろん、「文學界新人賞」が制覇すべき大きな山だ。
今回のショートショート文芸賞は、詩と俳句ほどに、枚数制限からくる表現形態が違うから、
さっさと片付けるべきものだ、と感じている。
でないと、また感覚が雲散霧散しちゃうのは確実だからね。
この感覚を絶対、保持して、いつでも呼び出せるようにすることが、喫緊の、絶対必要な課題だよね。
坊っちゃん文学賞は、文學界新人賞と同じだから、順序を逆にしようか。
そもそも、10枚で書きやすそうに見えるから、入れただけだし、究極やらなくていい。
真剣に取り組むと、また感覚がブレちゃうから、あくまでも筆安めに徹するべきだ。
次の流れが、
7月「伊東静雄賞」「詩と思想新人賞」と「白鳥省吾賞」→8月「群像新人文学賞」と第2詩集作り→
10月「ニッサン童話と絵本のGP」、「三田文学新人賞」→11月「太宰治賞」
、となる。
うーん、こう、小説中心の創作活動を考えれば考えるほど、困難なミッションだと感じる。
だから、つい書き慣れている15-30枚ほどの童話へ逃げたくなるけど、
ライフワークの、ニッサン童話と絵本のGP以外はやらないよう、極力、厳しく戒めないといけない。
息をするように、考えてしまう詩のタネは日常の中に組み込まれて、もうすっかり体の一部だから、時々、吐き出さざるを得ない。
けど、童話・児童文学はあくまで非日常なもの。
それをうっかり入れちゃうと、同種の非日常な小説系が入らないのは、もう10年近く同じ間違いをくり返してきたんだから、そろそろ学ばないといけないよね。
その拡散して、凝集した作品ができない過ちは繰り返さないに越したことはない。