詩の教室の続き 詩と小説の語法 | 読書と、現代詩・小説創作、物語と猫を愛する人たちへ送る部屋

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小説や詩の創作、猫また大学通信を書いています。Twitterは、atlan(筆名:竹之内稔)@atlan83837218 放送大学在学中。「第8回新しい詩の声」優秀賞を受賞。
 京都芸術大学の通信洋画&文芸コース卒業/慶應義塾大学通信卒業/東洋大通信卒業/放送大大学院の修士全科生修了。

昨日、書いた詩の教室の続きです。
終了後、何人かでお昼を食べに行きました。

そこで、皆さんから口々に聞かれたのが、
詩の文章と、小説の文章は違うの? という質問でした。

これは、小説の教室で、
詩も書きます、と僕が言うと、その逆を時々、質問されます。

面白いことに、
詩を書く方は、小説も書いてみようと関心がおありなんですが、
小説の方は、詩は書けないと言う信念がおありの場合が多く、
質問は純粋に知的好奇心のようで、熱量はありません。(笑)

どうなんでしょう。
詩は、取り敢えず、どの辺まで書けば、
つまり言葉の密度を上げれば、何となくこれで入選レベルになったな、と言うのは、最近、自分で分かるようになりました。

だけど、小説は文章の密度は関連する場合もジャンルによりあるけど、
それとは、別原理があるように感じてます。

それは、ある意味、文章が短いか、長いかも関係してる気もするし、
また、それとは無関係な《語法》がある気がしています。

普段、師事している大家の某先生は、
「小説はね、ここ差し障りがあるので、違う表現でお願いします、と編集から言われたら、
すっと変えれますけど、
詩はそうじゃないでしょう。
   小説を書く方が楽ですよ」
と、笑って仰っておられます。

たぶん、それが真実です。
二つはある意味、全く違うと思っています。
日本語と英語を喋るとき、それぞれ違う人格になるように。
または、どちらも上手く描けていても、彫刻家のデッサンと、画家のデッサンがまるで違うように。
彫刻家のデッサンはその先にある立体化の長い旅路の前哨戦でしかないんですよね。
( もちろん、絵も油彩画のためのエチュード・習作のときもあるんですが )

けれど、
この間、志賀直哉の『城の崎にて』を読んでて、
現代詩と凄く共通する感性というか、テーマ性の表現方法を感じました。

「言葉にならないもの」を書こうとしているんだな、と。
その点では、現代詩を書くこと、
いや、そもそも、詩を書かざるを得ないことと、
共通している気がしました。

そう、とにかく、「長く文章量があること」。
これが小説の特質全てに関わっています。
余白とともにある詩の持つ「短く省略を理想とするもの」という性質とは、真逆な性質ですから。

「城の崎にて」は短いし、ある意味、エッセイ的なものでもあり、自己を含め対象を見つめる視点は自己観照的で、詩に限りなく近い書き方ですよね。
小説の神様の俗称を持つ志賀直哉の文体は、エッセイ的でもあり、
散文詩的でもある、と僕は思います。

その辺に、詩と小説の違いの答えが潜んでいる気がしています。

この答えは明日に続きます。