小説と、詩 | 読書と、現代詩・小説創作、物語と猫を愛する人たちへ送る部屋

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小説や詩の創作、猫また大学通信を書いています。Twitterは、atlan(筆名:竹之内稔)@atlan83837218 放送大学在学中。「第8回新しい詩の声」優秀賞を受賞。
 京都芸術大学の通信洋画&文芸コース卒業/慶應義塾大学通信卒業/東洋大通信卒業/放送大大学院の修士全科生修了。

昨日に引き続き、小説と現代詩との違いについて。

今日は小説面からの視点で。


自分の小説には何かが足りない。

何だろう。

深く考えてみた。


①詩を書くときになら、中心にあるモヤモヤ。言葉にならないもの。

   その中心にあるものがないまま、曖昧にストーリーだけを書いている気がする。

 

②詩の場合、リアルに存在する事実と対峙して、曖昧な言葉との落差を探して、埋めていく感覚で書いているし、推敲もその線上にある。自分の小説に対する姿勢は違うな。対峙するべきモヤモヤの核が不明確で存在しないから、弱い。外側から物語を作ろう作ろうとしている気がする。

    もちろん、詩と違って、いつも「非日常」な中心核と向き合っている訳じゃない。詩なら、対峙的に示すだけで済む「日常」や「設定」を詳しく書かないといけない気がする。いきなり太陽本体や地球を書くんじゃなくて、冥王星から書いていくような感じかな。


③いや、小説と詩の書き方が違うのではなくて、自分の今の小説を書く書き方が単純にストーリーでオチを付けなければならないという近代詩的な思い込みに囚われてるからじやないか。

    吉田修一の『女たちは二度遊ぶ』においても、一見、ストーリー的なオチに見えるけど、それは多分に読み手が脳内補完してるから、そう感じるだけでは? 実際には書かれていないことがオチになっているようだ。

   文字化されたストーリーだけがストーリーじゃない。むしろ、オチは書かれていない言外に置かれているんじゃないか?


④現代詩的な書き方では文字化された文章に、オチは必ずしも必要ない。

近代詩的なワタクシ語りでも、一部はそうだ。

あるレベルを超えた詩は、主題は途中からの積み重ねで表現されている。

詩全体で示されている。


   小説もそうなんじゃないか。

   自分の欠点は、物語的な展開として、話にきっちりしたオチを付けよう、付けなければならないと固定観念に囚われてしまっていること。

    『女たちは二度遊ぶ』では、語り手としての僕を配置しておきながら、登場人物のエピソードの流れだけで、その感情の起伏を追体験させて、読み手を楽しませる吉田修一の作品。

だからこそ、オチは不要で、突然、消えるだけで納得させられるのか。


まだ、考えなくちゃならない中途半端な段階だ。

まだまだあるはず。

ここを突き詰めて、答えを、出さないと、

根本的に小説の創作力が飛躍しない気がしている。


そもそも、こんなうだうだ無駄なことを考え抜く癖があるから、

レポートを書くのも好きだし、

結果的に、現代詩を書くようになったんだよね。

廻り道する欠点こそ、僕の長所でもある。

ややこしい!