ラブレス | 感傷的で、あまりに偏狭的な。

感傷的で、あまりに偏狭的な。

ホンヨミストあもるの現在進行形の読書の記録。時々クラシック、時々演劇。

ラブレス/桜木 紫乃

¥1,680
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愛に裏切り続けられてもなお愛を信じた女の最期は。

ネタバレはしていないつもりだが、ちょっと予測可能な感じで書いています。
ラストは知らない方が楽しめますので、
この作品を読むつもりのかたは、またあとでお会いしましょう。


(あらすじ)※Amazonより
馬鹿にしたければ笑えばいい。あたしは、とっても「しあわせ」だった。
風呂は週に一度だけ。電気も、ない。
酒に溺れる父の暴力による支配。北海道、極貧の、愛のない家。
昭和26年。百合江は、奉公先から逃げ出して旅の一座に飛び込む。
「歌」が自分の人生を変えてくれると信じて。それが儚い夢であることを知りながら―。」他人の価値観では決して計れない、ひとりの女の「幸福な生」。
「愛」に裏切られ続けた百合江を支えたものは、何だったのか?
今年の小説界、最高の収穫。書き下ろし長編。

◆◇

第146回直木賞候補作品である。

自然体、とか、あるがままに、とか、自分に素直に、とか。
そんな言葉、この作品の前ではクソみたいな言葉だ。

みんな、どこかで現実と折り合いをつけて生きている。
愛を貫くために今の仕事を捨てることができるか。
愛のために自分の人生を棒に振る事ができるか。
みんな、愛と現実を天秤にかけて、一番いい形で生きようとする。
それは当然であり、それはきっと、生きる防衛本能だ。

しかし時に、防衛本能を失っている人がいる。
こうしたい、という目標を持たずして、ただ、自分の気持ちに素直に生きる。
夢と愛だけを求めて生きる、だけでなく、
気高く生きる、ということもない。
こういう生き方は恥ずかしい、ということすらない。
時には向こう見ずに飛び込むのだ、自分の心に住む愛だけを信じて。
それが百合江という女である。

この作品の一番のポイントは、そういう人物に女性を据えたことである。

愛のために何もかも捨てて生きる男、ってあまり聞かないもんなあ。
男は基本、社会的動物だと思っている。
今ある地位や暮らしを捨てて、愛を求める、とか、
自分を捨てて献身的に女性を支える、とか、やらない動物だ。
逆はよく聞く話なのに。
無職時代、パートをしながら生活費を稼ぎ、夫を献身的に支えて大成させた、とか。
かけおち、とかも、
お嬢様と無職のダメ男、はよくあるが、
ボンボンと無職のダメ女、はほぼ皆無。
だって、男は社会から離れたら、存在理由がなくなってしまうものだから。多分。

女は自分で立つこともできるし、愛にもたれて生きることもできる。
男は社会にもたれかかることしかできない。
男って世の中に要らなくね?というくらい、この作品は加速度的に男性不信が増す。


百合江は、男として、人間として、宗太郎を愛した。
宗太郎はそれなりに、気持ちだけは、それに答えようとした。
いや、そこまで考えていただろうか。
百合江とずっと一緒にいられたらいいな、ぐらいか。
当初から、百合江に対する責任、など全く感じられない男であった。
しかし、一緒にいたいな、という望みすらかなえようとしなかった。
自分の大好きな仕事ができないから。
自分の生きる意味を見いだせなくなったから。
そして、突然、百合江の前から消えた。
大好きなユッコちゃん(=百合江)も、子供も、何もかも捨てて、
自分の生きる道のために、二人を捨てたのだった。

ただ、ここでうまいなあ、と思うのは、宗太郎を憎めない人、として描けていることである。
ダメ男極まりないのだが、こういう人、いるよね~、と思わせてしまうのである。
(あら、私、だめんずに捕まっちゃうタイプ?)
実は、ここが重要。
ここで宗太郎を憎むべき存在として描いてしまうと、ラストに生きてこないのである。

そして、妹里実の強い薦めで再婚。
これまたダメ男だった。
やはり自分、自分、の男だった。
この高樹という男は、宗太郎とちがって、憎むべき男、としてしっかり描かれている。
そして、やはり後々、その憎しみが生きてくる。

さて。
百合江は、百合江のために生きてくれる人と全く出会うことがなかった。
いや、違う。
一人だけいた。
それが、妹、里実である。

これがまたポイントでもあり、うまいとこ。
「姉妹」の複雑な空気感が見事に描写されている。

私も姉妹ではある。
ここまでひどい姉妹っぷりではないし、仲の良い方だと思うのだが、
なんか、この、感じがすごく理解できるのだ。
頭で理解するのではなく、肌でこの姉妹の空気を理解することができる。
さらに言うと、うちの母と伯母、からこの姉妹の距離感がよくでている気がする。
母と同年代の姉妹がこういう関係性だったのではないだろうか。
自分らしく生きる、などという生き方がまだまだ浸透していない時代に、
自分らしく生きようとする、破天荒な人がいたら?
そんな人が家族に、姉妹にいたら?
考えただけで、息苦しい。

百合江と里実もそうであった。
幼いころの複雑な生い立ちからくる、微妙な距離感。
しかし、どこかで、血縁関係以上の信頼関係ができている。
細胞の奥に刻み込まれた関係が、里実と百合江の一生に関わってくる。
姉の百合江は、世の中の全ての事象から遠ざかり、自分の人生を眺めるように生きていた。
妹の里実は、世の中全ての事象に深く関わり、自分の人生も自分に関わる他人の人生をも、
私が変えてみせる、かのごとく、生きていた。
飄々と生きる里実。
力強く傲慢に生きる百合江。
その生き方はまるで逆だが、起因は同じなのである。

ダメ男と百合江、百合江と里実、の関係が横の糸。
そして縦の糸として、両親と百合江、両親と里実、の関係がある。
さらに、父と母を結ぶ複雑な糸。
それらの糸が、縦に横に、とあざやかに織られていく。

これらの人間関係の織りなす糸の始末をもう少し美しくまとめていけたら、
さらによかったんじゃないかと思う。
弟たちといい、糸と糸のむすびつきが、粗めで雑であった。
すんなり読める、という意味ではよかったのかもしれないが。

ただ、
母のハギと、百合江の娘の理恵の短いひとときは、
長く織られ続けた話の糸の玉止め的に描かれており、物語を中断させるものでもあるのだが、
息苦しい呼吸を整えるのには、最適な場所できゅっと結ばれていたように思う。


そして、百合江の最期の時。
そのかたわらにいたのは・・・

私が想像した人物とは全く違った!!!!!

ぎょえーーーーー。

里実も力が抜けて、へなへなと座り込んでいたが、私も座り込んでしまった。
ってもともと座っていましたが。

いやー、まさか、こう来るとは。
やってくれたな、桜木紫乃。

(ラスト引用)
小夜子(里実の娘)は自分が塵のような存在になって、百合江の一生を眺めている気がした。ベッドの枕元で囁き続ける老人と、百合江の目頭に光る涙。
見開かれた瞳にふたりを移して、里実の体が壁をつたい床に崩れた。
百合江は、玉手箱を開けずに逝くことに決めたのだろう、いや、と小夜子は首を振った。
開ける必要がないのだ、このひとは。
どこへ向かうも風のなすまま。からりと明るく次の場所へ向かい、あっさりと昨日を捨てる。捨てた昨日を惜しんだりしない。(略)

百合江は、宗太郎が目の前から消えても、悲しみはしたけど、恨まなかった。憎まなかった。
それがすごく、すごく、違和感。
違和感を覚えるのは、百合江という人物に対する違和感ではなく、感情への違和感。
百合江はそういう人なのだ、という説明は、その憎しみのなさに表れているから。

宗太郎は自分の前から去ってしまった・・・・
という喪失感はあれども、
宗太郎がそうしたいならそうすればいい、という感情が百合江の心を覆っていたのだった。

それは愛なのか、愛じゃないのか、もはや私にはわからない。
ただ、10年くらい経てば、そういう境地でいられるのかもしれない。
百合江は、普通の人なら10年はかかる気持ちの整理を一瞬でできる人なのだ。
いや、整理なんてする必要がないくらい、執着が全くなく歩いていられる人なのだ。
愛と執着を切り離して考えられる人。

愛してる、と、さようなら。
愛されること、も、
さようなら、も、
自分の体を通りすぎる空気のように受け入れる人。
思えば、思春期、レイプされたときも、
なんだあんなもの突っ込みやがって、と強く思うことで、
その事件を、通り過ぎる空気のように、忘れることができた。
ううん、忘れようとした。

強く思うことで、自分の心をコントロールする。
鈍くなれ、鈍くなれ。

なんという強い人なんだろう。
流されるがままの人生を生きる人なのに、そんな何も持たない百合江が一番強い人間であった。
ただ、生きる、それだけ。
子供を取られたり、子宮を失ったり、かなり過酷な運命をたどっているのに、
それでも明るく、飄々としていられる。
柳のような強さをもった百合江。
たおやかで、しなやかで。
その芯にあるのは、愛、なのか?それとも、何もないのか?
読者はそこがあまりにぼんやりとしていて、霧に囲まれたような気分になる。
だからといって、モヤモヤした気分、でもない。
そういう人生もあるのだろう、という感じ。

考えてみたら、
ユッコちゃんが愛した宗太郎は、愛してる、だなんて言わなかったな。
ユッコちゃんもそう。
そう言えば、登場人物、みんな「愛」を口にしていただろうか?
記憶にある限り、愛してる、という言葉を誰の口からも聞かなかった気がする。

ユッコちゃん、だいすきよー。

ユッコちゃん、愛してる。
も差異はない。
だが、愛、という言葉はない。
だから、ラブレス。

愛が人生の中心にあるのに、言葉にはしない。
心のずっと奥で、自分の芯として存在しているから。
宗太郎を愛して、宗太郎に自分をあずけたわけではない。
宗太郎を愛する、自分の中の愛に自分をあずけたのだ。
だから、宗太郎を憎まなかった。
自分の中にある、愛、を失うことはなかったから。
きっとそうだ。

あるがままに生きる、とは、かくも難しいことなのか。
と改めて考えてしまう作品であった。

この作品の敗因の一つは、
登場人物の誰に対しても、入れ込めない、ということかもしれない。
こんな生き方すげえな、と思っても、こうなりたい、とはあまり思えない。。。
愛に生きる人生がいいと思うのだが、さすがに百合江ほど波瀾万丈で、
しかもなんとか修正がききそうなのに、それを流されるがままに生きて行く姿は
むむー、なのである。

全体的に読んでみて、大変よかったし、圧倒的な世界観に私は押されまくっていたのだが、
桜木紫乃氏、今後の作品はこれよりいいのが書けるかどうか、というと、
ちょっとどうかな、とも思う。
文章といい、構造といい、これが精一杯かもしれない。
桜庭一樹の作品を初めて読んだとき、そりゃいろいろと文句をつけようと思ったらあるけれど、
他の作品をどんどん読んでみたい、と思えた。
が、桜木氏の作品は、他の作品に食指があまりのびないんだよなあ。
あんなに感動してたくせに、案外辛口あもちゃん。
ひとかわ向けた桜木氏の未来を祈っております。


※読後から2か月も経ってしまい、なんだかおおまかな書評になってしまった。
 申し訳ないです。
 誰に申し訳ないって、一番自分に申し訳なく思う。
 やはり書評は熱いうちに打て、である。
 あの胸を熱くした感動を充分に書き付けることができず、かなり後悔。


この作品、百合江の一生を描いているため、
登場人物が入れ替わり立ち替わり、忙しい作品でもある。
しかも女性が結構多くでてくるため、慣れるまでが少し大変かも。
さらに時系列も、現在と過去、を行ったり来たりするので、しっかり読まないと、
いま、どこに立っているんだっけ?と自分の位置を見失うこともあるかもしれない。
迷子にはご用心である。