Naomiのスピリチュアルジャーナル -230ページ目

イスラエル 元旦はエルサレムで

翌日、1月1日金曜日。イスラエルでは金曜日、土曜日が週末。金曜日の日没から安息日が始まる。
宗教家は電気をつけることも、ものを書くこともしない、本当のお休みの日だ。
ベビーシッターをしていた時、宗教家の家に滞在していたので、家にいる時はこの習慣に従うことになったけど、とてもいい習慣だと思う。仕事をしてはいけないし、何かを創造してもいけないから、家族と静かに過ごすことが出来る。

その日はエルサレムにいる日本人の友人の家に行くことになっていた。一緒に観光ガイドのコースを取り、資格を取った後はよく仕事を手配してくれた女性だ。

朝、ダナとシャロンと、車でエルサレムへ向かい、旧市街をまわることにした。
エルサレム旧市街は塀に囲まれた、典型的な中東の都市で、イスラエルで最も重要な場所だと言える。ユダヤ教の最も聖なる神殿があった場所で、残された神殿の壁が「嘆きの壁」として残っている。その神殿の丘にイスラム教徒がモスクを建て、ユダヤ教徒とイスラム教徒が争う原因となっている。アルメニア人地区、イスラム教徒地区、キリスト教徒地区、ユダヤ人地区に分かれている。キリスト教徒地区には有名なヴィア・ドロローサ(裁きの道)がある。今ではお菓子や果物などのお店が並ぶ狭い道だけど、イエス・キリストが十字架を背負って歩いた道で、ゴルゴダの丘(磔にあった場所)とされ、聖墳墓教会(つまりイエスのお墓)が建っている14の地点がある。一つ一つの地点は、イエスがつまずいたとか、手をついたとか、ベロニカと会ったとか、聖書に基づいた彼の行動にまつわる場所として設定されている。この教会もカトリックやコプト教会、アルメニア教会などキリスト教の様々な流派が権力争いをして、様々な領域に分かれている。

昔の記憶をたどりながら、最初は聖墳墓教会へ向かった。
新年ということもあってか、割とたくさんの旅行者がいた。
今現在、テロ活動も落ち着き、しばらくイスラエル国内で自爆テロは起きていない。
シャロンに理由を聞くと、まず西岸との壁を作ったこと。後はモサド(イスラエル諜報機関)がきちんと仕事をして、事前に情報を収集できているから、と言っていた。
イスラエルがテロリストの侵入を防ぐために西岸地域とイスラエル(ユダヤ人居住区)を隔てる巨大なコンクリートの壁を建て始めたのは数年前、それに伴いユダヤ人地区へ出稼ぎに来ているパレスチナ人も制限させることになり問題になった。私もこの不自然な壁は力の差を強調するようで嫌だったけど、テロ防止に関してはやっぱり効果はあったらしい。

教会の前の広場、人込みの中でエネルギーを感じてみる。戻ってきてうれしい、という感覚はあったけど、エネルギーは感じない。教会に一歩足を踏み入れてもそれは同じだった。
多くのキリスト教徒にとってこの場所はとても神聖な場所だ。ガイドをしていた時はその知識も手伝って、私もこの場所には畏敬の念を抱いていた。でもその時でさえ、本当のゴルゴダは東エルサレムにある「もう一つのゴルゴダ」と呼ばれる場所のほうがしっくりくるな、と思っていた。
ツアーではなかなか行くことのないその場所はダマスカス門を少し上がった場所にあって、特別の波動を持っている。その庭園で新約聖書を読んでいて身体が震えたことがあった。
残念ながら今回は行けそうもないけど、またエネルギーを感じてみたい場所だ。

それでも聖墳墓教会の幾つかのスポットは強い磁場を感じた。
入口すぐの、イエスが十字架から降ろされた後に寝かされたとされる石の台は多くの信者がひれ伏す場所だからか、何か強いものを発している。人の念が詰まっているのかもしれない。

そこからヴィア・ドロローサを反対に通って嘆きの壁に向かう。
ヴィア・ドロローサでは寄ってみたい場所があった。
イエスが倒れたとされる第7ステーションで裁きの門と呼ばれる場所。イエスの時代は市外から市内へと入る門があった場所で、現在は小さな教会になっている。
ガイド時代、ある新興宗教団体の確か20人ほどのグループを案内しながら歩いていた時、この教会の前に立っていたおじさんが、「ちょうど今、誰もいないから入れ」と言ってきた。
この教会の前は良く通っていたけど、大抵閉まっているか、開いていても既に何人か人が座っていて、狭すぎて入れないので写真だけとってもらって通りすぎる場所だった。

入ってみると、本当に空っぽで、ちょうど20人弱のグループ全員が座ることが出来た。
そこで前に立った私は、一瞬、私はここで何をしているんだろう、何をすればいいんだろう?と頭が混乱状態になったのだけど、次の瞬間、何かに誘導されるように聖書の、確か詩篇を朗読し、そしてしばらくの間、瞑想してイエスとつながってみてください、と言ったのだった。
今の私にとっては普通の行動だけど、10年前、20代半ばの私は、宗教の知識はあっても、瞑想=座禅という程度の認識で、瞑想する、などと言うことを自分にも他人にも言ったことがなかった。言った後、自分の言葉にびっくりして慌ててお客さんの顔を見ると皆本当に目を閉じて瞑想らしきことをしていた。私は静まり返った教会の中で、なんでこんなことになっているのかと考えを巡らせていたが、数分後、人が入ってくるような様子を感じたので終わりにして、特別な時間を与えてくれた教会のおじさんに気前よくチップを渡して出ていき、そのままツアーを続けた。

スピリチュアルな認識を深めた今、もう一度あの場所に立ってみたい、と思った。
残念ながら行ってみると、その教会は外から鍵がかけられ、周りにも誰もいなかった。

その宗教団体はキリスト教と仏教を組み合わせたような団体で、創始者はイエス・キリストの意識とつながったこと、仏陀が世界のどこかに再来する、と言うようなことを言っていた。今思えば、チャネリングのことだったのだと思う。

イスラエルに旅するような人は普通のリゾートが飽きた人か、宗教家、またはスピリチュアルな人なので、たまに前世とやらについても話す人がいたけど、当時の私には信じられないというよりは理解出来ない、別世界の話なので聞き流すことにしていた。

当時の私はキリスト教徒と言うことではなかったけど、聖書、特に新約の言葉が大好きで、観光地でもよく新約聖書を参照していた。(聖書なくしては説明できないのがイスラエルだけど)。
私のことを敬虔な信者だと思った観光客も多く、いつだったか、どこかの教会だか、クリスチャン系の大学の先生だったかに「あなたのおかげでキリスト教が広まります。ありがとう。」と握手を求められたこともあった。

瞑想が実際に自分の生活の中に入ってくるのは、それから1年も経たないうちのこと。
多発するテロによってガイドの仕事がなくなり、IT企業に入ると、同僚の何人かが休暇を砂漠での瞑想施設で過ごすことを知った。休みを瞑想に使うの?と最初はびっくりしたけど、行った人が多かったし、人気でなかなか予約が取れない、とか聞いたので面白そうだな、と考え始めた。それがヴィパッサナー瞑想。初めて聞く名前だったし、日本で瞑想をしている友人など一人もいなかった。
イスラエルはテロや徴兵制度で誰もが死を身近に経験するから人生とは何か、と真剣に考え、様々な宗教や哲学を通じてその答えを見出そうとする人が多い。ヨガや禅、また霊気などもイスラエルでは割と一般的だった。

金曜日なのでイスラム教徒の礼拝があり、神殿の丘には上がれない。
嘆きの壁の前に立つと思った通り、強い波動、混乱のエネルギーを感じた。10年前は感じることのなかった波動だ。前とは別の視点でエネルギースポットを感じられることをうれしく思った。また元旦にこの特別な町にいられることにも心から感謝した。
日が暮れてきたので、エルサレム在住の日本人の友人、えみこさんの家に向かう。

彼女はイスラエル人と結婚して3人の子供がいる。
食事を作って待ってくれた。おにぎりとかてんぷらとか、久しぶりに食べる日本食はやっぱりおいしい。最初会った時は3歳ぐらいでいつも天使のように笑っている女の子だった長女はすでに無口なティーンエイジャーになっていた。

お土産にお餅を持ってきたのだけど、アニヤがそれを見つけてどうしても食べたい、と言いだす。私も食べたい・・・ラッキーなことに、えみこさん家族はお餅を食べないそうで、お土産を私たちが平らげることになった。もうこの時までに私もかなり日本食が恋しくなり、お醤油をつけたお餅を食べた時は涙が出そうだった。
久しぶりに会った彼女の夫は軍隊で1週間過ごした後で疲れ切っていた。
イスラエルは徴兵制で18歳になると2,3年、軍隊に入隊する。数年の軍役を終えた後も40歳までは毎年数週間の軍役に呼び出される。その間、仕事ができない、家族と会えないだけでなく、国境警備などの危険な任務につくこともあって生活にはかなりの負担だ。

当たり前の話だけど、軍役では身心ともにかなり鍛えられることになる。ある友人は、それが家族との絆を深めるのではないか、と言っていた。イスラエルでは週末、大抵実家に集まるなど家族の時間を持つ。軍役のつらい期間で家族の大切さを確認するとか。
軍役を終えてから数カ月間は旅に出てその疲れやトラウマを癒した後、大学に入ったり、仕事を始めたりするのが一般的だ。仕事をしてお金を貯めてから大学を始める人も多い。
私がいいと思うのは、軍隊や長い旅を経験してから大学へ入って専攻を決めることが出来ることだ。高校3年までに適職を見つけることが出来るのは稀だと思うから。

オマーンなんて考えないで、イスラエルに戻ってきたら、とえみこさん達が言ってきた。
たしかに知人もいるし、言葉も多少分かるけど・・・でも子供連れで新しい生活ってどちらにしても大変だよね、自分達だって今は考えないでしょ?と子供を産む前は日本やアメリカを行き来していた彼らに言ってみた。
すると彼は「やっぱりイスラエルがいいよ。生活は大変だけどね。」
それから「ミルイーム(軍役)さえなければね」と真面目な顔で付け加えた。

ニコルともミルイームについて話したことがある。
イガルが行く度に寝られなかったそうだ。数週間の軍役でも危険地域に配置されたら、もちろん生命の保証はない。
若い人たちで軍役つかない選択をする人もいる。(投獄されるけど)
また色々理由をつけてミルイームに行かない人もいる。
ニコルが行かないで、と言ってみたら、僕が行かなかったら、他の誰かがその危険にさらされることになる。だから行くよ、と言われたそうだ。

次の日はえみこさんの夫の両親の家に安息日の食事をしに行った。
お母さんはモロッコ系で、ものすごく料理が上手。豆のスープやパプリカのサラダなど、他では食べられない。ガイドのコースを取っている時、私は彼女の義理の弟の家に居候していて、毎週末、シャバット・ディナーを楽しみにしていた。
それぞれ2人の子供がいる4人兄弟が集まり、てんやわんやだった。

いざ、イスラエルへ

オマーン、マスカットの空港を午前3時に出発、イスタンブールで乗り継ぎ、テルアビブには午前9時40分到着の予定だ。今回、旅の手配は全てレイにまかせっきりだった。レイに再三、自分でも確認しておくように言われたけど、取りあえず空港に迎えに来てくれる友人に伝えるためにフライトナンバーを確認しただけだった。空港について改めて日程表を確認してみると、イスタンブールでの乗り換えの時間が1時間20分しかない。あれ、乗り換えって1時間半以上必要じゃなかったかな?
遅れないといいけど、と思いながら飛行機に乗り込むと、案の定、出発が30分ほど遅れた。

チケットにはゲートは15分前に閉まる、と書いてある。着陸したと同時に荷物をまとめ、アニヤをせきたてて込み合ったトランジットのセキュリティゲートについたのは出発の20分ほど前だった。なんとか間に合ったと思い、ガードに「出発が迫っているから先に通らせて」と頼むと、「行き先は?」と聞かれ、「テルアビブ」と答えると、「イスラエルだとまず別のセキュリティチェックが必要だわ。」と別の場所を指差された。

忘れていた!イスラエルに向かう飛行機への搭乗には荷物チェックとは別にイスラエル人のガードがテロ防止のため、何故イスラエルに行くのか、どこに泊まるのか、友人はいるのか、時にはその友人へ確認のための電話連絡等まで含まれる確認を行うのだ。一度、タイでの乗り換えで、友人が電話に出なくて15分位足止めされた経験がある。
イスタンブールで足止めを食いたくない!1週間しかない、私のイスラエルの休日を減らさないで!荷物はどうでもいいからなんとか自分達だけでも飛行機に乗らせてください、と神頼みしながら、前の人が終わるのを待ち、順番が来てガードにチケットを見せると「あ、乗り遅れたね。」と最初の一言。きっと睨みかえして「そうかな。まだ分からないから早くして、」と言って「イスラエルには前に住んでいて、観光ガイドをしていた、今回は娘に見せたくて連れてきたの。」とちょっとイスラエル好きをアピールしてみると、期待通り、へえ、前に住んでいたんだ、とすぐにスーパーバイザーのところへ連れて行ってくれ、時間がないからゲートまで優先案内してほしい、というようなことを頼んでくれた。その上司がセキュリティを通し、ゲートを指差してくれたが、建物の一番奥だ。
アニヤに、イスラエルに行きたいなら頑張って付いてきてね、と声をかけて猛ダッシュ。
人込みを縫いながらゲートに向かい、時々振り返るとさすがに私の気迫に負けたのか、普段なら寄り道をしたり、疲れるから走らない、とかごねたりするアニヤも必死で走って付いてきていた。ゲートについたのはほぼ出発時刻だったけど、無事入れてくれ、バスに乗り込めた。もちろん、私たちが最後の乗客だった。

テルアビブには予定通りの到着。でも予想通り、荷物は届かなかった。届いたら配達してもらうように泊ることになっていた友人の住所をフォームに記入し、外に出ると、友人、ダナが待っていてくれた。

彼女は合気道で一緒だった友人で、ちょうど同じ年だったこともあってか関係が続いている。私の知る中では最もイスラエル人らしくない(几帳面、時間を守る、という意味で)性格の女性だ。テルアビブ大学でエンジニアリングの講師をしながら博士課程を取って細々と生活をしている、これは私の中のイスラエル人の典型的なタイプだ。
と言うのは、多くのイスラエル人が勉強好きなのだ。(私の知る限り)もちろん就職に有利だ、とか考えている人もいるけど、純粋に勉強が好きで、経済的には決して楽ではないアカデミックの道を歩んでいる人が多いのだ。
ダナの同じ学部の研究室にいるウリという友人がボストンにいる時に遊びに行ったことがある。彼がMIT(マサチューセッツ工科大学)で研究生として働いていた時のことだ。
彼は、同じ研究室にNTTだかNECだか覚えていないが、日本企業から派遣されて研究室にいる日本人について、「彼、面白いんだよ。何故ここに来たのかって聞いたら、この研究に興味があるんじゃなくて、昇進したいからって言うんだ。楽しくもないのにこんなところにいるなんて、よく分からないよ。」と言ってきた。日本人なら全く問題なく理解できると思うけど・・・。

日本ほど仕事の時間が長くないことが多いからか、仕事をしながら夜間の大学に通う人も多い。前の会社では半分くらいが大学に行っていたようだった。

空港からダナの家に向かい、ダナがまだ仕事が残っている、というのでテルアビブ大学に向かう。大学の食堂で念願のホモス(ひよこ豆のペースト)を食べた後、ダナが仕事をしている間、研究室のソファーでアニヤと昼寝。同じ部屋で仕事をしている人もいたけど、全然気にされなかった。(私たちもだけど・・・)。ヤッフォと言うテルアビブの隣の港に食事に行く予定だったけど、疲れたので買い物をして家で食事をすることにした。別の大学で講師をしているダナの彼も帰ってくる。ベーカリーでホモスと同じくらい楽しみにしていたボレカス(パイみたいなもの)と、オレンジやアボガドなど買い込んで家に戻った。
イスラエルで生活していた時の食事は本当にシンプルだった。朝はメロンやマンゴー、オレンジなどの果物にピタかボレカス、昼間はカフェでサンドウィッチか何かを食べて、夜はパスタかスープにパン。野菜や豆がおいしいかったから肉や魚はほとんど食べなかった。
イスラエルはベジタリアンがとても多い。テレビなどで家畜が殺される過程などをみて食べるのをやめる若い子も多くいる。イスラエルにいた頃、私はお肉も食べていたけど、お肉は高いし、そんなにおいしくもなかったから特別な時しか食べなかった。

夜はダナの彼、シャロンがナスやズッキーニをオーブンで焼いて、サラダやタヒナ(ゴマのペースト)やホモスなどで食べた。残念なことに、アニヤはホモスが気に入らなかったらしく、またピタにしか手をつけなかった。
その日は12月31日、大晦日だったけど、イスラエルの新年はユダヤ暦に従って9月か10月なので、1月1日も普通に仕事がある。テルアビブの大きなバーなどではカウントダウンがあるけど、私たちはそのまま寝てしまった。

イスラエル

イスラエルに最初に行ったのは1998年のことだ。ベビーシッターをしたり、観光ガイドの勉強をしたり、ウルパンというヘブライ語の語学学校で勉強したりした後、一度日本に帰り、再度戻って観光ガイドとして働き、自爆テロが活発になった後はナタニヤという町のIT企業のマーケティング部に入った。その後日本に支社が出来て、最終的に東京に移動になり、退職してインドに旅立つ、という経緯をたどることになる。

出発の2週間ほど前、ナタニヤのIT企業で一緒に働いていた上司(上下関係はなかったから、同僚というのかもしれないけど、営業能力も他の分野も特出した人だった)が日本に来たから、ということで食事をすることになった。イスラエル人女性と結婚した日本人男性で、今は独立して世界中に事務所をもつビジネスマンになっている。
レイと3人でランチを食べながら、娘さんの話になると、なんともう18歳になるという。
私が「え?一緒にバーベキューをした時は確か7歳だったはず!」といつの間にか10年がたってしまっていたことに気付いた。


最後にイスラエルに行ったのは5年ほど前のこと。オーストリアのクライオンセミナーに下見に行った帰りに寄った時だった。語学学校で仲良くなった友人、ニコルが妊娠していて、彼女のお腹を撫でながらどんな子が生まれてくるのか楽しみにしてことを覚えている。
その1カ月後、予定より2カ月ほど早く生まれたその赤ちゃんをニコルはナオミと名付け、伝統的(ナオミは聖書に出てくる名前)で、かつインターナショナルな名前でしょ、とメールで報告してきた。

ナオミは未熟児として生まれてきたから、反応も遅かったが、
2歳になる少し前にウィリアム・シンドロームという、軽度の発達障害であるのが分かった。
ナオミには強いつながりを感じていたので、彼女に会うことも今回の主な目的の一つたっだ。


ニコルは私が一番大変な時にそばにいてくれた友人で、また本当のシェアリングを教えてくれた友人でもある。余裕がある時、人を助けることは簡単だけど、自分が困難に直面している時、人のことを考えることはなかなかできないものだ。ニコルと会った時、私はほとんど友人もなく、仕事もなく、頼れるものが何もなかった状態で、それでもイスラエルが好きで、なんとか滞在できる方法を探っていた。なんとか語学学校には入れてものの、ちょうどその頃、部屋をシェアしていたルームメイトとの問題で別のアパートを探さなければならなかったが、何せ知り合いもいないし、言葉も出来ないし、ほとんど情報が入ってこなかった。ニコルはベルギー生まれだが大学以降アメリカで過ごてきた建築家で、アメリカで出会ったイスラエル人の夫に伴ってイスラエルに移住したが、彼女も夫との冷めた関係やイスラエルでの困難なキャリアの立て直しに苦労している状況だった。その大変な状況の中でも彼女は私の問題を真剣に考えてくれて、一緒に行動してくれた。

イスラエルは概して生活が大変な国だ。戦争、テロの問題もあるし、それに付随して税金も高く、給料に対して物価がとても高い。地理学的な要因もあるのかもしれないが、手段を選ばず自分の道を通すのが一般的だ。それはある意味力でもあるけど、嫌悪感を覚えることもある。

私の最初のカルチャーショックは、ベビーシッターをしていた時のこと。
聖書考古学に興味を持っていた私は子供の面倒を見ながら学校に行く計画をしていた。
安息日(金曜の日没~土曜日の日没)と母親が午後2時に帰ってくる週2回のみ平日は夕方から自由な時間だったが、安息日はほとんどの施設は閉まっているし、隔離された場所に家があったので夕方から出かけて講習を受けるのは難しそうだった。大学で英語を教えていたその母親に相談してみると、イスラエルでは大学の講習は全てヘブライ語で行われているから私には無理だ、とのことだった。そうか、と思ってしばらくそのままの生活を続けることにしたけど、朝7時半から夜8時まで6カ月の赤ちゃんをはじめとする4人の子供との拘束時間では自分のことを考える時間が全くないことが分かり、2か月で辞めることにした。
何より問題だと思ったのは、自分の時間が取れないことで、赤ちゃんに無関心になり、泣いても「またか」と思うだけになりつつある自分の感情だった。

「大学で何かの勉強をするつもりだったけど、この生活では無理だから。」と伝えると、手のひらを返したように、外国人も受けることのできる英語での講習はたくさんあるのよ、と数週間前と全く逆のことを言い始め、ここにいながら講習に通うように説得され始めた。どうやら講習を始められたら家を空けることが多くなりそうなのでないと言っておいたが、やめられるよりはましだと判断したらしい。私はあまりにあけすけなので呆れてしまったし、すでにエルサレムで開催される観光ガイドの資格コースを受けることを決めていたので断り、子供達には未練があったけど家を出ることにした。

ここまではよくありそうな話だけど、私の言うカルチャーショックとは、それを聞いたイスラエル人の態度だ。
平気でうそをついていたのよ、ひどくない?と言う私に数人のイスラエル人は口をそろえて「何言っているんだ。自分に損なことを自分から言うはずないじゃないか。彼女は当たり前のことをしただけだ。」と言い、私が傷ついた意味を理解してもらえなかった。日本人の友人は皆口をそろえて「ひどいね。」と同意してくれたのだけど・・・倫理観が違うのだ。その後何度か、他の場所でも同じような経験をして、しばらくすると結局自分も同じようなことをするようになってしまい、日本に帰ってそれを是正するのにしばらく時間が必要になってしまうことになった。

ヨーロッパの礼儀正しい家庭で育ったニコルもそういった意味でイスラエルにいながら違和感をもっていて、その共感も手伝って彼女との関係が深まったのかもしれない。
私が部屋を探していると聞くとニコルはすぐに義理の妹のシャロンを紹介してくれて、私は語学学校の近くに住んでいた彼女のアパートをシェアさせてもらえることになった。
そのシャロンも今、3歳になる息子がいて、二人目の子を妊娠したということだった。
ただ、その息子も腸に障害を持って生まれ、定期的な投薬が必要で普通の幼稚園等には入れず、彼女が常に家で面倒を見ている。その状態で、2人目と聞いて、すごいな、と感心していた。


前置きが長くなってしまいましたが・・・いよいよイスラエルへ・・