をりをりかへれ母の夢路に | MTFのAkemiのblog イタリア児童文学・皆既日食・足摺岬が好き

MTFのAkemiのblog イタリア児童文学・皆既日食・足摺岬が好き

私は、イタリア児童文学が大好きで、皆既日食も大好きで、足摺岬も大好きな、団塊の世代に属する元大学教員で、性別はMTFです。季節の話題、お買い物の話題、イタリア語の勉強のしかた、新しく見つけたイタリアの楽しい本の話題などを、気楽に書いていこうと思っています。

たびたび靖国神社を話題にしてしまって、恐縮です。

ただ、昨日、「八甲田山雪中行軍隊合祀説」という誤った俗説がいまだにネット上で繁殖を続けていることを問題にしましたので、その続きとして、戦時中によくラジオで放送されていたある国民歌謡のことを書いておきます。

それは「靖国の宮にみ霊は鎮まるも/をりをりかへれ母の夢路に」という歌詞をもつ歌で、作詞者は大江一二三、作曲者は信時潔です。

この歌のできた由来の概略は、「愛国的」政治家たちが目の敵にして、食わず嫌いで読まない大江志乃夫の『靖国神社』(岩波新書、1984年)という本の「おわりに」の中に書いてあります。

 

 


大江一二三は陸軍軍人。日中戦争が始まってまもない1937年8月20日に、同じ部隊にいた若い見習士官の立山英夫という人が初陣で戦死してしまったことを悼み、遺族に弔電を打つにあたって、「五・七・五・七・七」の短歌形式を用いて、上の歌詞を片仮名で打ったのですが、それがそのまま国民歌謡の歌詞として採用されて、広く人々に知られるようになったとのことです。

母親思いの立山英夫の血まみれの軍服のポケットからは、母親の写真が出てきて、そこに「お母さん、お母さん、……」という言葉が24回も書いてあったそうで、そのことに心を打たれた大江一二三が、弔電を作文するにあたって、「せめてときどきはお母さんの夢の中にでも出てやってほしい」と思い、その気持ちを歌に託したのだそうです。

なぜ「をりをりかへれ」と書いたかというと、靖国神社の公式の教義としては、戦死者の魂は、いったん合祀されると、靖国神社という特定の場所に護国の神として留まることになっていて、遺族の待つ故郷に里帰りするのも、そうそう自由にはできないかのように、教えられていたからです。「会いたければ遺族の側が東京九段に出向くのが正式なあり方だ」というわけです。

もっとも、日本人の民俗的霊魂観の内実は、それほど窮屈なものではなく、「靖国神社でカミとして祀られてはいても、ホトケとしては家の仏壇にしょっちゅう来ている」といったものだったのでしょうが、それをあまり大っぴらに表明してしまうと、軍人として差し障りがあるので、大江一二三は、「靖国信仰」の教義の許容範囲内で、控えめに表現するしかなかったのです。

大江志乃夫は、じつはこの大江一二三の子息で、この歌詞の著作権の継承者でもありました。民俗的霊魂観を「控え目に」表現した父の苦衷をも察することができたので、戦後は軍事史を専攻する歴史学者となり、「死後まで人の魂を国家の英霊として召し上げて、自由にさせなかった靖国の教義とは、いったい何だったのか」ということを厳しく問い直すようになったのです。

最近、「をりをりかへれ母の夢路に」というキーワードでグーグル検索をかけてみたところ、とあるブログがヒットしました。ブログ主は、遊就館賛美人間で、この歌をほめたたえるとともに、「この歌について『国家が死者の霊魂を召し上げて自由にさせなかったことは問題だ』といったひねくれた解説をしていたやつがいたようだが、日本人としての心のないひねくれたやつだ。だれだったかは忘れたが」というようなことを書いていました。そのブログに、賛同のコメントをつけた右翼的な人がいっぱいいて、みんな「そうだそうだ。靖国万歳。国家護持すべきだ」というようなことを、やたらと書き込んでいました。

ブログ主も、その賛同者も、例によって「反靖国派」的な本が大嫌いな人たちのようですから、大江志乃夫の本などは読んでおらず、その「ひねくれた解説」を書いたのが、ほかならぬ作詞者本人のご子息だったことなどは、知らないようでした。

この大江父子のことを思うとき、私は、沖縄戦の海軍陸戦隊司令官・大田実少将(死後昇進して中将)とその長男・大田英雄との関係を、これに似たものとして思い出します。

大田実少将といえば、陥落寸前のときの小禄の海軍司令部壕から海軍次官あてに打った電文の中で、沖縄県民の軍に対する涙ぐましい協力ぶりを報告し、「沖縄県民かく戦えり。県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」と結んだことで、よく知られています。戦いに民間人を巻き込み、多くの犠牲を強いてしまったことにつき、わびたい気持ちが心のどこかにあったとしても、殉国をたたえる戦時中の価値観を前提とし、かつ自分も軍人である以上、「軍民一体の戦いに、こんなにもけなげに尽くしてくれた」という理由づけによって「後世の特別の御高配」を求めるしかなかったという苦衷のほどが察せられます。

大田少将の長男の大田英雄は、戦後高校の社会科教師となり、平和教育に情熱を注ぎました。「沖縄県民かく戦えり」という殉国賛美の思想を一面では否定しつつ、その電文を発した者の子孫だからこそ、電文の紙背に込められたもうひとつの意味のほうを受け継ぐのだという自覚が、どこかにあったのでしょう。これにひきかえ、父の職業的キャリアのほうを額面どおりに評価し、そのあとを追う道を選んだ次男、三男は、ともに海上自衛官となったそうで、兄弟が集まると、激しい口げんかをすることもあったそうですが、それでも絶交はしなかったそうです(大田英雄著『父は沖縄で死んだ』高文研、1989年)。

 

 


今の日本の若者にいちばん欠けているのは、「をりをりかへれ母の夢路に」の歌をいい歌だと思うからこそ、その歌詞の著作権継承者であった大江志乃夫の書いたものにも目を配ろうとか、「沖縄県民かく戦えり」の電文を当時の軍人としてはせいいっぱいの民間人への配慮として評価するからこそ、大田少将の長男の書いたものをも読んでみようとかいう、複眼的視座です。