母の日に思う | アディクトリポート

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今回はめずらしくまじめな話。

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私の母は、2005年の6月に亡くなりました。

感じとしては、「そろそろ店じまいしたかった」って雰囲気でしょうか。

胃がんの手術後に、とうぜん最初に取るべき治療手段を後回しにして、副次的なものを優先してしまい、
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結局は、その順序の違いが命取りになったようです。

でも、その治療の優先順位を選び取ったのも本人だったから、あくまでも母の選択を尊重します。

亡くなる5年ほど前から、埼玉(草加市)から千葉(津田沼・だからけっこう近い)に離れ住む私のことをえらく心配するようになって、何をそんなに心配することがあるのかと不思議だったが、おそらく無意識ながら、私に母のことを気遣って欲しい気持ちの裏返しだったんだと思う。

それではからずも、2003年からは出戻りで、最後は同居したし、入院した病院も近かったから、存分に最後を看取ることにもなり、とうとうご臨終というときも、あくまでも一つの区切りだという気がして、胸に迫る悲しみがなかったというのが事実だし、本当をいうと、母の死で涙を流したことはなかったのです。

というのも、出戻りという選択は、私の人生の路線変更が順調にいかず、やむを得ずの窮状から、だったわけですが、結局その選択については母に理解してはもらえずじまいだったからです。

母には「母が望む息子の理想像」があって、それは公共の奉仕者でしかありえず、私の前職の教員はその理想像にかなうが、
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それをやめて私が目指すクリエーターは、単なる趣味や遊びの延長でしかないんだから、まるで理想像からは正反対の存在だとしか受けとられなかったようで、そのことについては、最後まで話がかみあうことはありませんでした。

ですので、母が生きている間は、私は母の理想にかなう者にしかなり得ないと悟り、自分が望む者になれるのは、母が死んだ後からだろうと、悟ってもいたからです。

なので、不謹慎に感じられる方も多いのを百も承知で、母が亡くなったときには、「いよいよここから、本当の自分の人生が始まる!」と考えたものでした。

ところがそれから5年。

本当の自分の人生を歩み出しはしたものの、そして自分の仕事にはたしかな手応えを感じながらも、それが実社会とまるでかみあわないまま、今日に至っています。

生前は私の意図を理解せず、その実現を阻んでいた母も、霊に昇華して広い視点で物事を見つめられれば、私の意図も理解して、その実現を後押ししてくれるのでは、と思いましたが、どうもそんな兆しすら訪れません。

それでも打てる手はあきらめずに打ち続け、それがまた空振りしているある日のこと、夕方に自転車で家に向かう私は、「あれっ、お母さん?」と錯覚しました。

両手にスーパーの袋をさげた、どこかのおばさんの後ろ姿が、生前の母にそっくりだったのです。

即座に、「いやいや、そんなわけないよ。もう死んじゃったんだから」と改めて思い直し、それでも念のため前に先回りして、さりげなくそのご婦人の顔を見ましたが、もちろん別人でした。

しかしその後ろ姿に、あらためて気づかされることがありました。

そういえば、母の日常って、家とスーパーを往復ばっかりだったなあって。

そういう世界がうんと狭くて、徒歩の範囲に限られた人に、日本に舞台を限定せず、全世界を舞台に活躍したいとか、衣食住という日常の雑事とまるで別次元のところに目標を置いたって言ったところで、理解なんかできるはずがないに決まってるじゃないかって。

「なんでわかってくれないんだ」と不満たらたらでしたが、「そりゃあ、わかるはずがないよな」と思い知らされる。

わからないことを責めるのではなく、わからないで当然だと、相手の立場を理解する。

それが自分には欠けていたのだと。

というわけで、「お母さん、ごめんね」と、母が死んで初めて、つまり5年ぶりに大泣きしました。

この気づきを皆さんとシェアすることで、私の母の日の言葉とさせていただきます。